諏訪大明神は法性大明神 ~諏訪信仰の多様な顔~
諏訪信仰の広がり
諏訪大社の分社の数は一万余りと言われ、津々浦々に存在する。
諏訪大社のホームページより、諏訪大社の古くからある信仰には、風と水を司る竜神の信仰、風や水に直接関係のある農業の守護神としての信仰、水の信仰が海の守り神となるなど、各地で諏訪社が祀つられている。
神功皇后の三韓出兵や坂上田村麿の東夷平定にも神助ありと伝えられ、東関第一のいくさ神、武家の守護神とも尊ばれ、精進潔齋(しょうじんけっさい)を形だけする者より、肉を食べても真心込めて祈る者を救おうという諏訪大明神御神託など、幅広い信仰を有している。
中世以降、諏訪が「軍神」「獣肉食を赦免する神」として讃仰(さんぎょう)されたため、鎌倉時代の諏訪は上社下社ともに幕府と深い関係を結んだ。
幕府の支援のもとに行われた下社の「御射山祭」、上社の「五月会」は、弓馬の術を競う一大催し物として遠隔地の武士も多く参加した。
参加した者たちは、諏訪の神を自らの土地へ持ち帰り、諏訪社を造った。
武人以外の人々にとっても、諏訪大明神の御利益は歓迎され、その土地に受け入れられていく。
それは、仏教の広まりとともに、輪廻説の「殺生」は罪業であるとする「漠然とした道徳観」が拡がる中、肉食を許す神、狩猟に伴う殺生の罪悪感を赦免してくれる神、という御利益のためと思われる。
肉食の魅力と狩猟の楽しみを知っている人々にとっては不都合な道徳観で、山間地方など、穀類がなかなか生産できない人々にとっても、肉食を放棄することは、生命の存続に関わることであった。
仏教的道徳観と肉食による生命維持との葛藤が深刻になる中、諏訪社は一つの定義を説いた。
有名な「業尽有情(ごうじんうじょう)、雖放不生(すいこふしょう)、故宿人身(こしゅくにんじん)、同証仏果(どうしょうぶっか)」という四句偈文である。
偈文(げもん)とは、一定の決まりがある韻文で作られ、節がつけられ歌うように読経される仏徳を讃嘆した文章ことである。
いつ頃成立したかは不明だが、『諏訪大明神画詞』はこれを「神勅」として載せている。
この解読は諸説あるが、「人に捕らえられた鳥獣は、業が尽きたのであって、食べずに放しても、その先生きるものではない。むしろ食べられることによってその人の身に宿れば、その人が善行を積んで行けば、ともに成仏に到ることができる」という説である。
肉食を赦免する諏訪大明神への信仰は、獣肉を食糧とする罪の意識を小さくさせる救済策になったことから、諏訪信仰が人々に迎え入れられ各地に拡散していく一端を担った。
戦国末期以降は、諏訪社の「御師」が肉食を赦免する「鹿食免」の御符、箸や、風封じ、魔除けの薙鎌を持って諏訪信仰を広める働きを担った。
本地垂迹 諏訪の本地仏
神仏習合の思想は、神仏のもとでは仏であって、仏が人々を救うために神の姿になって現われたという本地垂迹説によって発展した。
仏教の側が、在来の「カミ」を「権現」(権現の「権」は「仮の」という意味)いわゆる「仏の仮の現われ」とし、「カミ」は衆生とともに苦しみを味わっているので、仏教の儀礼や読経によってそれを救う(法楽)必要があると説いた。
それ故、神社の境内には、本地垂迹の本地である仏や菩薩が祀られ、その仏を祀るために、仏殿や塔、それに付随した坊や院が建ち並んだ。
諏訪社の場合、「諏方大明神」として建御名方命を祀る一方、中世には神宮寺が大きな勢力を誇っていた。
延宝七年(一六七九)の書き上げによると、上社と下社に七つの寺院があり、諏訪神社の本地仏は、上社は普賢菩薩、下社秋宮は千手観音菩薩、下社春宮は薬師如来とされた。
「法性大明神」 仏教の影響
諏訪において仏教の浸透はカミ信仰を塗りつぶすようなものではなく、諏訪大明神を「法性大明神」「法性菩薩」と仏教風に呼ぶことはあったが、仏の姿が前面に出てきたことはない。
