諏訪のお殿さま~歴代高島藩主諏訪家~

諏訪のお殿さま~歴代高島藩主諏訪家~


諏訪市博物館にて令和7年7月から9月の間、特別展「諏訪のお殿さま―歴代高島藩主諏訪家の人・もの・思い―」を開催した。


江戸時代に諏訪の地を治めた高島藩は、諏訪家が代々藩主を務めてきた。


諏訪家は、頼岳寺(茅野市ちの)と温泉寺(諏訪市湯の脇)に墓所があり、これらは平成二十九年(二〇一七)に国史跡に指定されている。


諏訪家は、江戸時代に転封がなかったため明治維新まで一貫して諏訪の地を治め、墓所が国元に営まれた。


領主の墓所が国元にまとまっていることは全国的に見ても貴重であり、一つの家が絶えることなく安定した政治基盤を築いていたと言える。


家を繋ぐということは藩主の大きな使命の一つであり、藩主墓標の周囲に立ち並ぶ、藩の家臣が奉納した多数の石灯籠からは、諏訪家とその家臣の関係性が窺われる。


諏訪藩の興り~諏訪氏の旧領復帰~

諏訪市博物館 「諏訪のお殿さま―歴代高島藩主諏訪家の人・もの・思い―」展示より


諏訪氏は諏訪上社(現在の諏訪大社上社)の大祝であった諏方氏を祖とする家で、鎌倉時代では大祝が祭祀だけでなく政治も担っていた。


南北朝時代に一時惣領家と大祝家に分かれますが、戦国時代に諏訪頼満によって再び権力が惣領家に統一される。


その後、頼満の孫頼重が天文十一年(一五四二)に武田信玄に滅ぼされて惣領家の血筋が途絶え、諏訪は武田領になる。


信玄の子で諏訪氏を母に持つ武田勝頼は諏訪社の復興に尽力しますが、勝頼が織田信長に滅ぼされると諏訪は一時織田領になる。


その三か月後の本能寺の変で信長が倒れると、大祝であった諏訪頼忠が諏訪氏を再興した。


諏訪頼忠は徳川氏に従い、家康の関東国替えに伴って武蔵国(現在の埼玉県)、その後、上野国(現在の群馬県)に転封になる。


諏訪氏も従軍した関ケ原の戦いで徳川方が勝利すると、その恩賞により諏訪氏は旧領である諏訪を与えられ、諏訪氏が諏訪の領主として復帰する。


頼忠は長男頼水を領主に就けて四男頼広を上社大祝とし、以後諏訪家は藩主家と大祝家に分かれる。


藩主諏訪家とその藩政

諏訪市博物館 「諏訪のお殿さま―歴代高島藩主諏訪家の人・もの・思い―」展示より


旧領復帰した諏訪頼水は、初代高島藩主となる。


その後江戸時代を通じて諏訪氏は一度も国替えがなく、明治維新で廃藩となるまで代々藩主を務めた。


諏訪家は高島城を居城として、頼水、忠恒、忠晴、忠虎、忠林、忠厚、忠粛、忠恕、忠誠、忠礼と十代続く。


江戸時代を通じて同じ家が領主を務めた藩はあまり多くない。


初代頼水・二代忠恒は藩の職制を整えたり新田の開発をするなど、高島藩の基礎を築いた。


幕藩体制が確立すると三代忠晴の頃から藩主に文芸を楽しむ余裕が生まれ、文治政治が始まる。



五代忠林の頃から藩政の中心を家老家が担うようになり、以前から困窮していた藩の財政の対応策における家老間の意見の相違が発端となって御家騒動が起こる。


以後の藩主は藩の立て直しに努めるが、それは九代忠誠のころまでかかる。


十代忠礼のときに明治維新により高島藩は廃藩となり、藩主としての諏訪家および高島藩は約二百七十年の歴史を閉じる。


歴代高島藩主諏訪家


初代 諏訪頼水(よりみず) 諏訪の礎を築く


頼水は先代頼忠が上野国惣社(現在の群馬県)にいた時に家督を譲られ、以後父とともに諏訪家の基礎を固めた。


関ケ原の戦いで徳川秀忠の上田城攻めに従軍し、その恩賞で諏訪を再び与えられて高島城に入場した。


以後、高島藩主として新田開発など国力の安定化に尽力し、高島藩の基礎を築いた。


頼水は諏訪社信仰が厚く、旧領復帰すると元和三年(一六一七)に、織田信長によって焼失した上社の社殿新築(現在は富士見町・乙事諏訪神社に移築)を実現した。


上社の社殿再興は父頼忠も切望していたこであった。


徳川家の家臣で三河岡崎藩(現在の愛知県東部)初代藩主の本田豊後守康重の娘を正室として迎え、徳川氏と関係を深めて諏訪氏の地位を確立した。


頼水はかつての苦難を共に乗り越えた家臣とのやり取りを密に行っており、当時の家臣の末裔家には頼水からの書状が多く残されている。


二代 諏訪忠恒(ただつね) 受け継がれる父の遺志


忠恒は十三歳のときに二代将軍徳川秀忠に謁見し、秀忠から「忠」の字を賜る。


これにより以後の諏訪氏の通字(名前に代々用いる漢字)が「頼」から「忠」に代わる。


忠恒は徳川家康が豊臣氏を滅ぼした二度の大坂攻め(大坂冬の陣・夏の陣)の際に当時藩主の父頼水とともに徳川方に属し、夏の陣では若くして諏訪の軍勢を率いて出陣し功績を挙げた。


