【椀貸伝説】 多留姫の滝~多留姫神社~

多留姫の滝~多留姫神社~

椀貸伝説

 

椀貸伝説とは、塚や池、沼、淵、または山中の洞などに向かって頼むと、多数の膳や椀を貸してくれたという伝説である。

 

膳とは、日本料理独特のもので、古く平安時代から食事の際に使われており、もてなしや祝いの席なので、一人分の食物や食器など、整えられた料理をのせる台である。

 

 

椀貸伝説は九州から東日本まで日本の広い範囲に伝わり、特に中部地方や北関東の山沿いなどに多く伝わっている。

 

具体的な貸主を言わないところもあるが、持ち主は乙姫や竜神、河童という水神信仰に関わりのあるものから美女、山姥、大蛇、ねずみ、狸狐の類まで多岐に渡っている。

 

 

その後、不心得者が膳や椀を返さなかったため、今では貸さなくなったという話になる。

 

 

椀貸伝説の標準的な語りをまとめると次のようになる。

 

宴会のための膳椀(家具の場合もある)が足りないときに、それを願う特定の場所がある。

 

願い通りの数の膳椀を貸してくれるが、借りた分は必ず全て返さねばならない。

 

借りた物を返さなかったり壊してしまうと、貸借関係は途絶える。

 

 

諏訪地域にも椀貸伝説が残っている地がいくつかある。

 

「池生神社の底なしの池」と「多留姫の滝」である。

 

どちらも諏訪明神の子神の地である。

 

【椀貸伝説】 池袋の底無しの池~池生神社~

 

口承によって紡がれていく村人たちの歴史のなかで、とても大事だった場所、大切にしなければいけない心が、全国に広がる椀貸伝説の力を借りて今も何かを伝え残そうとしているのではないだろうか。

 

多留姫の滝の膳椀

 

昔、大泉山のそばの玉川村に仲の良い若い夫婦がおり、よく水を大事にする百姓だった。

 

子どもらが水にいたずらすればすぐに叱り、家の清水には水神の石碑を立てて祀った。

 

この夫婦には子がなく、田んぼへの仕事の行き帰りに、道のかたわらに立っているお地蔵さんに子授けを願うのが日課だった。

 

すると、願いが通じてか玉のような男の子が生まれ、夫婦は大喜びした。

 

 

夫婦は皆を呼んで子の誕生を祝いたかったが、家は貧しく大勢に出す膳椀がなかった。

 

仕方がないとあきらめていると、夢の中に白い着物の美しいお姫さまが現れた。

 

姫は、自分は多留姫の滝の水の精であるといい、いつも水を大事にする夫婦に、膳椀を貸しましょうといった。

 

「お客に必要な膳と椀をいるだけの数を紙に書いて滝つぼへ投げ入れ、明日の朝持ちに来なさい。」

 

「返すときは、数を間違えずにきちんとかえしなさい。」

 

お姫さまがそう言ったかと思うと、すうっと煙のように消えた。

 

夫婦は、今の夢のことを話すと、ふたりともまったく同じ夢をみたことに驚いた。

 

半信半疑ではあったが物は試しだとやってみることにした。

 

 

多留姫の滝は、八ヶ岳から流れてきた水が、大泉山のたもとの高い岩の上から白蛇のように滑り落ちている場所である。

 

滝つぼの青く澄んだ水は、手ですくって飲んでみたくなるほどきれいであった。

 

大昔に多留姫という美しいお姫さまが、滝のきれいさにひかれて、飛び込み死んでしまったことから多留姫の滝と呼ばれるようになった。

 

夫婦は夢で言われたとおりに、紙に願いを書いて滝つぼに投げ込むと、翌朝には願った通りの四十人前の膳椀が揃えられていた。

 

めでたくお客を済ませ、膳椀をきれいにして同じ場所に並べると、それは滝壺の中にすっと消えた。

 

 

このあと、夫婦はこのことを村人たちに話し、村の人たちも同じようにやると、お膳やお椀を貸してくれた。

 

重宝に願いを聞いてもらったが、あるとき、悪い人が五十人前借りて四十九人前しか返さず、それより貸してもらえなくなったそうだ。

 

そのひと組の膳椀は村のある家に今も残っているという。

 

お膳は、黒塗りで普通より大きく、お椀は、朱塗りに紫のふじの花の絵が描かれているという。

 

多留姫の滝と多留姫神社

 

