【諏訪大社下社春宮を歩く】諏訪信仰の歴史を感じる散策【下諏訪】

諏訪大社下社春宮を歩く

春宮大門の大鳥居の注連飾り

諏訪大社下社春宮

諏訪大社下社春宮、秋宮、両社の鎮座に関しての文献や資料はなく、従来の諸説は上社に残っている文献を主にして述べているにすぎない。

 

下社においては、春宮、秋宮の二社があり、しかも、この両社が六ヵ月毎に神霊が交替して鎮座することは、上社の本宮と前宮との関係とは全く違っている。

 

下社の主要な祭祀である遷座祭(お舟祭)をみるに、その神霊が一年に二回移御するのである。

 

一年の前半は春宮に、後半は秋宮に鎮座される古儀を現在も残している。

 

神霊が一年の前半の春季に鎮座するから春宮と称し、後半期の秋に鎮座する場所を秋宮と名づけているのである。

 

一社の祭神が春秋二季にその鎮座の地を替えることは、他の神社では例をみない。

 

これは一体何を意味し、何を物語っているのか、今は知る由もない。

 

 

諏訪大社下社春宮は本殿がなく、宝殿奥にそびえる杉の木が御神木となっている。

 

 

秋宮の社殿は安永十年(一七八一)に立川流の宮大工が完成させた。

 

対して、春宮の社殿は大隅流の宮大工の作で、秋宮より後に着工して一年早い安永九年(一七八〇)に竣工した。

 

春宮と秋宮でそれぞれ彫刻などが異なるため、似て非なる二つのお宮の個性を見比べるのも一興である。

 

 

上社が古い形式の私印で、御符の命令を下達しているのにたいして、下社は平安初めから官印を使用している。

 

このことから、古い諏訪祭政体の上に、大和朝廷の息ぶきのかかった時期が、上社より下社の方がはやく、八世紀から九世紀ころと考えられる。

 

宝徳元年(一四四九)内乱による下社の焼失や、永正十五年(一五一八)上社に攻め立てられ、古代以来の下社大祝家、名族金刺(かなざし)氏は姿を消すことになる。

 

下社は大祝金刺氏の勢力をもって上社と拮抗していたが、今はその全盛期の記録はほとんど失われてしまっている。

 

諏訪大社下社春宮を歩く

下諏訪99分の街歩きマップ加工

 

社頭から真直ぐ八〇〇メートル程伸びる道路は、かつては春宮の専用道路で、下社の大祝金刺一族を始め多くの武士たちが流鏑馬を競った馬場でした。

 

下諏訪町観光協会が出している
「歩きたいわ しもすわ 99分のまちあるきマップ」「下諏訪観光マップ おいでなして、しもすわ」を参考に諏訪大社下社秋宮を歩いてみた。

 

下諏訪町ホームページより
「歩きたいしもすわ-99分のまちあるき」(PDF/4MB)

 

下諏訪観光協会ホームページより
「下諏訪観光マップ おいでなし、しもすわ」(PDF/4MB)

 

大門通りを下社春宮へ向けて進み、下馬橋を過ぎて少し進むと、右側に諏訪大社下社春宮駐車場(無料)があり、そこより出発する。

 

下馬橋(げばばし)

下社春宮側に向けて下馬橋をズーム

 

春宮の大門通りは、かつては鬱蒼たる並木道であった。ふた抱えもあるサワラの大木が並び立ち、社前に至る八〇〇メートルの参道は神々しい雰囲気であった。

 

昭和九年の室戸台風でその大半が倒れ、その後、残った木も枯れ、道路舗装なので今は、まる裸になった社頭をひっそりと守っているのは下馬橋である。

 

御手洗川をまたぐ反り橋で、地元の人たちは太鼓橋と呼ぶ。

 

春と秋の遷座祭(お舟祭)に神輿だけがお通りになる神橋である。

 

出典 下諏訪歴史散歩

 

諏訪大社下社春宮下馬橋

 

この橋は春宮大門通りの中央に位置する。

 

御手洗川にかけられた屋根付きの反橋です。

 

昔、春宮参拝の折には、ここで下乗下馬しなくてはならず、殿様でも駕籠や馬から下りなければならない場所であったため、下馬橋の名がつきました。

 

