上社の四度の御狩~八ヶ岳山麓の神野に営まれた狩猟と農耕の祭り~

上社の四度の御狩
中世の諏訪大社上社では、一年を通じて数多くの神事が営まれていた。
その中でも、諏訪の祭りの古い姿をよく伝えているものの一つが、八ヶ岳西麓の広大な山野を舞台として行われた「御狩」である。
上社の御狩は一年に一度ではなく、旧暦五月の押立御狩、六月の御作田御狩、七月の御射山御狩、九月の秋尾御狩という四度の御狩として営まれていた。
興味深いのは、それぞれ独立神事でありながら、上社の年間祭祀の中で相互に関連しながら配置されていたと考えられることである。
また、四度の御狩が春から秋にかけて営まれ、その時期が田植え、稲の成長、初穂、収穫といった農耕の一年とほぼ重なっていることも注目される。
御狩というと、山野で鹿などを追う狩猟を思い浮かべるが、上社の御狩は狩猟を神事として行う古い祭祀的要素と、田植え、初穂、収穫などに関わる農耕儀礼とが、重層的に結びついていた可能性がうかがえる。
四度の御狩が行われた主な舞台は、上社本宮の東方、八ヶ岳西麓に広がる山野であった。
中世の史料などには、この一帯を「神野」と呼んだ記録がみられ、現在の茅野市東部から原村、富士見町方面へ広がる原野を含む地域と考えられる。
「神野」は上社の神事が営まれる特別な場所であった。
御狩とは大祝を中心に神官や氏人たちが神聖な山野へ出向き、神々を祀り、決められた作法に従って狩猟を行う、重要な神事だったのである。
五月の押立御狩

一年最初の御狩が、旧暦五月二日から四日にかけて行われた押立御狩である。
大祝をはじめ神官や氏人たちは神野へ向かい、祭祀とともに御狩を行った。
その後、五月五日、六日には馬を用いた神事などが続き、五月会へと祭礼が展開していった。
御狩といっても、無制限に獲物を捕らえるような狩猟ではなかったとみられる。
後世の記録には、実際に鹿を射る一方、それ以外の獲物については鏑矢などを用いて追うといった、狩猟を一定の決まりに従って行う儀礼的な性格があった。
五月という時期は、山野の活動が活発になり、農耕が本格化していく季節である。
押立御狩をそのまま農耕開始の祭りと断定することはできないが、一年最初の御狩が、五月会をはじめとする一連の神事へと続いていったことは注目される。
六月の御作田御狩

二回目は、旧暦六月二十七日から二十九日に行われた御作田御狩である。
この御狩で特に注目されるのは、その翌日に藤島社で御田植神事が行われることである。
山野で御狩を行った後、今度は田で稲の成長を祈る。
御作田御狩と御田植神事が続けて営まれていることから、御狩と稲作の祭りとが深く結びついていたことがうかがえる。
御狩で得られた獲物についても、神へ捧げる「御贄」としての意味を持っていた可能性が指摘されている。
ここでは、山から得る恵みと、田から得る実りとが別々のものではなく、ともに神々から授かる生命の恵みとして受け止められていたのかもしれない。
上社の御狩を考えるとき、狩猟の時代から農耕の時代へ単純に移り変わったと考えるだけでは十分ではない。
狩猟文化から農耕文化へと一方向に移行したと捉えず、狩猟と農耕という異なる生業に関わる祭祀が、互いに重なり合いながら上社の年間祭祀体系を形づくっていたと考える方がその実態に近いであろう。
七月の御射山御狩

四度の御狩の中でも、とりわけ盛大に営まれたのが、旧暦七月二十六日から三十日にかけての御射山御狩である。
大祝を中心とする一行は里を離れて御射山へ向かい、途中の酒室社などで神事を行いながら八ヶ岳山麓の神野へ入った。
御射山には、大祝や神官たちが籠るための仮屋が設けられ、ススキなどで屋根を葺いた「穂屋」に籠り、数日間にわたって神事を行ったことから、御射山祭は「穂屋祭」とも呼ばれている。
中世の『諏訪大明神絵詞』には、御射山祭の盛大な様子が伝えられ、多くの人馬が山野へ入り、旗が立ち並び、騎馬の人々が広大な原野を駆けながら鹿などを追った。
諏訪明神が武神として広く信仰されたこととも関係しているのか、中世には多くの武士がこの祭りに参加し、御射山御狩は武士の信仰とも深く結びついていった。
御射山御狩を単に「武士たちの狩猟の祭り」と考えるだけでは、その本来の姿は見えてこない。
大祝は神事として山へ入り、山宮の神々を祀り、そのうえで御狩を行った。
獲物を射る行為にも一定の作法があり、狩猟そのものが祭祀の一環として位置づけられていたと考えられる。
また、御射山御狩は農耕とも深く結びついており、御狩が終わった後、八月一日には稲の初穂に関わる祭りが続いたとされている。
旧暦七月末から八月初めは、稲が実りへ向かう大切な時期であり、御射山祭には、秋の豊穣を願う意味も重なっていたと考えられる。
旧暦七月末から八月にかけては稲が実り始める一方、暴風雨によって農作物が被害を受けやすい時期でもあった。
そのため、御射山祭には風雨を鎮め、作物を守る祈りが込められていたのではないかとする見方もある。
御射山に祀られる神々や穂屋、ススキ、風にまつわる伝承などを考えると、御射山が豊穣を願うとともに、風雨から農作物を守ることを祈る祭場としての性格を備えていた可能性も考えられる。
御射山祭を一つの意味だけで説明することはできず、狩猟、山の信仰、農耕、武士の信仰、風雨を鎮める祈りなど、長い歴史の中でさまざまな信仰要素が重なりなりながら形成されてきた祭りと考えるのがよいだろう。
九月の秋尾御狩

