和田嶺合戦~幕末の中山道と甲州街道の交わる宿場町~

和田嶺合戦~幕末の中山道と甲州街道の交わる宿場町~

諏訪湖博物館・赤彦記念館 企画展「浪人塚160周年 和田嶺合戦と弔いの歴史」の写真より

和田嶺合戦

 

幕末の元治元年(一八六四)に起きた「和田嶺合戦」は、尊皇攘夷を掲げて倒幕のために京都に向かう水戸藩の浪士らでつくる「水戸天狗党」と、これを阻止するよう幕府から命じられた諏訪をおさめていた高島藩と松本藩の連合軍が下諏訪町郊外の和田峠付近で迎え撃った戦いである。

 

高島、松本両藩は元治元年(一八六四)十月二十日、樋橋(とよはし)(現下諏訪町)で戦い、浪士隊側が勝った。

 

戦いの場所は「和田峠」では無いので、下諏訪ではこの戦いを「和田嶺(わだれい)合戦」と呼んでいる。

 

 

諏方地域においては、幕末の三大事件(皇女和宮の通行、和田嶺合戦、赤報隊)と呼ばれ、日本史の中においても大きな出来事であった。

 

幕末の思想

 

幕末は嘉永六年(一八五三)の黒船来航により始まり、異なる思想がぶつかりながら維新へと続く時代であった。

 

江戸時代中頃から国学が盛んになり、国史(日本史)や神道の研究が進むこととなった。

 

国学は学者だけではなく、知識層である武士や豪農へも広がりを見せ、実践的な動きでは、天皇陵の修復や諸藩では藩祖を皇族に結びつける動きも出てきた。

 

こうした流れから、尊王論は江戸時代中期に有力な思想となっていた。

 

また、清国がアヘン戦争で英国に敗れたという話が伝わり、英仏露からの侵略の危機が感じられるようになると、国防についての議論が知識人の間で盛り上がり、ペリーの来航で攘夷運動が一気に広まった。

 

佐幕論、開国論、尊王論、攘夷論、結合した尊王攘夷論、日本中がより良い未来を選択すべくためにどうするか考える。

 

時代は鳴動した。

 

黒船来航によって始まった幕末期の主な思想のまとめ

 

尊王(そんのう)論:天皇を崇拝する思想。拠り所を天皇に求め、崇拝する考え方。
攘夷(じょうい)論:外敵を撃ちはらう。海外との開国通商を拒否し、諸外国の排斥を目指す考え方。
佐幕(さばく)論:幕府を補佐する。江戸幕府を支持して、難局を乗り切る考え方。
開国(かいこく)論:鎖国をやめて、諸外国との外交で富国強兵を目指す考え方。
尊王攘夷(そんのうじょうい)論:尊王論と攘夷論を併せ持った考え方。天皇を尊び、夷狄(外敵)を退けるという思想
公武合体(こうぶがったい)論:朝廷と幕府が協力し、難局に対処しようという考え方。
公議政体(こうぎせいたい)論:合議制による政治決定を目指す考え方。
倒幕(とうばく)論:江戸幕府を倒し、新政府を樹立しようという考え方。

 

天狗党の乱

諏訪湖博物館・赤彦記念館 企画展「浪人塚160周年 和田嶺合戦と弔いの歴史」の展示より

 

天狗党の乱は幕末期、水戸藩尊攘激派(天狗党)による筑波山挙兵とそれを契機に起った争乱である。

 

天狗の呼称は水戸藩藩主徳川斉昭が天保の藩政改革を実施した際、改革を喜ばない門閥派が改革派藩士を批難したところから発したもので、改革派には軽格武士が多かったことから、成り上がり者が天狗になって威張るという軽蔑の意味がこめられていた。

 

安政期以後、水戸藩改革派の系譜をひく尊攘派天狗党と反対派の藩内保守派(諸生党)とが激しく抗争し、これに世直し騒動も加わって、領内農村も複雑な様相をみせた。

 

元治元年(一八六四)三月、天狗党の藤田小四郎らは攘夷を唱えて筑波山に挙兵したが、諸生党(水戸藩の保守・門閥派)との泥沼化した藩内抗争に陥り敗北する。

 