その形から俗に太鼓橋とも呼ばれます。

 

現在でも年に二度の遷座祭の行列の内、神輿だけがこの橋を通ることができます。

 

梁行一・八間(三・二五メートル)、桁行五・五間(九・九五メートル)、平面席三十二・三平方メートル、棟高五・三五メートル、柱は二〇センチメートル角で、三センチメートルほどの面がとってあります。

 

神社の記録によれば元文年間(一七三六~一七四〇)の改修と見られ、諏訪大社の中でも最も古い建築で宮大工三井伝左衛門の作と言われています。

 

天正六年(一五七八)の造営帳にも見られ、古い様式が忠実に伝えられています。

 

屋根は本来檜皮葺でしたが、昭和三十五年(一九六〇)ころ銅板葺に改修され、損傷した橋の踏み板も取り替えられました。

 

下諏訪町教育委員会設置の説明板より

 

いぼ石

下社春宮の敷石の中にあるいぼ石

 

春宮内の鳥居付近の敷石を気を付けて探してみてください。

 

敷石にひとつだけ丸い穴がたくさんあいた石がある。

 

イボに効く不思議な雨水が溜まっているらしい。

 

ここにたまっている水をイボにつけると治るとか・・・。

 

神楽殿

諏訪大社下社の神楽殿

 

素木作りで、雅楽や舞を奉納するほか、祈願も行う建物である。

 

神楽殿
御神前にお神楽を奉納するための建物で落成は江戸時代前期天和年間(一六八一~一六八四)ころのものである。

 

諏訪大社下社設置の説明板より

 

筒粥殿(つつがゆでん)

諏訪大社下社春宮の筒粥殿

 

特殊神事「筒粥神事(つつがゆしんじ)」が行われるところが「筒粥殿」である。

 

「筒粥神事」は、各地の神社で祭礼として行われる「粥占(かゆうら/よねうら)」のひとつと言われるが、起源は中国から伝えられたものだという。

 

毎年、一月十四日夜から十五日早朝にかけ、「筒粥殿」において、神職が江戸初期のものという土間中央の囲炉裏を囲んで、米と小豆と葦の筒を入れた大釜を一晩中炊く神事である。

 

四十四本の筒の中で四十三本は農作物四十三種の豊凶を、残りの一本は世の中を、できた粥の状態で占うのである。

 

諏訪七不思議の一つにあげられている。

 

筒粥殿(つつがゆでん)
下社特殊神事の一つである筒粥神事の神粥炊上げが行われる。

 

建物で毎年一月十四日夜から十五日早朝にかけて神職がいろりを囲み一晩中葺筒四十四本の内四十三本は作物の豊凶を残りの一本は世の中を占う。

 

土間中央のいろりは江戸時代初期のものである。

 

諏訪大社下社設置の説明板より

 

諏訪の他の不思議を知りたければ、こちらを参考にしてほしい。
【諏訪の七不思議】 諏訪の悠久の歴史を知る。

 

幣拝殿

諏訪大社下社春宮の幣拝殿

 

祭祀、拝礼を行うための、幣殿と拝殿をあわせた二重楼門づくりの社殿を「幣拝殿」、左右を「片拝殿」という。

 

下社の祭神は、二月から七月まで春宮に鎮座し、八月一日の御船祭で秋宮に遷座し、翌二月一日に春宮に帰座される。

 

参詣者が神前に奉献する「幣帛(へいはく)」を捧げる社殿「幣殿」と、拝礼を行うための社殿「拝殿」が、一棟の楼門形式になっているのは「下社」独自の形式という。

 

幣拝殿
この建物は御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったもので幣拝殿と呼ばれている。

 

建築様式は二重楼門造りで全体に見事な彫刻が施されている。

 

棟梁は地元の宮大工柴宮(伊藤)長左衛門で秋宮と同じ絵図面で秋宮幣拝殿より一年早い安永九年(一七八〇)に落成した。

 

春秋両宮は社殿構造は同じで当時は双方で技術が競われた。

 

諏訪大社下社設置の説明板より

 

御柱

R4の諏訪大社下社春宮二の御柱

 