一年最後の御狩が、旧暦九月二十七日から二十九日にかけて行われた秋尾御狩(秋穂または闢廬ともいう)である。
秋尾は現在の原村方面にあったと考えられ、ここでも大祝を中心とする一行が山野へ入り、御狩と祭祀を営んだ。
秋尾御狩で目を引くのは、その供物である。
記録には、餅、酒、稲、粟、馬草などが供えられたことがみえ、いずれも人々の暮らしや農耕と深く関係するものであり、夜には火を焚き、山の神々に向かって祭りが営まれたと伝えられている。
五月から始まった四度の御狩を一年の流れとして見ると、九月の秋尾御狩は農作物の収穫期にあたる。
秋尾御狩には、狩猟神事としての性格を残しながら、春から続いてきた農作業を締めくくり、神々に実りを報告し、豊作を感謝する意味も重なっていたと考えられる。
狩猟と農耕を結ぶ一年の祭り

四度の御狩を一年の流れに沿って見ていくと、その意味がより分かりやすくなる。
五月の押立御狩は、春から初夏にかけて農作業が本格化する時期。六月の御作田御狩は田植えの時期、七月の御射山御狩は稲が成長し、初穂を迎えようとする時期、そして九月の秋尾御狩は収穫の時期にあたる。
こうして見ると、御狩は単に年四回、鹿などを狩るためだけに行われたものではなかったことが分かる。
春から秋へ農作業が進んでいく一年の節目ごとに、人々が神聖な山野へ入り、神々を祀った祭りでもあったのである。
もちろん、農耕との関係だけで御狩のすべてを説明することもできない。
鹿などの獲物を実際に射ること、大祝が狩装束で神野へ入ること、武士たちが騎馬で山狩場に出ることなどからは、御狩には明らかに狩猟祭祀としての古い層が存在していることが分かる。
その一方で、獲物を神に捧げ、田植えを祝い、初穂を供え、風雨が鎮まることを願い、秋には収穫を感謝する。
そこには農耕社会の祭祀としての層が重なっている。
狩猟の神事と農耕に関わる祈りという二つの性格が重なっていることが、上社の四度の御狩を考えるうえで大きな特徴なのである。
時代が下るにつれて、上社の祭りの形も大きく変わり、四度の御狩は中世と同じ姿では行われなくなった。
現在も八月下旬には上社御射山祭が行営まれているが、かつてのように多くの騎馬が山野を駆け、鹿などを射る御狩は行われていない。
そのため、現在の御射山祭と中世の御射山御狩を、そのまま同じものと考えることはできない。
それでも、里から神々を八ヶ岳山麓へ遷し、山で祭りを営み、再び里へ還すという流れや、農作物の豊穣を願う祈りの中には、中世以来の御射山祭祀につながるものを見ることができる。
上社の四度の御狩とは、単なる「年四回の鹿狩り」ではなかった。
五月の押立、六月の御作田、七月の御射山、九月の秋尾。
春から秋へ、八ヶ岳山麓の神野を舞台として繰り返された御狩には、狩猟、農耕、山の信仰、豊作への願い、風雨を鎮める祈りが重なり、さらに中世には武士たちの信仰も深く関わっていった。
四度の御狩を一年の祭りの流れとして捉えることで、御射山祭だけを単独で見た場合には分かりにくかった、中世上社の祭りの世界が浮かび上がってくる。
御狩とは、神聖な山野で狩猟を行う神事であると同時に、人々の暮らしを支える農耕の一年を神々とともに歩む祭りでもあった。
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出典 日本原初考古諏訪の祭祀と氏族
出典 諏訪諏訪大社上社御射山祭の歴史と民俗 調査報告書 名古屋大学諏訪文化研究会著 石川俊介著
出典 諏訪大社
