「和算」は失われつつある文化遺産~諏訪大社上社下社にある算額~
算額とは
算額とは、神社や仏閣に数学の問題や解法を記し奉納した額や絵馬である。
江戸時代、日本は独自に発展した数学「和算」が広まり、和算研究者から寺子屋でそろばんを学ぶ庶民まで、多くの人が和算に親しんだ。
やがて、難しい問題が解けたことを神や仏に感謝し、和算の問題や答えを絵馬に記した「算額」を寺社に奉納する風習が生まれ、全国各地で流行した。
諏訪大社上社・下社にも、幕末から明治時代にかけて奉納された算額が今に残っている。
忘れられた数学
和算は失われつつある文化遺産であり、忘れられた数学である。
問題が解けたこと、数学ができるようになったことを神や仏に感謝し、師恩に報いるなど、勉学に励むことを祈念して算額として奉納された。
やがて、人びとの集まる神社仏閣を問題の発表の場として、難問や問題だけを書いて解答を付けずに奉納するものが現れた。
また、それを見て解答や想定される問題を再び算額にして奉納することも行われた。
その結果、一部では神社仏閣の絵馬堂が学会の発表の場になった所もあったようだ。
このような算額奉納の習慣は世界中をみても他に類例がなく、日本独特の文化といわれる。
日本は明治維新以降、西欧にならった近代化をあらゆる方面で推進した。
科学技術教育は特にその傾向が顕著で、当時の文部省は明治五年(一八七二)に初等教育に関する指針を策定して学制として発布し、翌年から小学校教育を開始することになった。
明治五年の学制によって和算廃止、洋算専一とされ、例外的に計算道具としてのそろばんだけは他に替えるものがないということで存続することになったが、このことは日本の数学界の革命であった。
これは日本語を廃止し、英語だけ使用せよというのと同じくらいの衝撃であった。
しかし、実際に洋算の導入を推進した人たちは和算をも学んでおり、和算家が全て洋算に反対していたわけではなかった。
幕末から明治初期に西洋数学をも学んだ和算家たちは、実学としての西洋数学の価値にいち早く気付いていた人たちでもあった。
社会に有用な実学としての数学という見方に従えば、役に立つ数学は和算であっても洋算であっても構わなかったのである。
明治初期には、数多くの算数の教科書、教師向けの解説書が刊行され、その内容を見ると、非常に初等的な内容であった。
見方を変えれば、初等的な洋算を学べればそれらを教えることのできる人たちが国内には沢山いたということである。
算額奉納の風習など、日本の多くの人が和算に親しむ環境があったことは、西洋からの数学が導入されることを容易にしたと評価されている。
和算から洋算への転換は、和算が西洋数学と比較して決して劣っていたからということではなく、科学技術をめぐる全般的な方針転換に伴って生じた必然的な動きだった。
算額という文化遺産
江戸時代以前の数学については、日常的な計算術(四則演算)を、そろばんが伝来する以前の計算道具である算木によって運算していたことが知られている。
そろばんが日本に伝来したことから、江戸時代の数学の歴史は始まる。
明治維新から約百五十年たった今、算木を自由に操れる人はいない。
その用語や記号・内容を熟知している人もなくなり、「和算」は死語になった。
しかし、今でも野球では打率が三割三分などといい、割分厘毛や億兆京のことばは和算の名残である。
江戸時代から明治にかけて、私たちの先祖は神社仏閣に数学の絵馬(算額)を奉納した。
近年、現存している算額の額面の文字や図形が、風化などにより読み取りにくくなり、その保存が急務となっている。
祖先が残した偉大な文化遺産を保存し、後世に伝えることは私たちの責務となっている。
令和二年、諏訪大社上社・下社の算額修復事業が完了したことを記念して特別公開がおこなわれた。
出典 増補長野県の算額
出典 諏訪市博物館 特別展諏訪大社上社下社の算額館内展示説明資料より