製糸大国だった岡谷~富岡ではなく信州の寒村がなぜ繁栄したのか~

製糸大国だった岡谷~富岡ではなく信州の寒村がなぜ繁栄したのか~

映画「あゝ野麦峠」

 

「あゝ野麦峠」という映画がある。

 

明治中期、現在の長野県岡谷市にあった製系工場に、岐阜県飛騨地方から野麦峠を越えて働きに出た少女達の姿を描いた作品である。

 

明治の初めから大正、昭和初期にかけて殖産興業の国策のもと、当時の主力輸出産業の生糸で大きく発展していた諏訪地方岡谷へ、現金収入の乏しい飛騨の村々から大勢の女性たちが、工女として出稼ぎのために野麦峠を越え働きに来ていた。

 

映画は昭和四十三年(一九六八)に朝日新聞社から発表された山本茂実の『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』を原案として製作され、昭和五十四年(一九七九)の映画化で全国的に有名になった。

 

映画は制作当時の社会雰囲気の影響を受け、工場を経営する資本家と、安い賃金で競争させられながら重労働をしている女工という構成で、階級闘争を意識させる筋立てになっていた。

 

吹雪の中で遭難する女工、権力を乱用する中間管理職と懲罰、微細な糸の塵で肺を病む女工など、労働者は搾取されるものといった偏った価値にエッジが立った作品に仕上がっている。

 

 

映画が有名になった一方で、製糸産業には負のイメージがついた。

 

メディアの影響は甚大で、戦後、製糸産業が衰退する中で精密、光学産業に置き換わっていた岡谷は、昭和五十四年(一九七九)の映画が上映されて以降「女工いじめの街」というレッテルが張られ、岡谷市内の企業への就職希望者は激減した。

出典 『信濃』66巻10号(2014)

 

 

明治時代の生糸の生産は、当時の日本の輸出総額の三分の一を占めていた。

 

最大の産地だった岡谷は、最盛期には日本の外貨獲得のほぼ半分を占めるほどであり、明治以降の近代化日本の経済を支えてきた町であった。

 

しかし、その誇りある功績はすっかり無視されたのである。

 

作られたイメージに地元の人々は胸を痛めた。

 

 

明治中期には、岡谷を中心とした信州へ糸引き嫁ぎに行くため、多くの工女達が雪の野麦峠を超えるようになるが、明治四十四年(一九一一)になると鉄道の中央線が全面開通し、野麦峠を超える人は少なくなり、昭和九年(一九三四)には高山線が全線開通したことによって、野麦峠を超えるのは地元の人達だけになっている。

 

明治四十一年(一九〇八)頃の岡谷は片倉製糸のような大きい工場から家内工業的な工場まで数えると二百四十七もの工場があり、工場がしのぎを削り、多くの工女とそれに相応した原料繭を集めなければならないという企業競争が繰り広げられた。

 

工女の争奪も熾烈で、前年度の工女賃金、賞与が他所より少なかったことで工女に逃げられてしまうなど、映画のように権力を乱用する中間管理職や懲罰があれば次回の契約更新で工女は集まらないのである。

 

工女は県外から募集しただけではなく、地元のほとんどの子女も就職しており、日本の基幹産業を自負していた業界で、その生産を実際に担っていた工女は、経営者にとっては宝であり、本人達もそれを誇りとし、憧れの職業だったのである。

 

製糸工女のためにつくられた「千人風呂」と呼ばれる温泉浴場は、現在でもその文化財的な建物と共に大切に利用されており、余暇には工場対抗の運動会も開かれたようで、工女達のはつらつとした姿の写真が数多く残されている。

 

製糸王が奉納した靖国神社の石鳥居と狛犬【片倉館】
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現在の労働基準で考えれば過酷な労働環境であったかもしれないが、当時の女性の仕事としては最先端にして好待遇であった。

 

地方から出稼ぎに来る工女の中には、学校を出ていない人も大勢いたので、工女が無学であってはいけないということで、製糸家は学校を建てて修学までさせている。

 

また、衛生管理も徹底していて、無医村の多い時代に、諏訪地域では開業医が林立していたのが現実である。

 

 

ふるさとに負のイメージを植え付けられた諏訪の人々は、ふるさとについて多くを語る事がなくなった。

 

岡谷の製糸業の歴史

 

蚕が作った繭から糸を取り出し、生糸にすることを「製糸」と言う。

 

