戦艦大和最後の艦長『有賀幸作』~法性神社前の記念碑~辰野町

戦艦大和最後の艦長『有賀幸作』

沖縄戦

 

昭和二十年(一九四五)四月五日、豊田副武連合艦隊司令官は、神重徳首席参謀の提案を受け入れ、戦艦「大和」、軽巡「矢矧」、駆逐艦八隻による沖縄海上特攻作戦を決定した。

 

護衛戦闘機なしに沖縄西方海面へ突入し、おびただしい敵水上艦艇と輸送船団を攻撃撃滅せよという、神がかりと言うほかない作戦である。

 

建武三年(一三三六)五月、後醍醐天皇の公卿宰相坊門清忠の愚策のために、楠木正成は敗北と知りつつ、手勢七百騎をひきいて兵庫の湊川に赴き、数万の足利尊氏軍と戦い全滅したが、それと似たようなものであった。

 

戦艦「大和」以下十隻の沖縄海上特攻隊は、四月七日昼過ぎ、九州南西海面において、米空母機延べ三百八十六機と約二時間にわたり激闘したが、予想されたとおり、「大和」「矢矧」、駆逐艦四隻が撃沈され、将兵四千三十七名、うち「大和」乗員三千五十六名が戦死して壊滅した。(「大和戦闘詳報」「第二水雷戦隊戦闘詳報及び戦時日誌」)

 

艦長有賀は、露天の防空指揮所で、最後の最後まで泰然自若、堂々と勇戦敢闘したが、完全に戦闘不能となり、第二艦隊司令長官伊藤整一中将以下三千余の将兵および「大和」と運命を共にした。

 

 

日米戦争の最終的な戦闘行為、太平洋戦争(第二次世界大戦)の最後の戦いとも言えるのが沖縄戦である。

昭和二十年(一九四五)四月一日から六月二十三日まで、沖縄本島を中心に行われた太平洋戦争(第二次世界大戦)の戦闘である。

 

日本軍と米軍の間で行われ、日本本土防衛の最後の砦とされた沖縄は、戦場となり壊滅的な被害を受けた。

 

沖縄戦は、民間人を巻き込んだ地上戦として特に悲惨な戦いとなり、多くの命が奪われた。

 

昭和二十年(一九四五)の国際情勢と日本のおかれた状況は、昭和十九年(一九四四)にサイパンが陥落、レイテ沖海戦が終わり、米軍は飛び石状態で島を奪取してくる状態であった。

 

昭和二十年(一九四五)二月十九日から三月二十六日の間、日本は硫黄島の戦いが行われ、米軍に島を奪取される。

 

硫黄島の戦いをしている間の三月九日十日には、東京大空襲にみまわれる。

 

サイパンを奪取され、そこからB29が飛んでくる。

 

いよいよ次は沖縄を死守せよという流れである。

 

 

沖縄戦というのは昭和二十年(一九四五)四月一日からはじまるが、基本、陸軍は沖縄本島に残って目覚ましい戦いをする。

 

「大和」の「特攻せよ」というのは、この沖縄戦を空からの支援のために行けという作戦であったが、その空軍はもはや無かった。

 

「大和」は空の護衛なしに突っ込んで行くから、良い標的になってボコボコにされた。

 

「大和」の特攻は四月一日から始まる沖縄戦の途中の話である。

 

少年時代の有賀幸作

 

有賀幸作は、明治三十年(一八九七)八月二十一日、長野県上伊那郡朝日村大字平出(現辰野町)に有賀作太郎の長男として生まれた。

 

武の守護神として武将が崇敬した諏訪神社に深い関係があるという有賀性は、諏訪市と辰野町の中間にある有賀峠の両側に発生した。

 

有賀幸作は小柄だが、野性的で、水泳、魚取りがうまく、頭が良かったので、体育も学業も抜群にすぐれた少年に育った。

 

明治四十三年(一九一〇)三月、朝日村立尋常小学校から名門の長野県立諏訪中学校(現諏訪清陵高等学校)に入学する。

 

軍令部第一(作戦)部長中沢佑少将、戦艦「武蔵」艦長・第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将、洋画家中川紀元、日本女子大学学長有賀喜左衛門、「琵琶湖周航の歌」の作詞・作曲家小口太郎などが、ここから出ている。

 

中沢は有賀の二年上、古村は一年上、中川は三年上、有賀喜左衛門は一年上、小口は同級生である。

 

当時、海軍兵学校は第一高等学校(旧制、現東大)、第三高等学校(旧制、現京大)、陸軍士官学校などとともに、全国で最難関の学校の一つであった。

 

海兵(海軍兵学校)や陸士(陸軍士官学校)がこれほど難関だったのは、両校を出た陸海軍士官の社会的地位がすこぶる高いのと、両校とも学費、衣食住が無料だったためである。

 

有賀幸作は中沢と古村からつよく刺戟をうけ、海軍兵学校を熱望し狭き門をくぐる。

 

 

当時の海軍兵学校は大日本帝国海軍のエリート養成機関であり、学力、運動機能共に非常に秀でたわずかな者しか通れない狭き門であった。

 

有賀幸作の海軍兵学校の同期に辰野町沢底出身の古村啓蔵がいる。

 

古村は有賀幸作の一級上、明治二十九年生まれだが病のため一年留年し海軍兵学校では有賀幸作と共に四十五期生となった。

 