その結果、武田耕雲斎(こううんさい)を総大将として尊王攘夷の素志を朝廷に訴えることとし、京都をめざし大挙して水戸藩領を出た。

 

元治元年(一八六四)十一月一日、大子を出発、下野、上野、信濃、美濃を通り越前新保に至る。

 

京にいた一橋慶喜に嘆願するために、北陸に迂回して入京を目指したが、頼みとしていた一橋慶喜は天狗党に関与しない方針を固め黙殺した。

 

天狗党は越前新保に至った時、追討軍の総攻撃のあることを聞いて降伏した。

 

武田ら八百二十三人は元治元年(一八六四)十二月二十日加賀藩に投降した。

 

厳しい軍律のもと難行を続け、上野の下仁田や信濃の和田峠では幕命を受けた諸藩兵と戦った。

 

一隊は慶応元年(一八六五)正月敦賀の鯡倉に監禁され、二月、武田・藤田ら三百五十二人が斬罪、他は遠島・追放などの罪に処せられた。

 

維新黎明期の天誅組や生野の変などと並ぶ激派事件である。

 

二世紀半途絶えていた実践~和田嶺合戦~

諏訪湖博物館・赤彦記念館 企画展「浪人塚160周年 和田嶺合戦と弔いの歴史」の展示より

 

諏訪には高島藩の高島城がある。

 

その城に、元治元年(一八六四)十一月十七日夜十時ころ、江戸の高島藩邸から急飛脚が入った。

 

幕府の天狗勢追討令であり、江戸藩邸からの書状も添えられていた。

 

内容は、天狗勢が中山道を西に進んでいるが甲府を目指すと思われるので、藩ではただちに出兵して和田峠でその動きを阻止するようにというものであった。

 

下諏訪は中山道と甲州街道の合流点といってもよく、そこから二十里ほど南下すれば甲府に達する場所であった。

 

江戸にいる藩主、諏訪忠誠公は当時老中をされておられ、江戸の殿様からも家老を帰らせ討伐するとの沙汰があった。

 

藩では、深夜ではあったが全藩士とその二男、三男さらには十七歳から五十歳までの者の総登城の急触れを出し、小役人、徒士、弓持ち、足軽、中間などにも城への招集を命じた。

 

諏訪地方は南北朝時代から尊王の気風が濃く、そうした精神的な土壌にあったので、幕末には尊王をとく国学が盛んになり、藩士の間に尊王の思想が寝ずよく浸透していた。

 

そのような藩士にとって、心身を賭して尊王のために行動している天狗勢と戦うことを避けたいという空気が濃かった。

 

しかし、藩主、諏訪忠誠が幕府政治に参画していた。

 

若年寄を経て老中に昇進して外国御用を担当しており、天狗勢追討令は、幕府の閣議で決定したもので、それに加わっている諏訪忠誠の藩が追討令に反する動きに出た場合、藩主の面目が丸つぶれになると、藩主、諏訪忠誠の立場を考え非戦論は消えた。

 

天狗勢が甲府を目指すとすれば、必ず下諏訪宿を経由する。

 

高島藩がそれを迎え撃てば、激しい戦闘が繰り広げられ、下諏訪の宿場は銃砲撃にさらされ焼き払われる可能性もあった。

 

藩士たちは、自分の家族の生命を守り、町を戦火からまぬがれさせるために、生命をかけて天狗勢と戦わなければならなかった。

 

 

高島藩は、峠から下りて来る天狗勢をむかえ討つ適した地として、樋橋村に陣をしいた。

 

その後、天狗勢に対して松本藩勢と別々に戦うのは不利と考え、高島藩勢が陣地をかまえた樋橋村へ引き入れた。

 

元治元年(一八六四)十一月二十日、両軍の衝突は先ずは浪士側から切った火蓋で開始された。

 

戦は午後二時ころから始まり日暮れまで続いた。

 

浪士側は山の地勢を降り、砥沢口から樋橋の方へ高島松本両藩勢を圧迫し進んだが、高島松本両藩勢もよく防いだ。

 

浪士側が突撃を試みる度に吶喊(とっかん)し逆襲して追い返すこと三度におよび、浪士側も進むことできなかった。

 