製糸の歴史は古く、中国から伝来し、弥生時代には既に始まっており、「手挽(てびき)」という日本独自の技術が発展した。

 

その後、「座繰り」という時代から「機械製糸」の時代に移り変わる。

 

ヨーロッパの産業革命により機械化が進む中、安政六年(一八五九)横浜港開港を機に日本は外国からの製糸技術を取り入れていく。

 

開港当時、海外から求められていたものの中で、多くを占めたのは「生糸」であった。

 

その割合は万延元年(一八六〇)には、日本からの総輸出品額の六十六パーセントにも上り、横浜港開港以来、昭和九年(一九三四)までの七十五年間、生糸は日本の輸出総額の第一位を占めた。

 

「生糸」は日本にとって一番の輸出資源であり、外貨を稼ぐための大きな力であった。

 

この歴史的な時代背景に「岡谷」の果たした役割は大きく、最盛期には生糸全国生産量の二十五パーセントを占めていた。

 

 

明治以前の諏訪地方の産業は九十パーセントが農業であった。

 

農業には耕作面積が少なく、冬が長く寒さが厳しい土地であったので、農業だけでは生活が成り立たず、「農閑余業」が副業として早くから行われた。

 

岡谷の余業として「綿打」は相当盛んに行われていた。

 

 

富岡製糸工場が官営だとしたら、岡谷の大規模な製糸工場群は民間の力である。

 

明治三年に政府が官営の製糸工場を富岡に造ることを計画してはじまったのが、富岡製糸場である。

 

官営の工場は明治二十六年まで続くが、新しい機械を使いこなすことが出来なかったのか採算が合わずうまく発展しなかった。

 

岡谷の製糸家たちは、製糸結社を作り品質の向上を図るとともに繭の共同購入など交渉力を高め、諏訪式繰糸機など機械の改造など技術向上を図った。

 

 

日本で洋式製糸が始まった明治三年から、ユネスコの世界遺産に登録された富岡製糸場、片倉富岡工場閉業(昭和六十二年)までの百十七年間を眺めて見えてきたのは、製糸家の血のにじむような苦闘の歴史であった。

 

原料代が八割という重荷を背負い、激しく変動する生糸相場に翻弄される業界で、米国絹業界から絶えず糸質の向上を要求され、際限ない技術改善に取り組む日々であった。

 

大正時代の大好況もあったが、通してみれば、晴れの間の少ない、灰色の歳月であり、製糸業から成長して生き残っている大手は、倫理的経営の双璧といわれた片倉とグンゼだけで、数多の製糸家が落伍して消えていった。

 

今井五介は岡谷製糸の成功のもとを問われて「貧しかったからだよ。食えなかったからだよ。」と一言で答えたそうである。

 

必死で働いた経営者たちの辛苦、その製糸業を底辺で支えて懸命に糸を取った工女、身を粉にして働いた工男、技術革新に心血を注いだ技術者、輸送業など周辺業界で苦闘したたくさんの人たち、知恵と忍耐と汗で築いた岡谷の製糸大国がそこにあった。

 

出典 あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史 山本茂実 著

出典 岡谷製糸王国記 信州の寒村に起きた奇跡 市川一雄 著

出典 蚕糸王国信州ものがたり 阿部勇 著

出典 シルク岡谷 製糸の歴史

 

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岡谷蚕糸博物館-シルクファクトおかや-

 

岡谷蚕糸博物館は製糸工場を併設するシルクをテーマにした博物館である。

 

日本で唯一、民間の製糸工場を併設する世界でも類を見ない博物館である。

 

日本の近代化の礎を築いた蚕糸業の歴史、文化を知るだけでなく、糸繰りの実作業を間近で見られ、製糸工場の匂い、熱気、音などを体感できる。

 

一年を通してカイコを飼育しており、いつでも見学ができる。

 

住所 〒394-0021岡谷市郷田一丁目4番8号
TEL  0266-23-3489

 

開館時間 9:00~17:00、宮坂製糸所・まゆちゃん工房は9:00~12:00、13:00~16:00
休館日 毎週水曜日、祝日の翌日、12月29日~1月3日、展示替え等による臨時休館あり

 

入館料 一般500(400)円、中高生300(200)円、小学生150(100)円 ※( )内は10名以上の団体料金
駐車場 33台(うち障がい者用2台)/大型バス専用3台

 

SILKOKAYA物語-岡谷市について
岡谷市蚕糸博物館 シルクファクトおかや

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