武田信玄の石棺
川中島の戦いなので知られている武田信玄は、甲州(山梨県)の人で戦国時代の優れた英雄でした。
武田信玄は戦の仕方がとても上手くて、戦えば必ず勝つという華々しいものでした。
この頃の英雄は、我こそは天下を取ろう、京都に上って日本中に号令をしようと、夢を抱いていました。
武田信玄もその一人でした。
そのために「風林火山」と書いた旗を先頭に押し立て、沢山の家来を引き連れ京都に向かって出発しました。
途中、手向かう敵をなぎ倒し、怒涛の勢いで突き進み、三河(愛知県)の野田城も一気に陥れました。
ところが無念なことに、ここで信玄は病気になってしまったのです。
仕方がないので、甲州に帰って病気を治し、もう一度出直そうと、沢山の家来を後戻りさせて、引き返してきました。
下伊那の根羽まで来たところ、信玄の病気は益々重くなりました。
ついに、駒場に来た時、息を引き取ってしまったそうです。
信玄は、もし自分が死んだ後、屍を下手な所へ葬っておくと、いつ敵が掘り出して辱めを受けるかもしれないと心配していました。
「もし、俺が死んだら三年間は絶対に隠しておけ。弔いはしないでよろしい。石の棺を作って鎧をつけたまま、三年の後に諏訪湖の一番深いところに沈めろ。」
そう遺言を遺したそうです。
諏訪湖へ埋めておけば、敵に掘り起こされる心配がなく、一番安全と考えたのです。
信玄の家来たちは言いつけを守り、信玄が亡くなったことをひた隠しにしました。
そして三年がたったある夜、小坂観音の石段から静かに何かが運び降ろされ、舟に乗せられました。
真っ黒な湖の中を進み、諏訪湖で一番深いとされる小坂観音の沖合で、信玄の石棺を沈められたとのことです。
小坂観音の民話や伝説を知りたければ、こちらを参考にしてほしい。
「ものがたり」が交差する場所【小坂観音院】
諸説あり
出典 諏訪のでんせつ 竹村良信 著