正式には「式年造営御柱大祭」といい、日本三大奇祭のひとつとされる「御柱祭」は、寅と申の年に樅の大木を「御柱」として伐り出し、氏子が各地区分担して二社四宮(「上社本宮」「上社前宮」「下社秋宮」「下社春宮」)へそれぞれ4本ずつ曳行し、社殿の四隅に建てる「諏訪大社」最大の行事である。

 

御柱のことを知りたければ、こちらを参考にしてほしい。
【御柱とは】 諏訪信仰の古き歴史を知る。

 

結びの杉

諏訪大社下社春宮の結びの杉

 

「神楽殿」手前右に、縁結びのパワースポットと言われる「結びの杉」がある。

 

幹の末で二股に分かれているが、根元でひとつになっていることから「結びの杉」と呼ばれるという。

 

分かれて見える縁も、元ではしっかり繋がっているということを現しているとされ、恋愛、結婚に至る男女の縁のみならず、人の出会い、商い、もの、場所など、さまざまなものとの縁結び、子宝にご利益があると言われている。

 

結びの杉
この杉の木は先で二又に分かれているが根元で一つになっていることから「縁結びの杉」といわれている。

 

諏訪大社下社設置の説明板より

 

浮島社

下社七不思議の浮島社

 

「下社春宮」西の脇を流れる「砥川(とがわ)」で、砂州ではなく岩でできている中島に、「諏訪大社下社春宮」末社「浮島社(うきしましゃ)」が鎮まる。

 

中之島は「万治の石仏」へ向えるように「春宮」⇔「浮島社」⇔「万治の石仏」と歩行者用の橋が架かっている。

 

「大水でも流されない」と「下社七不思議」の一つとして語り継がれているという祠の祭神は、神道における「祓(はらえ/はらい)」を司る神で、「祓戸大神(はらえどのおおかみ)」である。

 

六月三十日には例祭「浮島社祭」とともに大祓式「夏越神事(なごしのしんじ)」「茅輪(ちのわ)くぐり」がここで行われる。

 

かつて鎌倉武士が、御射山の祭典に参列する時、この「砥川」で身を清め、八島高原へ登ったとも伝えられている。

 

浮島社
祓戸大神を祀るといわれ、毎年六月晦日には例祭とともに夏越しの大祓式が行われます。

 

また、この浮島はどんな大水にも決して流されないことから七不思議のひとつに数えられています。

 

諏訪大社下社設置の説明板より

 

万治の石仏

2020撮影の万治の石仏

 

芸術家「岡本太郎」や小説家「新田次郎」が絶賛したことで、世に知られることになったのが「万治の石仏(まんじのせきぶつ)」である。

 

名前の由来は「一六六〇(万治三)年十一月一日に造られた」と胴に刻まれていることによるという。

 

言い伝えに、一六五七(明暦三)年 諏訪高島藩三代藩主「諏訪忠晴(すわただはる)」が、諏訪大社下社春宮への遺石の大鳥居の奉納しようとしたときのこと。

 

命を受けた石工が、この大きな石を加工しようとノミを打ち入れたところ、その石から血が流れ出たという。

 

祟りを恐れた石工は大鳥居の造作を止め、この不思議な石に「阿弥陀如来仏」を刻み、石仏として祀ったことで「万治の石仏」が始まったという。

 

「万治の石仏」お参りの仕方
1.正面で一礼し、手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる。

 

2.石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する。

 

3.正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する。

 

下諏訪観光協会 下諏訪商工会議所設置の説明板より

 

万治の石仏と伝説
伝説によると諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造る時この石を材料にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工達は恐れをなし仕事をやめた(ミミの跡は現在でも残っている)その夜、石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つける事ができ鳥居は完成したというのである。

 

石工達は、この石に阿弥陀如来をまつって記念とした。

 

尚、この地籍は子の石仏にちなんで古くから下諏訪町字石仏となっている。

 

下諏訪町設置の説明板より

 

おんばしら館 よいさ

おんばしら館よいさのロビー

 

七年に一度、開催される「御柱祭」に対する諏訪人の思いとその迫力をお楽しみいただける施設である。

 

「御柱祭」に関する資料などを展示する施設。

 