古村は戦艦「武蔵」の第二代艦長であり、「大和」が沈没した天一合作戦では軽巡洋艦「矢矧」に乗艦し第二水雷戦隊を指揮し、「大和」最後の様子を海上で漂いながら見守った人物である。

 

海の武将 有賀幸作

 

昭和十四年(一九三九)十一月十五日、有賀幸作中佐は、第二艦隊第二水雷戦隊の第十一駆逐隊指令となった。

 

この駆逐隊は「吹雪」型の特型駆逐隊「初雪」「白雪」「吹雪」で編成されていたが、有賀が着任したときは「初雪」「白雪」二艦であった。

 

「初雪」も、かつて有賀が乗艦した軽巡「那珂」、駆逐艦「電」のように、大事故を起こし修復された艦である。

 

「禍を転じて福となす」ことを考え、有賀の配置は縁起直しに乗り出してくるみたいであった。

 

昭和十六年(一九四一)十二月八日、司令の有賀幸作大佐は、最新鋭駆逐艦「嵐」「野分」「萩風」「舞風」をひきいて、太平洋戦争に突入した。

 

この第四駆逐隊は、南シナ海、インド洋、ミッドウェー島、ニューギニア南東部、ガナルカナル島方面に転戦し、どの海域においても獅子奮迅の勇戦敢闘をくりひろげた。

 

ガナルカナル方面で難戦を続けていたころ、出撃すれば米軍の飛行機や魚雷艇などからよく被害を受けるので、多くの司令や艦長は、出撃回数がふえることを避けようとしたが、有賀司令と「叢雲」(駆逐艦)艦長の東日出夫少佐は、いやな顔少しもせずに「おお行こう」と出かけた。

 

それで、あまりにも両人を酷使する結果になったので、山本長官が「有賀を殺すな」と言われた話がある。

 

昭和十八年(一九四三)三月、有賀大佐は第八艦隊旗艦の重巡洋艦「鳥海」艦長となり、ソロモン諸島の作戦に出撃するようになった。

 

艦長の爆弾、魚雷にたいする回避運動は秀一で、何をやるにしても、教科書にとらわれず、その場の状況に適応した戦法を取っていた。

 

緊迫した場面になってもすこしも動揺しないばかりか、むしろ危機になればなるほど思考が活発になり、緊迫感が闘志に変わり、凄まじい行動力に結びついていく人であった。

 

昭和十九年(一九四四)十一月六日、有賀幸作大佐は第二艦隊司令部付の辞令をうけ、同艦隊旗艦の「大和」艦長を内示された。

 

四十七歳三ヵ月のときである。

 

第四駆逐艦隊司令と「鳥海」艦長で示した抜群の力量をみこまれ、「大和」艦長にえらばれたのである。

 

有賀は「本懐これに勝るものなし」と感銘し、「大和」を死所と思いさだめた。

 

法性神社前の有賀幸作記念碑

 

有賀幸作の逸話は多い。

 

どんな時でも部下は有賀館長の顔を見ると安心したと言われ、物事に頓着しない、うるさいことをくどくど言わない方だったようである。

 

戦後、遺族は東京に越して現在は生家はないが、お墓だけは見宗寺に代々の墓として残っている。

 

以前は、大和の生存者も大勢墓参りにお越しになっていたが、近年は減ってしまったようである。

 

戦後七十年の時には有賀艦長が好きだったタバコをお供えしてあるのを見かけた話がある。

 

そして、今年は戦後八十年の年にあたる。

 

 

昭和四十二年(一九六七)五月六日、朝日小学校、諏訪中学校、海軍兵学校の同期生の有志、建設委員会が全国から篤志を集め、平出にある諏訪神社系の法性神社前に有賀幸作の記念碑を建立し除幕式をおこなった。

 

記念碑建立には、建設委員会に名を連ねるはもとより古村啓蔵も大きく関わっている。

 

画家・中川紀元(樋口出身)が描き、彫刻家・瀬戸団治(赤羽出身)が彫った「戦艦大和最期の日」レリーフはおそらく古村啓蔵の証言により作られたと思われる。

 

三峰川の自然石でつくられた縦二・四メートル、横二・六メートル、厚さ八十センチの碑文の中央に「大和」の戦闘図、その右下に有賀の肖像、下方に碑文が刻まれている。

 

 

碑文(前面)

 

国に捧げた君たちの尊いいのちよ
とこしえに世界平和のいしづえたれと祈る

 

建立趣旨(裏面)

 

太平洋戦争の悲劇を再び繰り返すことのないために私達はこの碑を建てた。

 

昭和二十年四月 日本海軍は戦艦大和を旗艦として残存僅か十隻を以って海上特別攻撃隊を編成し沖縄に突入しようとしたが、進撃の途上敵機の猛烈な攻撃に遭い種子島西方海上において遂に敗滅した。

 

その時巨艦大和に艦長として坐乗していたのは平出出身の有賀幸作君であった。

 

君は艦の沈没に先立ち総員退去を命じ艦橋のコンパスに身を縛り艦と運命をともにした。

 

私たちは君と共に祖国のために壮烈な戦死を遂げた多くの将兵の心情を偲び日本海軍の最後の日を目に浮かべる。

 

昭和42年5月
有賀幸作君記念碑建設委員会

出典 広報たつの 2015年10月 No.524

出典 戦艦「大和」艦長有賀幸作 逆境に強い実践型指揮官の生涯 著 生出寿

出典 戦艦大和ノ最後 吉田満

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