晩年の犬養毅(木堂)と白林荘 【富士見を愛した文人、政治家】
犬養毅(木堂)
犬養毅は明治後期から昭和初期に活躍した政治家である。
大日本帝国憲法下の戦前にあって、日本に芽吹いた政党政治を守らんと、強権的な藩閥政治に抗い、腐敗した利権政治を指弾し、増大する軍部と対峙し続け、文字通り立憲政治に命を賭けた人であった。
「憲政の神様」「五・一五事件で暗殺された」などのエピソードが有名であるが、その功績や生涯についてはあまり知られていない。
日本は、明治維新を成し遂げ、近代民主主義国家をめざしたが、当時は国会もなく、藩閥政治といって政府は、主として薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)出身者によって運営されていた。
薩長出身者だけでなく、より広く民意を反映するような民主主義体制にすべきだとして自由民権運動が始まり、明治十四年(一八八一)「薩長派」と「自由民権派」の対立する中で、明治天皇は明治二十三年(一八九〇)を期して国会を開設することを公約した勅論を出した。
この国会開設を前提に、政府は憲法制定の準備を開始する。
これに対して自由民権派も相次いで政党を結成し、独自の憲法草案を作成して発表していった。
日本で初めての選挙は、投票率九十三・九パーセントという驚異的な数字を記録した。
選挙という「初物」が人々の好奇心をそそったのか、現在に至るまで最高の投票率である。
自由党の中江兆民は、民権派の政党を「民党」と呼び、政府寄りの政党を「吏党」と名付け、この呼び名が新聞を通して広まり、第一回帝国議会は、民党と吏党の激しい対立の場となった。
しかし、その後の政党政治は、政友会と民政党が泥沼の政争を繰り広げ、国民は政治不信になり、官僚主導の政治に期待をよせるようになる。
その官僚たちは昭和研究会の影響を受け、全体主義化していく中で、政党は自滅していく。
犬養内閣は、昭和六年十二月十三日から翌年五月十五日までの短い内閣である。
普通選挙法の制定や、昭和恐慌の立て直しに尽力された。
経済では高橋是清を大蔵大臣に据えて公債発行による積極財政を展開し、景気をV字回復させ、満州事変に対しては外交交渉による解決を目指した。
しかし、マスコミに煽られた世論の暴走に乗った軍部の暴走は止まず、白昼堂々と首相官邸で暗殺された。
昭和七年五月十五日に海軍青年将校らが起こした五・一五事件である。
武装将校の乱入にも気圧されず、政党政治家らしく毅然とした態度で説得を試みたことは確かだったという。
「狼の義 新犬養木堂伝」林新・堀川恵子著より、最後の言葉は「話せば分かる」ではなく、「テル、もう帰ろうや・・・」「テル、帰ろう・・・」であったという。
犬養が帰ろうとしている先は、仕事もこれで終わり、四谷ではなく、八ヶ岳の裾野、信州富士見の白林荘に帰る準備をしてくれと手伝いのテルに伝えたかったのかもしれない。
白林荘
犬養が初めて富士見に行ったのは大正十一年(一九二二)の春である。
先に同じ所に別荘を持っていた日露戦争前から付き合いのあった政友会の小川平吉に、「高原の自然が雄大で美しい上に、土地が高燥で軽井沢のように湿気がなく、健康にもいい」と勧められ、当時「朝鮮別荘」と言われた所を借りたのが最初である。
犬養にしてみると、海の風景と異なるものを山に見出し、この地はよほど心が動かされ、何か惹きつけられたのであろう。
犬養毅(木堂)は晩年の地として、大正十三年(一九二四)に八ヶ岳の裾野に広がる富士見の村にささやかな別荘を建てた。
亭々たる赤松に映える白樺の林が気に入り、「白林荘」と名付けた。
右を見れば赤岳を中心に西岳、編笠岳、阿弥陀岳が空を突き、左を眺めれば入笠山から続く連峯の後ろに駒ケ岳が、晴れた日には正面に富士山が望める、壮大な眺めの場所であった。
当時の軽井沢は開発が進み都会的な空気を醸し出していたが、富士見の町は、都会人らしい姿は見当たらず、モンペ姿の農夫が畑仕事に精を出し、素朴そのものであった。
大正十四年(一九二五)に政界を一度引退してから政界に復帰するまでの三年間ほどこの地で庭仕事に精を出し、地元住民と交流を深めた。
東京から高名な犬養毅(木堂)がやってくると聞いた富士見の村人たちは、どんな男だろうと想像したが、現れたのは農夫姿の好々爺だった。
青年たちは犬養毅(木堂)信者となり、白林荘の周りに白樺を植樹するのを手伝うようになった。