140インチの大画面で御柱祭の映像を上映するほか、祭の場面「伐採」「山出し」「里曳き」の見どころを映像や音声で紹介する「御柱経路模型」、衣装や道具などを展示している。

 

入館料

大人/ 300円 子ども(小・中学生)/ 200円

 

木落し体験装置

柱は、モミの木から形とったFRPで再現。
「華乗り(はなのり)」(柱に乗る人)の目線による映像とともに木落とし坂を下る躍動感を体験できる。

 

御柱映像

上映時間 約10分140インチの大画面で御柱祭を映像でわかりやすく紹介。

 

 

竜の口

中山道の旅人の口を潤した竜の口

 

竜の口の水場は、明治二十年になって花見新道が開かれるまでは中山道を上り下りする旅人に親しまれ、お寺詣りの人々もここで口を濯いでから石階を登りにかかったという。

 

竜頭の水口が設置されたのは文政のころである。

 

竜の側面には、西山田村、山田清右エ門、山田金右エ門、近辺連中、と刻まれている。

 

石造の龍と石段
石造の龍と口から出ている水は、以前は上の斜面の横井戸から引いて付近の人々が清花講という講を作って守り中山道を通る旅人や慈雲寺に参詣する人々の喉を潤しておりました。

 

この湧水は慈雲寺第三世住職「雪村大和尚行動記」に初見するとして一山一字の慈雲寺開山伝説に「山に井あり、甘露と名づく国師錫を卓することによりて湧出し、大早にも涸れず、龍王殿あり」とある。

 

石造の龍は水神として文政八年(一八二五)に奉納されたもので、作者は現岡谷市横川の石工山田平蔵和哉で、石の造作として見事なものであります。

 

水溜石の側面に王骨道人(当時の横川村真秀寺の住職)の書になる「清花水」と彫られていますが、半ば風化しているのは惜しいものです。

 

この龍の為この辺りの地名は通称「龍の口」と呼ばれています。

 

慈雲寺に通じる参道は、以前は斜めに登る自然の坂道でしたが昭和三年に百二十四段に改修されました。

 

そして平成三十年には下諏訪町チャレンジ支援事業で観光客や住民の安全利便を図って両側に手すりを設置しました。

 

龍の口横の説明板より

 

御作田社 ~たちまち実る稲の不思議~

諏訪の七不思議たちまち実る稲の御作田社

 

春宮と秋宮との中ほどに、旧中山道に沿って御作田神社がある。

 

百坪ほどの小さな境内だが、たいへん古社であることは杉やサワラの大木が物語っている。

 

ここには「御作田の早稲」と言われる田植祭が伝えられている。

 

境内にある二坪ほどの小さい田んぼが、六月三十日の例祭に苗を植えると、たちまち熟して米が獲れる。

 

古式は旧暦六月三十日だったが明治になってから太陽暦に改められた。

 

それでも普通よりひと月以上も遅い田植えなのに、収穫が早いのである。

 

諏訪明神は農耕神であり、その神力の不思議さから大社諸神事の中でも大切な祭りとされている。

 

御作田社
ここは、諏訪大社の末社、御作田社であります。

 

下社の御作田祭(御田植神事)は、毎年六月三十日この境内で行われます。

 

この日植えられた稲は一ケ月後の八月一日には、諏訪大神の神供として捧げられたと伝えられ御作田の早稲として諏訪七不思議の一つにあげられています。

 

なお同日(六月三十日)には、諏訪大社春宮横の浮き島社において、夏越しの安穂を祈る茅の輪くぐりが行われます。

 

神社設置の説明板より

 

諏訪の他の不思議を知りたければ、こちらを参考にしてほしい。
【諏訪の七不思議】 諏訪の悠久の歴史を知る。

 

 

 

諏訪大社下社周辺を歩くのなら参考に
【諏訪大社下社秋宮を歩く】 諏訪信仰の歴史を感じる散策

 

諏訪大社上社前宮・本宮周辺の歴史を感じるならこちらに書いたので参考にしてほしい。
【諏訪大社上社前宮を歩く】 諏訪信仰の歴史を感じる散策
【諏訪大社上社本宮を歩く】 諏訪信仰の歴史を感じる散策

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