その後、日没近くになり西日を受けて浪士側は銃砲撃が困難になった。

 

奇策以外に勝利をつかむことは出来ないと判断し、軍勢二百名を高島松本両藩の陣の右後方にある山に迂回させる作戦を企て実行した。

 

迂回勢が突然喊声をあげて襲いかかって来るが、高島松本両藩は兵を二手に分け白兵戦に持ち込んだ。

 

その時に、香炉岩の影に控えていた天狗勢の遊撃隊が別方向から押し出して来た。

 

両方から挟み撃ちされた高島松本両藩勢は浮足立ち、この好機を逃すまいとして、天狗勢本陣は全軍に総攻撃を命じた。

 

これによって、高島松本両藩勢は全軍混乱して総崩れとなった。

 

戦に敗退した高島松本両勢は高島城の方角へ落ちて行った。

 

その後、浪士勢は街に下ってきて下諏訪宿に泊ったが、町の人々の混乱は一様ではなく、家財道具を穴に埋めて隠したり、諏訪大社に逃げ込んで寒さに震えて一晩を過ごした者もいた。

 

天狗党は翌日には伊那路を天竜川に沿って下って行った。

 

この戦を「和田嶺合戦」「砥沢口合戦」「樋橋合戦」などと呼ぶ。

 

この戦で命を落とした者は、松本藩の戦死者は五名、高島藩の戦死者は六名、天狗党の戦死者は十七名、それぞれに手負いの人多数であった。

 

明治二年に高島藩は命を落とした浪士のために塚を造り、翌年、水戸に照会して戦死者の名を得て碑を建てて供養した。

 

命を落とした浪士のために~浪人塚~

 

中山道と甲州街道の交わる宿場であった下諏訪は、その時代時代の新しい世の動きを街道からいちはやく感じさせられてきた。

 

元治元年(一八六四)冬、水戸浪士通行による和田嶺合戦は、幕末を経て明治維新の生みの苦しみを身近にかつ深刻に味わせたものの一つであった。

 

諏訪の地に二世紀半(二百五十年)無かった実戦が、元治元年(一八六四)幕末の混乱の中、和田嶺砥沢口で行なわれた。

 

藩には番方とよぶ組織があって、平素は訓練に怠りはなかったとはいえ、実戦の雰囲気は失われ全てが形式化いていたのであるから、一藩をあげて周章狼狽したというのが実態であった。

 

はじめて実戦参加した武士、はじめてその平和を戦場に奪われた庶民たちの驚きと動揺は計り知れない。

 

この合戦を偲ぶ犠牲者慰霊のことは、戦いの直後から始まり、五十年祭、七十年祭、九十年祭、百年祭など、子から孫へと代々伝えられており、戦で亡くなった人々の慰霊がその都度盛大に催され、今では水戸との交流がなされている。

 

そして、令和六年(二〇二四)は百六十年にあたる。

 

諏訪湖博物館・赤彦記念館では、令和六年(二〇二四)八月三十一日から十一月三日まで企画展「浪人塚160周年 和田嶺合戦と弔いの歴史」を開催している。

 

史跡 浪人塚
ここは浪人塚といい、今から一二〇年前元治元年(一八六四年)十月二十日に、この一帯で水戸の浪士武田耕雲斎たち千余人と松本、諏訪の連合軍千余人が戦った古戦場でもある。
主要武器はきわめて初歩の大大砲十問くらいづつと猟銃少しだけで、あとは弓、槍刀が主要武器として使われた。
半日戦に浪士軍に一〇余、松本勢に四、諏訪勢に六柱の戦死者があり、浪士たちは、戦没者をここに埋めていったが、高島藩は塚を造って祀った。
碑には、当時水戸に照会して得た六柱だけ刻まれている。
明治維新を前にして尊い人柱であった。

 

下諏訪町教育委員会設置の説明板より

 

出典 増補・和田嶺合戦 下諏訪町町立博物館編

出典 夜明け前第一部(下) 島崎藤村 著

出典 天狗争乱 吉村昭 著

幕末の思想をわかりやすく解説! 尊王攘夷論、佐幕論から倒幕論まで 戦国ヒストリー

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