【八島のかきつばた】 諏訪の民話や伝説
八島のかきつばた
大昔のお話です。
霧ケ峰高原の八島に、磨き上げたようなきれいな池がありました。
池の中には、そこここに大きな島、小さい島がいくつも浮いていました。
池の北側の谷間に、ひとりの少女が住んでおりました。
名前を「かきつばた」といいました。
「かきつばた」の美しいことといったら、言葉に言いようがありません。
池のまわりに咲き乱れている、沢山の花の美しさを、みんな寄せ集めたような美しさで、見る者をうっとりさせています。
「かきつばた」は、昨日はこの赤い花が咲いたわ、今日はあの紫の花が開いたわと、毎日毎日池のほとりに咲いていく花を、楽しみに眺めていました。
池の南側の尾根に、一人の若者が住んでいました。
名前を「山彦」と言いました。
山彦は体ががっちりしていて、太い眉を持ち、きりっと引き締まった口元など、見るからに逞しい若者でした。
山彦は来る日も来る日も、広い霧ケ峰の高原を、鹿のように駆け巡って狩をしていました。
ある日のことでした。
その日は、父色をした濃い霧が池も高原も山もすっかり隠してしまった。
かきつばたは、今日も花を眺めに、池のほとりのジメジメしたところを南へゆっくり歩いていました。
ちょうどそのころ、山彦も獲物を求めて、池の近くを北へ急いでいました。
二人が池のほとりの中ほどへ来たところでした。
父色の濃い霧がぽっかり割れて、緑の絨毯を敷いたような八島の高原、青い空のような池の水、やさしくほほえんでいる車山が開けました。
かきつばたと山彦は、ぱったりとはじめて会い、お互いに驚きの声をあげました。
かきつばたは、りっぱな若者山彦を、山彦は美しい少女のかきつばたをひと目見てお互いに好きになりました。
少女と若者は、すぐに打ち解けてあれこれと語り合いました。
そして、「あなたはなんと男らしく立派な方でしょう。」
かきつばたは、優しく言いました。
「私が立派だって。いやいや、貴方こそ何て美しい方でしょう。」
山彦は赤くなって言いました。
でも、二人とも、まだ、本当の自分の姿を見たことがないのに気が付きました。
それではというので、自分の姿を池の水にうつして見ることにしました。
かきつばたと若者は、池の中の小さな島に、飛び移りました。
そして、まず、山彦が恐る恐る池の表に顔を出しました。
その時、ちょうど車山の方から、さっと風が吹いて来ました。
池にさざ波がたって、山彦の顔はギザギザになり、恐ろしい顔に映りました。
「あ。なんてひどい顔でしょう。りっぱだなんてとんでもない。うそだ、うそだ。」
若者は、がっかりしました。
今度は、かきつばたが、池に姿を映しました。
その時は、風が少しもなく、池は鏡のようでした。
「あっ」
はじめて見た自分の姿、何て美しいのでしょう・・・。
かきつばたはあまりの美しさに驚きました。
そしてじっと見入ったままです。
「かきつばたさん。かきつばたさん。」
山彦が、いくら呼び掛けても返事をしません。
美しい自分の姿にいつまでも見とれているのです。
その内に、不思議な事がおこり、かきつばたは緑の茎になり、葉になり、顔はしたたり落ちるような、紫の花になり、かきつばたの花の姿に変わってしまったのです。
かきつばたの花は、もう前の少女、かきつばたにはかえりませんでした。
山彦は悲しみました。
車山をどんどん駆け上って、大岩の上から谷をめがけて飛び込みました。
そして、行方が分からなくなってしまったそうです。
今も、かきつばたの花は、八島の池のほとりのあちらこちらに紫の美しさを飾っています。
また、車山の頂に登って耳を澄ませば、谷の下の方から吹き上げてくる風が、何かしら「かきつばた」を呼ぶ、山彦の悲しい声に聞こえてくるそうです。
諸説あり
出典 諏訪のでんせつ 竹村良信 著