一日の仕事を終えると、白林荘の敷地にある小屋に皆が陣取り、老人と青年は囲炉裏を囲み、山菜や肉鍋をつつき、翁が煙管片手に語り始めると、それを皆が息を吞むように聞き入った。
村で子どもが生まれれば先生に名付け親になっていただき、大勢の子の名付け親になったようである。
しかし、昭和政界の激動は、犬養毅という政治家が信州の山奥に韜晦(とうかい)し、そこで静かに生涯を閉じるというささやかな幸せを全うすることを許さなかった。
白林荘由来
白林荘は犬養木堂翁遺愛の別墅なり、翁生前富士見高原の自然を愛すること深く、富士の秀麗と八ケ岳の豪壮を併せ望む高原の景観は、翁をして晩年終にその自適隠棲の地としてこれを擇ばしむるに至れり。
乃ち大正十三年海抜三千三百尺一萬餘坪のこの地を相して別墅を營み配するに遠く北支より移せる龍爪柳白松朝鮮の五葉松等を以てしたり。
斯くして満庭の一木一艸すべて翁自らの丹精になるものなれ共、特に白樺は翁自ら毎年その苗木数百株を養成しその成長を楽しみとせり。
今やこれらの苗木長じて白林となる。
思うに翁この山荘を白林荘と呼び稱び自らも亦白林遯叟と乕せしは、その白樺に寄せたる限りなき愛着に由るものなるべし
翁晩年政塵をこの山荘に避け、詩牧筆墨を友として餘生をこの地に送らむとせしに、偶々三顧の禮に遭いて終に再び山荘に還らず翁亡き後山荘の雨露に侵さるるところ尠なしとせず。
乃ち修復の工を起し茲に完成の機會に山荘の由来を記しこれを後に傳へむとす。
昭和三十四年晩年
白林荘内の説明板より
民選議員設立建白書
朝起きたらお天道さまに手を合わせ、毎日一生懸命働き、家族を大切にし、先祖を敬う。
道徳的に調和で満ちた、素朴で幸福に満ち足りている「庶民の日本」
西洋のような近代産業国家にならなければ、日本も他のアジア諸民族と同じく、欧米列強の植民地になってしまう。
危機感から、古来の道徳や文化の良さに惹かれようとも、日本を守るために過去と断絶していかなければならないという「エリートの日本」
この二つの思想に明治以降の日本は分かれた。
庶民とことなりエリートの多くは「国を守るため」という大義名分のもと、富国強兵という近代化の背後で、自国の伝統を軽んじることを教えられ、精神的な空洞の中に追い込まれた。
一般庶民がどんなに善良で、日本の文化や伝統を大切にしながら一生懸命に働いていたとしても、「あなた方はそれでいいかもしれないが、われわれはそんな悠長なことは言ってられない。それでは国が滅びてしまう。あなた方は、われわれエリートのやることに従うしかないのだ。」「所詮、一般庶民にはわからない」と、官僚優位、庶民感情軽視の意識に繋がっていく。
明治維新を経た政治は「藩閥政治」と「士族」による対峙が基本構造で、それは自由民権運動という形になって発露した。
板垣退助達は、薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)出身のごく一部の人間が動かしている現政府体制を批判し、国民が選んだ議員による開設を求めた。
選挙で選ばれた政治家による議会で国家運営をすべきという声が上がり、板垣退助達の出した「民撰議員設立建白書」によって、自由民権運動は勢いを増した。
「民撰議院設立建白書」を簡単にまとめると
日本では実質的に一番偉いのは官僚で、その官僚による恣意的で理不尽なルールで国民は翻弄されている。
しかし、国民にはそれに文句を言う自由も場所も無い。
これで日本が良い国になるはずが無い。
政府に税金を納める国民が、政府に文句や意見が言えるのは当然であるから国会を作ろう。
国民の正当な権利を確立すれば、社会は元気になり、日本全体が発展して、幸福で安全な国になる。
国会を作って、みんなで議論を発展させよう。
である。
全文は国際政治アナリストの渡瀬裕哉氏が口語訳した文が公開されている
「民撰議院設立建白書(口語訳全文)」
選挙も国会もあるのが当たり前の社会で暮らしている現在、これらの権利は先人たちが必至で勝ち取った権利である。
政治不信が叫ばれる中、今一度、自分たちの自由と権利について考えるきっかけにしたい。
出典 狼の議 新犬養木堂伝 林新・堀川恵子 著
出典 犬養毅 その魅力と実像 時任英人 著
出典 コミンテルンの謀略と日本の敗戦 江崎道朗 著
※白林荘は一般公開しておらず、白林荘敷地内には許可なく立ち入りできないので注意が必要である。