この大阪夏の陣の恩賞として高島藩は五千石の加増を受ける。



忠恒は父頼水の進めた諏訪湖の開拓や新田開発どの施策を継承し、高島藩の支配体制を強固にする。


また、父の意思を継いで温泉寺を創建し、諏訪家の新たな菩提寺にした。


さらに諏訪上社の拝殿奥に御神体として鉄塔(石造の宝塔・温泉寺に現存)を献納した。


三代 諏訪忠晴(ただはる) 文治政治の始まり


忠晴は、家臣が支配権を持つ地方知行から、藩庫から米を支給する蔵方知行へと知行制度を大きく改めました。


また宗門改めの実施、法制の整備など、初代頼水の代から行ってきた施策を整備し、藩の体制を確立させる。


忠晴は越後国(現在の新潟県)の高田城守備や、大坂上の警護に加勢する大坂加番など幕府の役職も務めた。



この頃から藩政が落ち着いて藩主が文芸を楽しむようになり、忠晴は絵画や詩作に優れ特に漢詩を得意とした。


また、文治政治を推奨した当時の将軍綱吉が自ら開いた論語の講義にも列席したり、歴史書「武林小伝」を著すなど、学芸をよく好みました。


絵画では西王母や孔子を多く題材する。


忠晴は政治、諸芸と多面的に才能を発揮した文人藩主であった。


四代 諏訪忠虎(ただとら) 文人との交友を広める


忠虎は家督を継ぐと、家臣の心得や生活規範などをまとめた家中法度や郡中法度を発令した。


また、新田開発によって各地で発生した入会紛争の裁定をしたり藩内の林改めをするなど、藩政整備の仕上げをした。


大坂城の警備をする大坂加番を六回務めたほか、赤穂浪士吉良邸襲撃事件(赤穂事件)で流罪になった吉良義周を預かるなど、幕府の役儀も多く務めた。


忠虎は文芸に秀で、詩歌や絵画、特に俳諧を得意とし、多くの作品を残した。


忠虎も父忠晴と同様に将軍綱吉の論語講義に列席する。


江戸では松尾芭蕉門下の俳人宝井其角や服部嵐雪に学び、多くの文人と交友があった。


一方で馬好きとしても知られ、幼少の頃から剣法や兵法も学んでいた。


五代 諏訪忠林(ただとき) 学問の道を究める


忠林は二代忠恒の弟頼郷の曽孫にあたり、忠虎の男児がいずれも早世したため養子として藩主諏訪家へ迎えられ家督を継いだ。


京都で育ち、病弱で江戸住まいが長かったため諏訪の事情に詳しくなく、藩政にも興味が薄かったと言われている。


忠林は諏訪の地を知るために、各村から集めた絵図を画師にまとめさせ「諏訪郡一村限絵図」を作り手元に置いていた。


この頃から藩政は藩主に変わって家老が中心に担うようになっていた。


一方で忠林は学問や文芸に非常に熱心で特に詩作に優れた。


荻生徂徠派の漢詩人で儒学者の服部南郭に師事し、詩を通じて多くの文化人や諸大名と交流があった。


忠林は詩に関する多くの研究書を著し、蔵書も多数ある。


また、養父忠虎が建てた小さな建築に「八詠楼」と名前を付けて文芸のための離れとした。


四代忠虎や忠林の文芸の趣味は家臣にも影響を与えたと言われ、家臣の中にも俳諧などを好む者を多く生んだ。


六代 諏訪忠厚(ただあつ) 二之丸騒動が起こる


忠厚は父忠林以上に生まれつき体が弱かったと言われ、諏訪に帰城することは少なく大半を江戸で過ごした。


これにより五代忠林以降藩政の中心を担っていた二つの家老家(二之丸諏訪家・三之丸千野家)の実権はますます強くなる。


長年の藩財政の困窮がいよいよ逼迫したことにより、家老家の間でその対応策を巡る争いが起こる。


これは藩主の後継ぎ問題にも発展し、一藩の危機を招くほどの大波乱となる。


これらの一連の事件は「二之丸騒動」と呼ばれる。


忠厚は、この責任を取る形で三十六歳で藩主の座を降りる。


七代 諏訪忠粛(ただかた) 藩政の立て直し


忠粛は父忠厚の隠居を受けて十四歳で家督を継ぐ。


二之丸騒動では二之丸諏訪家に命を狙われたとも言われる。


二之丸騒動による失費や凶作による悪化した藩財政の立て直しを進め、八ヶ岳山麓の治水対策として農業用水の開発がされる。


