【承知川】 諏訪の民話や伝説~信玄の埋蔵金~

承知川~信玄の埋蔵金~

承知橋の欄干


いまから五百年ぐらい前は戦国時代と言って、各地の英雄がおたがいに戦いあっていた。


このころの英雄は、みな「俺が京都にのぼって、天下に号令するのだ」ということを一番の願いとして持っていた。


おとなりの甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信は、すぐれた武将で、おたがいにはやく京都にのぼろうとしていました。


天下を取るためには、まず、自分の周りの同じ夢を持っている敵をやっつけなくてはなりません。


信玄は、謙信をたおして京都へ出ようとし、謙信も、信玄を滅ぼして京都へ向かおうとしていました。


そこでふたりの大将は、川中島で顔を合わせて決戦をすることになりました。


信玄は、たくさんの家来を引き連れ甲斐を出発し、諏訪に入り、下諏訪を通り抜けようとしたとき、ふと、思いつきました。


「そうだ、お明神様は、いくさの神さまだった。お願いしよう。」


信玄はすぐに引き返して、お明神さまの前に進み出てひざまずきました。


しばらく頭をさげて、一心にお祈りしました。


「お明神さま、お願いです。今度の謙信との戦いは、ぜひ、信玄に勝たせてください。もし、勝たせていただけば、お礼にお社を新しく作りかえさせてさしあげます。」


と、約束しました。


そして、信玄は「諏訪大明神」と大きく書いた旗を、先頭に押したて川中島で華々しく戦いました。


二人とも、いくさの神さまとまで言われている人たちなので、広い山野、あるいは川原で、兵法の秘術を尽くし、ある時は勝ち、ある時は負け、また、信玄と謙信は一騎打ちなどして、十年あまりもの長い間、激しく戦いました。


勝ち負けはつかなかったが、信玄は、謙信に大きな損害を与えて、いくさは終わりました。


信玄は、たくさんの家来を引き連れ、引き返して来ました。


下諏訪宿を通り過ぎ、街外れの川端まで来た時でした。


おかしなことに、今まで元気に歩いていた信玄の馬が、突然弱って前足をヘナヘナと折って動きません。


家来たちが驚いてみんなで前足を起こして歩かせましたが、二、三歩進むと、またヘナヘナとくずれて動きません。


どうしても、進むことができません。


信玄は不思議に思いました。


その時、頭の上でハタハタと音がしました。


上をひょいっと見ると、風がちっとも吹いていないのに「諏訪大明神」と書いた旗が音を立てて鳴っているのです。


信玄は、お社を作り直してさしあげることをすっかり忘れていました。


お明神さまの方にくるりと向き直り


「お明神さま、承知しました。約束どおりお社を作りかえます。」


と、割れるような大きな声で叫びました。


するとどうでしょう「諏訪大明神」と書いた旗が静かになりました。


そして、今までどうしても進むことが出来なかった信玄の馬がスッと立ち上がり、なんなく川を渡ることが出来ました。


信玄が「承知しました」と叫んだこの川を後に、「承知川」と呼ぶようになりました。


その後信玄は、約束したとおりにお社を取りかえようと出かけました。


ところがお社は新しく作りかえたばかりで、まだ、その必要はありません。


それではと信玄は、いつでも好きな時にお社の作りかえが出来るようにと、たくさんのお金をお明神さまの近くの土の中へ埋めました。


「朝日さす、夕陽かがやく榎本に、黄金千両、朱千両・・・」


と、お金を埋めたところを言ったそうです。


さて、信玄が土の中へ埋めたたくさんのお金は、その後、掘り出されることなくそのままにされているとのことです。


甲州道中の承知川にかかっていた橋石


承知川橋の記


この一枚石は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。


輝石安山岩 重量約拾参屯


伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦の砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したと言う。
爾来承知川と呼びこの一枚石の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。
この一枚石の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。
表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。
この度新橋掛替に当ってこの橋石を永久に此処に保存する。


久保海道町


諸説あり


出典 諏訪のでんせつ 竹村良信 著

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