神長官守矢史料館(じんちょうかんもりやしりょうかん)
諏訪大社上社前宮と本宮を結ぶ道中、高部地区にこの史料館はある。
諏訪大社上社の祭祀の不思議な二重性や、明治以降廃れてしまった、かつてのミシャグジ神信仰の祭祀の状況が展示されていて非常に興味深い場所である。
神話時代の地方史を研究する上では貴重な史料館となっている。
資料館に収蔵されている古文書は、約1,600点で、その内155点が長野県宝、50点が茅野市の有形文化財に指定されている。
神長官守矢家(じんちょうかんもりやけ)とは
神長官守矢家(じんちょうかんもりやけ)は、古代から明治時代の初めまで、諏訪大社上社の神長官(じんちょうかん)という役職を勤めてきた家である。
大祝(おおほうり)諏訪(すわ)氏は、現代神(あらひとかみ)(生神)であって、実際に神事を取り仕切っていたのが神長官(じんちょうかん)であった。
神長官(じんちょうかん)は諏訪大社の筆頭神官であり、神長守矢が代々一子相伝の口伝により、歴史を伝えてきたと言われる。
大祝(おおほうり)についてはこちらを参考にしてほしい。
【現人神】 諏訪信仰の古き歴史を知る。
モレヤとタケミナカタ
諏訪地域には、『古事記』に書かれた国譲り神話とは別に、もう一つの国譲神話が言い伝えられている。
そのことは、室町時代初期に編まれた『諏方大明神画詞』などに記されている。
出雲系の民族を率いた建御名方命(たけみなかたのみこと)が諏訪に侵攻したとき、この地に以前から暮らしていた洩矢神(もりやのかみ)を長とする先住民が、天竜川河口に陣どり迎えうった。
建御名方命(たけみなかたのみこと)は手に藤の弦を、洩矢神(もりやのかみ)は手に鉄の輪を掲げて戦い、結果は洩矢神(もりやのかみ)が負けた。
出雲から侵入した建御名方命(たけみなかたのみこと)は、諏訪大明神となり、現在の諏訪大社のはじまりになる。
このようにして、諏訪の地は中央とつながり新しい時代を生きてゆくことになった。
しかし、諏訪大社の体制を見ればよくわかるが、先住民である洩矢の人々はけっして新しく来た出雲の人々に虐げられたりしたわけではなかったようである。
建御名方命(たけみなかたのみこと)の子孫である諏訪氏が大祝(おおほうり)という生神(いきがみ)の位に就き、洩矢神(もりやのかみ)の子孫の守矢氏が神長(のちの神長官ともいう)という筆頭神官の位に就いたのです。
大祝(おおほうり)は古くは幼児が即位したといわれ、即位に当たっては、神降ろしの力や、呪術によって神の声を聴いたり、神に願いごとをする力は神長(じんちょう)のみが持つとされており、この地の信仰と政治の実権は守矢が持ちつづけたと考えられる。
諏訪の地は、大祝(おおほうり)と神長(じんちょう)による体制で、信仰と政治の一体化した諏訪祭政体として、古代、中世と続いた。
大祝(おおほうり)についてはこちらを参考にしてほしい。
【現人神】 諏訪信仰の古き歴史を知る。
御頭祭(おんとうさい)
神長守矢が司る諏訪大社上社の祭祀のうち、もっとも大がかりで神秘的なものは御頭祭である。
江戸時代までは諏訪大社上社において御頭祭と御射山祭は、非常に重要な神事であった。
長期にわたるこの祭の中で、諏訪大社上社前宮十間廊(じっけんろう)で行われる『神と人との饗宴』の供物の一部を守矢史料館では復元して展示している。
御頭祭は、江戸時代までは旧暦の3月酉の日、現在は4月15日に行われている。酉の日で行われていたので、「酉の祭」とも言われる。
御頭御社宮司総社
全国の、地元では「ミシャグジ」と言う「御社宮神」の総本社がこの御頭御社宮司総社である。
諏訪大社の祭政体はミシャグジ神という樹や笹や石や大祝(おおほうり)、生神(いきがみ)に降りてくる精霊を中心に営まれている。
そのミシャグジ神の祭祀権を持っていたのが神長であり、重要な役割としての「ミシャグジ上げ」や「ミシャグジ降ろし」の技法を駆使して祭祀をとりしきっていた。
「ミシャクジ」についてはこちを参考にしてほしい。
【モレヤの神】 諏訪信仰の古き歴史を知る。
神長官裏古墳
神長官守矢家の敷地内にある古墳でミシャグジ社の南方に位置する。
現在も墳丘が残り、石室部の後方が開口している。大正13年の石室内調査では、木棺破片と小刀子があった。