現代に蘇る「神仏習合」~諏訪の廃仏毀釈~

現代に蘇る「神仏習合」~諏訪の廃仏毀釈~

現代に蘇る「神仏習合」

 

八世紀から十九世紀半ば過ぎの千年以上もの間、日本列島では神社と寺院はともにあった。

 

仏教の僧侶が神に奉仕し、神前で読経が行われ、神社の神殿には、仏像、仏具が置かれてきたのである。

 

日本は世界の宗教史の中でも特殊な形態を辿り、中世以降江戸時代まで、神道と仏教がごちゃまぜ(混淆宗教)になっていた。

 

こうした状況を「神仏習合」や「神仏混淆(こんこう)」と呼んだ。

 

 

令和四年(二〇二二)十月から十一月の間、諏訪圏域の神社と寺院が協力し、諏訪神社(現・諏訪大社)に付属した神宮寺由来の仏像などを所蔵する各寺で、一斉に公開する「諏訪神仏プロジェクト」が開催された。

 

プロジェクトの開始日前と後に、神前に奉告する神事「奉告祭」にて僧侶らが列を組んで諏訪大社の境内に入り、幣拝殿で仏事を奉納した。

 

平安時代後期、約千二百年前から神と仏が融合する「神仏習合」の信仰が日本には根付いていたが、明治政府の「神仏判然令」(一八六八)によって別々に分けられた。

 

その後、百五十年余の時を経て失われた「神仏習合の祈り」が、関係者のご努力により令和の時代に実現したのである。

 

神と仏が出会う「神仏習合」

 

近代以前までの神仏関係を「神仏習合」と言うが、言葉が示す内容的には「習合」ではなく「共存」とするぐらいがふさわしいと思える。

 

日本列島には仏教伝来以前から「カミ」が存在し、「カミ」を祭祀する信仰があった。

 

原始的なカミ信仰は大きく分けて三つの信仰から成り立っていたと推測される。

 

山や海や巨木や奇岩などの特定の自然物をカミの依り代とする信仰(自然神信仰)
一族の祖先の御霊をカミとする信仰(祖先信仰)
土地のカミや農耕のカミなど水田稲作を起源とする信仰

 

外来宗教の影響を受ける以前に存在していた信仰を「神祇信仰」と呼んだ。

 

 

六世紀の半ばころ偶像を拝する仏教が伝来し、外来の仏は土着の神と同位の神とみられた。

 

奈良時代に入り、仏教に対する信仰が篤い聖武天皇が仏教を国家の統治に利用していった。

 

その過程で、日本の神が仏に従うこと、日本の神は仏教を信仰するものだという考えが生まれるに至った。

 

 

神が仏に従うにあたっては、三つの考え方に基づいたと考えられる。

 

神は迷える存在であり、仏の救済を必要としている。
神は仏法を守護する存在である。
神は仏が衆生救済のための姿を変えて現れたものである。

 

この三つによって成立した現象が、いわゆる「神仏習合」である。

 

神仏の出会いの最初期の現象として神社に隣り合わせて「神宮寺」が建立された。

 

延暦年間(七八二~八〇六)以降、神々にたいして仏道に入ったことを表す菩薩号をつけるようになり、平安時代の中期には「権現」「垂迹」などの語が現れ、「本地垂迹」的な発想が明確になっていった。

 

 

諏訪大社上社と下社は「諏方大明神」として建御名方命を祀る一方、神宮寺が大きな勢力を誇ってきた。

 

延宝七年(一六七九)の書き上げによると、上社と下社に七つの寺院があった。

 

諏方大明神の本地仏は、上社は普賢菩薩、下社の秋宮は千手観音、春宮は薬師如来とされる。

 

上社の普賢菩薩は伝教大師最澄の作で、文殊菩薩とともに安置されていたといい、正応五年(一二九二)記の普賢堂棟札の写しが現存している。

 

普賢堂の北には、鐘楼、西には知久敦信が建立した五重塔があった。

 

下社秋宮の海岸山神宮寺には本地仏の千手観音を祀る千手堂のほかに、仁王門、三重塔、弥勒堂、弁財天、貴船社などの堂塔があった。

 

諏訪明神は国譲り神話では「科野国の州羽海」に封じこめられたタケミナカタを奉じ、大和とも出雲とも異なる独自の宗教的歴史を歩んだが、中世、近世においては諏訪もまた仏寺によって支えられていたのである。

 

神と仏を分けた「神仏分離令」

 

明治維新を迎え、新政府は万民を統制するために、強力な精神的支柱が必要と考えた。

 

王政復古、祭政一致の国造りを掲げ、天皇を中心とする神道国家を目指した。

 

この時、邪魔な存在だったのが神道と混じり合っていた仏教の存在であった。

 

 

江戸幕府は寛永十二年(一六三五)頃より戸籍管理を徹底するために寺請制度を施工した。

 

