霧ケ峰の自然と歴史~諏訪信仰の原点の地~

霧ケ峰の自然と歴史~諏訪信仰の原点の地~

霧ケ峰高原とは

霧ヶ峰は、長野県の中部、八ヶ岳中信高原国定公園の中央に位置し、主峰車山(一九二五メートル)から鷲ヶ峰にかけての周辺、概ね標高一五〇〇メートルから一九〇〇メートルに広がる高原である。

 

霧ヶ峰は、広い草原に湿原と樹叢が点在する独自の自然景観で知られるが、自然のみならず旧石器時代からの遺跡など多くあり歴史遺産の価値も高い。

 

霧ヶ峰湿原植物群落は八島ヶ原湿原植物群落・踊場湿原植物群落・車山樹叢湿原植物群落および草原植物群落の三箇所からなる国指定の天然記念物である。

 

国内南限の高層湿原群であり、霧ヶ峰固有の植物も生育するなど豊かな植生を持った学術的にも貴重な湿原である。

 

八島ヶ原湿原

八島ヶ原湿原は標高 一六三〇メートルにあり、北西の鷲ヶ峰(一七九八メートル)、北東の男女倉山 (一八〇七メートル)、南の丸山(一六七六メートル)に囲まれた高層湿原である。
流入河川は雪不知沢ひとつであるが、湿原内に数箇所の湧水があるため、年間を通してある程度の水 位が保たれている。
水は、湿原内の各水路を通り、御射山から観音沢となって流出し、砥川を経て諏訪湖に注いでいる。

 

踊場湿原

踊場湿原は、池のくるみとも呼ばれ、標高一五四〇メートルで、周囲をガボッチョ山(一六〇九メートル)、ゲーロッ原(一六八四メートル)などに囲まれ、断層によって形成された東西約八二〇メートル、南北約一〇〇メートルの盆地にできた湿原で、約八.二ヘクタールの面積がある。

 

車山湿原

車山湿原は標高約一七八〇メートル、南に車山(一九二五メートル)、北に蝶々深山(一八三六メートル)があ って、これに挟まれた谷間の渓流を中心として発達した湿原で、面積は約九ヘクタールである。
湿原内には多くの湧水があり、これが合流して西に流れて東俣沢となり、沢渡を通って観音沢に注いでいる。

 

霧ヶ峰の歴史

旧石器時代(黒曜石)

霧ヶ峰と人の関わりは非常に古い。

 

霧ヶ峰の古代の遺跡の特徴は、黒曜石の一大産地である和田峠に近いことから、黒曜石の加工に関わる遺跡をはじめとして、旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡が多く存在することである。

 

八島遺跡、雪不知遺跡、物見岩遺跡等、旧石器時代の黒曜石加工に関わる遺跡があり、霧ヶ峰南部のジャコッパラ遺跡群には諏訪地方最古級(約三万年前)の遺跡や縄文時代の落とし穴遺構がある。

 

また、鷲ヶ峰西側の星ヶ塔遺跡からは縄文時代の黒曜石鉱山が発見されている。

 

霧ヶ峰産黒曜石の矢じり、槍先形尖頭器、ナイフ形石器等は、現在の関東地方、中部地方等で多数発見されているほか、縄文時代の遺跡としては遠く青森県の三内丸山遺跡でも見つかっている。

 

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中世(御射山祭)

霧ヶ峰では弥生時代から奈良時代までの遺跡は発見されておらず、この間は空白期であるが、平安時代から中世の遺跡は多い。

 

特に旧御射山遺跡は、鎌倉時代に幕府の庇護を受けて全国の武士が集まり盛大に行われた御射山祭を偲ばせる遺跡であり、祭祀に使われた薙鎌(なぎがま)や馬具類、鏃(やじり)等鉄製の道具及び素焼きの皿である「かわらけ」などが多数出土しているほか、旧御射山神社前の広場を囲むように、かつて祭の見物席であった桟敷の遺構がある。

 

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近世から現代

近世以降は、野焼き(火入れ)も行われ周辺農村の採草地といて利用された。

 

明治時代になると、霧ヶ峰は、美しい花の咲き乱れる景勝の地として知られるようになる。

 

島木赤彦の短歌、随筆をはじめとする近代文学の題材となり、深田久弥、藤原咲平、柳田国男等様々な分野の文化人が訪れて霧ヶ峰で「山の会」が催されるなど霧ヶ峰の文化は深みを増した。

 

さらに、昭和初期にいち早く池のくるみ(踊場湿原) にスキー場が開発され、霧ヶ峰グライダー研究会が設立されるなど、スポーツとの関わりも深い。

 

昭和四十三年(一九六八)、ビーナスラインが旧御射山遺跡のまん中を貫き、八島ヶ原湿原のへりをかすめて通るルートで建設されようとしたとき、地元の住民が反対に起きあがり、建設路線を変更させて奥霧ヶ峰を守った。

 

霧ヶ峰の麓の村に生まれ育った作家の新田次郎は、この事件を題材とした長編小説「霧の子孫たち」を書き、自然保護運動の記念碑的作品として読みつがれている。

 

霧ケ峰の自然

 

霧ヶ峰の草原は、周辺集落の人々の採草により維持されてきた半自然草原である。

 

これまで霧ヶ峰高原の草原と山麓集落との関わりについては、草原化の起源が鎌倉時代であること、近世以降霧ヶ峰高原は肥料や飼料となる草の採取に利用され近世末には全域が草原となり明治以降化学肥料の普及により採草利用が減少し草原の縮小が始まった。

 

昭和初期には標高一五〇〇メートル以上は秣(まぐさ)の採取に利用されていた。

 

降水量の多い日本列島では、高山や海岸風衝地に成立する自然草原を除けば、何らかの人為的干渉がなければ森林が成立する。

 

そのため、多くの草原は人間による火入れや採草、放牧などにより形成された二次草原である。

 

霧ヶ峰高原の草原も採草利用により維持されてきた二次草原であるが、採草利用の停止により草原の森林化がすすみ、草原景観の消滅や草原性動植物の絶滅さらには生態系全体への影響が危惧されている。

 

【八島のかきつばた】 諏訪の民話や伝説

 

出典 霧ヶ峰の今とみらい ~ 霧ヶ峰再生のための基本計画 ~ 霧ヶ峰自然環境保全協議会

出典 長野県環境保全研究所研究報告 霧ヶ峰高原の山麓集落による高原資源の利用と生業の変遷-近世から近代を対象に- 浦山佳恵

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