この時代は全国的い藩政が家老家主導で行われており、将軍や藩主は形式的なものになっていた。


幕府では老中松平定信による寛政の改革の中で藩政改革が推し進められ、高島藩では藩士の育成のための藩校として「長善館」が設立される。


八代 諏訪忠恕(ただみち) 松平定信が認めた男


忠恕は、文化十二年(一八一五)に幕府老中松平定信の娘・烈(後の清昌院)を正室とし、その翌年十七歳のときに家督を継いで藩主になる。


幕府では十年もの長い間外桜田門番を務める。


定信が書いた日記「花月日記」には、忠恕が定信の家をよく訪れていた様子が書かれている。


そこには忠恕は大人しくて慎ましい穏やかな人柄であり、諏訪家は古い習わしが残る家で行く末が良い、などと記されている。


家柄に大きく差がある婚姻であったため、周囲からは羨望の目で見られたと言われる。



忠恕の治世下では、諏訪湖釜口(天竜川の河口部分)にあった浜中島を撤去し、湖辺の開拓を行った。


また備荒貯蓄のための倉庫「常盈倉」が設立され、その後の飢饉対策に貢献した。


九代 諏訪忠誠(ただまさ) 高島藩の出世頭


忠誠は二十歳で家督を継いで藩主になり、幕府の要職を歴任し老中にも就任した。


忠誠はかねてより藩政に強い関心を抱き、その才は幼少から外祖父松平定信が認めていた。


忠誠は第二次長州征伐に反対したことにより自ら老中を辞しますが、幕末の幕政で大きく活躍し幕閣内で強い影響力を持った人物であり、討幕派から強く警戒されていた。


藩では藩政改革として財政の立て直しに苦心した。


水戸天狗党の侵入、板垣退助率いる甲州路官軍の先導、神宮寺の破却など、忠誠は幕末の動乱の中で数々の難局を凌ぎながら、藩主として藩の命脈を保った。


十代 諏訪忠礼 高島藩最後の藩主


忠礼は九代忠誠の弟で旗本の諏訪頼威の次男で、忠誠の男児はみな早世したため藩主諏訪家に養子として迎えられた。


慶応四年(一八六八)十五歳のときに忠誠の隠居を受けて家督を継ぎ藩主となるが、翌年版籍奉還によって高島藩知事に、その後廃藩置県により高島県知事となる。


諏訪家は華族に列せられ子爵を授かる。


明治四年(一八七一)に高島県が筑摩県へ合併すると諏訪家は東京へ移住しますが、病弱であったため養父忠誠が後見を務め、忠礼は二十六歳の若さで亡くなった。



国指定史跡 高島藩主諏訪家墓所


諏訪氏は諏訪社の神職や諏方の領主として古代以来の系譜をもつ。
上原には、上原城址や高島藩主諏訪家墓所の所存する賴岳寺があり、諏訪氏の所領として多くの歴史を育んできた場所である。
少林山賴岳寺は曹洞宗に属し、諏訪地方における名刹である。
それまで諏訪氏の菩提寺であった永明寺を破却後、高島藩初代藩主諏訪賴水が寛永八年(一六三一)諏訪氏の菩提寺として開基した寺である。
御霊屋(おたまや)は三室に分かれ、中央が賴水の父賴忠(永明寺殿)、右が賴忠夫人(理昌院殿)で、塔婆は共に五輪塔と宝篋印塔である。
左側が賴水(賴岳寺殿)で、家形の石造一重塔が安置され、中には五輪塔を描いた石碑が組み込まれている。
御霊屋の賴水廟の前面には賴水の子である賴郷・賴泰・賴孚や家臣が奉納した六基の石灯籠が建てられている。
また、賴水の子で、石灯籠を奉納している賴孚の墓石が御霊屋の脇に立てられている。
賴岳寺境内の廟所の周辺には、三代藩主忠晴の早逝した二人の子、大祝家、二の丸家および旧藩士の墓があり、近世初期の藩主と家臣団の構成を考える上で貴重である。
その後、二代藩主忠恒が、城下町上諏訪にあらたに菩提寺を建立したので、以後歴代藩主の墓所は温泉寺に移ったが、江戸時代を通じて諏訪家が藩主をつとめ、墓所も自領に揃い残されることなどが、近世大名の墓所のあり方を知る上で重要であるという理由により、温泉寺の歴代藩主墓所と共に国史跡に指定された。


茅野市教育委員会設置の説明版より


諏訪市博物館 「諏訪のお殿さま―歴代高島藩主諏訪家の人・もの・思い―」展示図録より

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