民衆は寺の檀家になることが義務付けられ、寺は近隣の民衆を檀家として把握し、檀家が寺の経営を支える関係が固定化していった。

 

時とともに、僧侶らは宗判権(しゅうはんけん)をかざして勢力の拡大をはかり、寺院の権力は増大していった。

 

英国の歴史家ジョン=アクトンの「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対的に腐敗する」という言葉にもあるように、特定の為政者や僧侶個人が悪いというよりも権力とはそういうもので、僧侶らは衆生済度を説くこともなくなり、民衆収奪など腐敗が進み、仏教に対する反発の下地がつくられていった。

 

明治新政府は、巨大な既得権団体と化していた寺院勢力の権力を抑え込む必要があったと思われる。

 

また、江戸時代の民衆は、神仏を信仰する際に区別やこだわりはなかったようだが、これにたいして、儒者、国学者、神道家、仏教者など知識層では、神仏を分けて考えるべきだとする思想が展開していった。

 

このような思想の影響を受けた明治新政府は神仏判然令(一八六八)俗にいう神仏分離令を出し、神社に祀られていた仏像、仏具などの排斥、神社に従事していた僧侶に還俗を迫り、葬式の神葬祭への切り替えなどを命じた。

 

この時点では、新政府が打ち出したのはあくまでも神と仏の分離であり、寺院の破壊を命じたわけではなかったが、時の為政者や役人の中から、神仏分離の方針を拡大解釈する者が現れた。

 

彼らは仏教に関する施設や慣習などをことごとく毀し(こわし)ていった。

 

 

神仏分離政策から派生した廃仏毀釈の機運が完全に終息するのは明治九年(一八七六)ごろのことになる。

 

 

諏訪の廃仏毀釈

 

古代から大和や出雲とは異なる文化圏を築いてきた諏訪の神(諏訪明神)は、中世から近世まで神仏習合、本地垂迹思想によって支えられてきた。

 

本宮・前宮からなる「上社」、秋宮・春宮からなる「下社」、両社にはそれぞれに神宮寺があった。

 

諏訪社が属する高島藩が神宮寺を破壊する方針を受け入れたのは、幕末に老中だった藩主の諏訪忠誠が、明治新政府の意向に沿うことで藩の安泰を図る意図があったのではないかと考えられている。

 

慶応四年(一八六八)京都神祇局から地方政治を監督する官職の役人、大観察使が諏訪に到着した。

 

諏訪社に対して神仏分離が遅れていることを叱責し、仏を除くように厳命した。

 

同年六月十九日、観察使立会いのもと上社神宮寺の堂塔を取り壊し始めたが、人足たちは仏罰を恐れ動こうとしなかった。

 

藩は、無理強いして暴動が起こることを恐れ、秋までの延期を願い出て取り壊しの猶予を得た。

 

猶予期間のうちに神宮寺村の村人たちは、取り壊しはもったいないので五重塔をはじめすべての堂塔をもらい受けたいと藩に連日運動したが藩ではこれを許可せず、一村一堂字にかぎって拝領を認めた。

 

その後、十一月下旬、堂塔の取り壊し請負の入札が実施され、十二月には普賢堂も五重塔も破却を終えた。

 

 

仏法紹隆寺(諏訪市四賀桑原)には、諏訪大明神御本地として信仰され、上社神宮寺の普賢堂に祀られてきた普賢菩薩騎象像が、寺院の破却時に保護され、廃仏毀釈を免れて安置されている。

 

 

江戸後期の諏訪大社下社の大祝金刺信古は国学者、平田篤胤の門人で、尊王攘夷運動に熱中する人物だった。

 

神仏分離令が発せられると、下社では金刺の影響もあり、廃仏毀釈に大きく傾いた。

 

諏訪では官位がある社僧が社人の上に立って勢力をもち、藩でも社僧に加担する傾向があったため、神仏分離令が発布されると社人たちは躍起になって仏教関係の堂塔、仏具を撤去しようとしたが、村人は協力しようとしなかった。

 

しかし、下社神宮寺の堂塔は明治元年の冬にはほとんどが棄却され、仏像、仏画は神宮寺の末寺などに移された。

 

その後、下社神宮寺千手堂の本尊で、武田勝頼の念持仏だった千手観音は、仁王像とともに照光寺(岡谷市)に遷座された。

 

 

学者は、明治新政府が出した太政官布告「神仏分離令」と明治三年(一八七〇)に出された「大教宣布」が直接仏教排斥を指示したり煽ったりしていないとするが、それを後ろ盾として、仏教弾圧の嵐が吹き荒れたことは否定のしようがない事実である。

 

明治維新という動乱期に、日本の伝統文化、伝統芸術の根幹を担って、日本の風土に溶け込んで進化しきた仏教は、宗教としても文化的価値としても徹底的に弾圧されたのである。

 

出典 廃仏毀釈 寺院・仏像破壊の真実 畑中章宏 著

出典 仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか 鵜飼秀徳 著

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