また、後から建てられた仏教寺院が強大になり、元の神社、神拝地を隠してしまうといった事態にもならなかった。
これは、諏訪大明神が鎌倉時代に幕府の庇護を受け、「狩猟の神」「軍神」として崇敬を受けたことや、諏訪が「大祝」「神長」という特殊な体制を維持していたことが大きかったように思える。
現人神である大祝、そして呪術を駆使し政を務める神長という組み合わせによって、民衆の宗教的需要はかなり満たされていた可能性がある。
『諏訪大明神画詞』には「朱雀白河御字、天慶永保の明時には、又論言を天下に下されて、一階を諸神に授けられし、当社正一位に叙せらる。此の条々国史の所見分明也、仍りて正一位法性南宮大明神と号す」とあり、「諏方大明神」を古来「法性大明神」と称した。
武田信玄の軍旗と伝えるものには「諏訪南宮法性上下大明神」と書かれており、諏訪大社に伝わる兜も「諏訪法性兜」と呼ばれている。
この神号がいつ誰の手により付けられたのかは定かではないが、「法性」の神号は中世以来一貫して使用されて、いわば諏訪大明神の正式呼称であった。
「法性」とは、法性身(法身)のことで、無色無形の真如を虚空に喩えたものを指す。
この「法性」というのは見事な論法で、「法性」とは「真如の法(仏法)を本性とする色も形もない仏」なので、『諏訪大明神画詞』の「我に於いて体なし、祝を以って体とす」と、大祝に明神が憑依することを述べている「体なし」と諏訪明神の神勅と見事に符合する。
諏訪のカミは、形姿のないものだというわけである。
また、諏訪信仰の「カミ信仰」の部分、「ミシャグジ」のような実態ないものを表わしていると解釈もできる。
諏訪の仏教浸透
天台の僧侶による「霊山」への寺院建設が八~九世紀に盛んに行われ、有力神社には「神宮寺」が設けられるようになった。
さらに中世になると、有力神社の社家が積極的に密教を取り入れ、独自の世界観と儀礼を紡ぎ出すようになった。
伊勢神宮外宮の神官、度会家行(一二五六~一三五一)によって大成された伊勢神道、鎌倉末期に大神神社で発生した三輪神道、比叡山の土着信仰と天台教学が融合した日吉神社の山王神道などがその例である。
諏訪にも上社、下社ともに、いつなのか明らかではないが「神宮寺」が建立された。
中世の社頭図では、前宮と本宮の間に、かなり広壮な寺院施設があったことが分かっている。
『守矢満実書留』など貴重な記録を遺した守矢満実は、両部神道を学び神道灌頂や天皇即位礼などを参考にしつつ、大祝即位礼を密教風に作り替えようとした。
また、『諏訪大明神神秘御本事大事』を著わし、諏訪の神事について「御精進家(御室)は胎蔵界の形なり」といった密教的解釈を施している。
密教を取り入れた「諏訪神道」を作ろうという動きはあったのかもしれない。
権現信仰は、仏教が土着化する際に根拠地として求められた「山岳」において隆盛し、展開していった。
既成の仏教が勢力を伸ばしていく一方で、大寺院に属さない「聖(ひじり)」と呼ばれる在野の修行者たちが山に入り、古来のカミと仏教を結びつけることで民間に浸透していった。
日本古来の山岳信仰と密教の混淆である修験道は、古くから「神仏習合」の宗教として日本各地の名山で展開されてきが、八ヶ岳には修験の活動はあまり見られない。
諏訪に修験者が多数いたという記録はあるが、八ヶ岳自体がその舞台となったわけではない。
周囲に富士山、甲斐金峰山、戸隠山、木曽御嶽など、名だたる修験霊山があるのに対して、諏訪にはこうした記録がきわめて少ないのである。
諏訪湖を含む諏訪地域全体を霊山としたのか、八ヶ岳の麓は「神野」と言われ諏訪大明神の神聖な土地とされていたからなのか、この空白を埋める未発表、未発見の史料や文書がでてくることを期待したい。
出典 諏訪明神 カミ信仰の原像 寺田鎮子 鷲尾徹太 著