「多留姫神社」は大泉山と小泉山の間の柳川左岸に祀られていて、中沢区と田道区の産土神である。

 

諏訪大社の祭神「建御名方命」の第二娘「多留姫」を祀るとされ、御母は「八坂刀売命」と言われている。

 

例祭は、諏訪大社「酉の祭り」の翌日四月十六日の春と、十一月二十五日の秋、二回行われる。
嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ「『祝詞段』に「中沢二タルノゴゼ」と記され、すでに祀られていたことがわかる。

 

別に「中沢ノ樽之御前社」または「滝之御前社」と書かれたものもある。

 

『諏訪神家系図』(中田憲信)には「垂比洋神」、『諏訪旧跡誌』(宮坂恒由)には「垂姫神」と記されている。

 

樽の御前の名は、滝壺からおこっている。

 

「タル」とは水の「潭(ふち)」(水の深い所)を指しているもので、当社の祭神は「水神」に関係した女神であると思われる。

 

「タルヒメサマの滝壺に糠(こぬか)を流せば上原のオクズイサマの池に浮かぶ」とか、「タルヒメサマにお願いすれば膳、椀を貸してもらえたが、数をごまかす人があったので、それから後はだめになった」などの伝説があって、村人にもなじみが深かったことが伺える。

 

 

「多留姫の滝」は昭和六十三年七月二十九日、茅野市「名勝」に指定されている。

 

茅野市の「名勝」は、他に湯川の「社鵑峡(とけんきょう)」があり、現在市内に二件が指定されている。

 

 

南八ケ岳の麓を東から流れる柳川は、大泉山と小泉山の間を縫って下り、やがて上川と合流する。

 

多留姫の滝は、柳川が大泉山の裾に接する標高約千メートルの場所にある。

 

滝は二段になっており、最初の滝は高さ、幅ともに約九メートル、二番目の高さ約三メートル、幅は両岸より岩が迫っているため落ち口で約一メートル余りである。

 

大泉山の岩質はデイサイト(石英安山岩)や流紋岩で、滝のあたりには南北方向の断層が幾つも認められる。

 

 

景勝の地として古くより多くの人に親しまれてきたところであり、多くの文化人が集い、この周辺は「多留姫神苑」「多留姫仙郷」等呼ばれていた。

 

多留姫の滝は、藤も花で知られ、六月一日を「藤の祭」と言い、その前後半月以上も賑わった。

 

多留姫の滝を紫の花で飾る藤の花はあまりにも優雅で、諏訪地方以外からも観客が訪れ、非常な賑わいをみせた。

 

祭りのときは、付近の住民が当番となり、「載酒亭(さいしゅてい)」で訪れる人に酒を振る舞い、酒を酌み交わし、俳句や短歌を詠ったそうだ。

 

 

多留姫神社

 

「多留姫神社」は小泉山と大泉山の間の柳川左岸に祀られていて、中沢区と田道区の産土神です。
諏方大社の祭神「建御名方命」の第二姫「多留姫」を祀るとされ、御母は「八坂刀売命」と言われます。
例祭は、諏訪大社「酉の祭り」の翌日四月十六日の春と十一月二十五日の秋、二回行われます。
嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ『祝詞段』に「中沢ニタルゴゼ」と記され、すでに祀られていたことがわかります。
別に「中沢ノ樽之御前社」または『滝之御前社』と書かれたものもあります。
『諏方神家系図』(中田憲信)には「垂比洋神」、『諏方旧跡誌』(宮坂恒由)には「垂姫神」と記されています。
樽の御前の名前は、滝壺からおこっています。
「タル」とは水の「潭(ふち)」(水の深い所)を指しているもので、当社の祭神は「水神」に関係した女神であると思われます。
建御名方命は「大国主命」の第二子神ですので、多留姫は大国主命の孫娘になります。
古事記によると、出雲国の国譲りに際し、「建御雷命」との力くらべに敗れ、「科野」(信州)の「洲羽」(諏訪)湖畔まで逃れてきました。
そこで捕えられ、諏訪の地から一歩も出ないことを誓い、葦原中国(日本の神話的名称)は、父神・兄神と同様に天つ神の御子に献上するこを約束し許されました。

 

多留姫文学自然の里創造委員会設置の説明板より

 

出典 諏訪のでんせつ 竹村良信 著

出典 多留姫文学自然の里

出典 椀貸し伝説再考 -近代における伝説の生成と受容ー 川村清志

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