【井戸尻遺跡】高原の縄文大国~井戸尻文化の中心~

高原の縄文大国 ~井戸尻文化の中心~

天を仰ぎ見る富士見町坂上遺跡の土偶

 

考古学者、戸沢充則は、縄文時代の中で3つの特徴的な地域文化をあげている。

 

縄文時代後期を中心に、関東地方の海岸に発達した「貝塚文化」
遮光器土偶で有名な、縄文晩期、東北地方の「亀ヶ岡文化」
信州の縄文中期の「井戸尻文化」

 

長野県富士見町の遺跡遺物と、その研究から「井戸尻文化」とした文化は、最初に土器が名付けられた神奈川県の遺跡の名から「勝坂文化」とも呼ばれる。

 

縄文時代中期の重要な遺跡群を点にして括ってみると、甲府盆地を中心にして長野県の南半分、山梨県、神奈川県、東京都、埼玉県の荒川より西側、静岡県の富士川より東側くらいの範囲となり、「勝坂式文化圏」または「富士眉月弧文化圏」と名付けている。

 

文化の中心地はどこかというと、地理的中心地は甲府盆地だが、盆地自体にはこの時代の遺跡はあまりなく、甲府盆地を挟んで東と西に中心地が対峙しているのである。

 

東の中心は山梨県立考古博物館がある笛吹川の左岸の丘陵地帯、西の中心地は八ヶ岳の西南の裾野、井戸尻考古館がある地域になる。

 

なぜそのようなことが言えるのかというと、他の地域に比べて、二つの地域から出土するこの時代の土器群の造形が、非常に立体的であったり、彫刻的文様であったり、群を抜いて優れているからである。

 

多様で具象的な造形や文様から、当時の人たちの世界観、あるいは宗教観念が伝わってくる場所なのである。

 

消された論説 「縄文農耕論」

諏訪市博物館の藤森栄一の説明パネル

 

富士見町の井戸尻遺跡は特別な存在で、縄文考古学会の中では「異端」と呼ばれている。

 

その理由は縄文時代に農耕文化があったと主張しているからである。

 

その中心人物が、井戸尻遺跡発掘に取り組み、八ヶ岳山麓の考古学において先駆的な業績を上げた在野の考古学者「藤森栄一」である。

 

宮崎駿監督作の「となりのトトロ」の主人公のお父さんのモデルになった人物でもある。

 

戦後まもなく、八ヶ岳山麓の縄文遺跡から出土する考古遺物を検討する中で、これらの文化構成は、どうしても農耕社会を想定しないと理解が出来ない面があるという考えに達した。

 

有名な「縄文農耕論」である。

 

しかし、縄文時代は狩猟や採集を中心とした社会であるとする当時の学会の認識からは、到底納得しえない衝撃的な内容のものであった。

 

今日的にみれば、論旨のなかに不十分な点や修正すべき内容があることは否めないが、今では縄文時代に農耕があったことは既に常識であり、北部九州においては縄文末期には稲作も行われていたことが実証されている。

 

井戸尻考古館では、藤森氏の意思を受け継ぎ、縄文農耕の立証と文化内容を一貫して追求し、その後、遺跡からエゴマやマメ類、ヒョウタンの仲間などの栽培植物の種子が発見され、一部に栽培を行っていたことが明らかになっている。

 

心をゆさぶる土器たち ~諏訪地方の土器のすばらしさ~

10円ハガキと渦巻文大把手付土器のレプリカ

 

縄文土器の編年というのは研究の基本になる。

 

土器は考古学の「いろは」と言われ、井戸尻編年方式は学問の基礎的部分を築いている。

 

縄文土器の編年表を見ると、中部地方の縄文中期の土器の編年表はすべて井戸尻周辺の遺跡から出た土器を標識として型式名がつけられている。

 

型式名から井戸尻考古館が建っている所の「曽利」、周辺の「井戸尻」「藤内」「新道」「狢沢」「久兵衛尾根」と、井戸尻周辺の遺跡が重要だったことがわかる。

 

 

出土した土器は個性溢れ、どれも芸術品と呼ぶにふさわしい造形であるがゆえ、文化的な広がりがわかる土器がある。

 

「蛇体把手土器」

口を開けた蛇が、土器の上でとぐろを巻いて、地面に向かってしっぽを垂らしているように見える土器

 

「抽象文土器」

不思議な文様を持つ土器群。
この文様が何を示しているのかは今のところ謎である。

 

「顔面把手土器」「釣手土器」

各地で見られるが、大きくて立派なものは伊那や八ヶ岳周辺、甲府盆地東部に多い。
一部の釣手土器は、顔面把手をもとに八ヶ岳周辺で生み出されたと思われる。

 

 

土偶にも非常に精巧に作られたいわば本物の土偶と、いわゆるモデルとなる土偶を明らかにコピーして形は似ているが本物に遠く及ばない粗雑な土偶があることが分かっている。

 

八ヶ岳周辺で作られた優れた造形は、遠くの村へ運ばれたか、遠くから来た人々に影響を与え、土器の手本とされ一目置かれていたのではないだろうか。

 

井戸尻考古館

井戸尻考古館入り口の展示パネル

 

井戸尻考古館は、八ケ岳山麓を舞台に生活した縄文時代(約8000~2300年前)の生活文化を復元して、現代生活の向上に資することを目的とした施設である。

 

館内には、今までに発掘調査して出土した資料のうち、二千点余りの土器や石器を年代順に並べ、移り変りや用途を知ることができる。

 

また、住居展示や食物・装身具・衣類なども併せて展示し、一見すればわかるように努めている。

 

また、土器や土偶など文様解読で明らかになった当時の宗教観念や世界観・神話などを解説している。

 

館外には、5300平方メートルの敷地に炉址・配石遺構のほか、栽培作物圃場・石器材料岩石園を設け、当時の食生活や農具の究明を行っている。

 

井戸尻考古館ホームページ

 

井戸尻遺跡の史跡表示の石碑

 

名の由来となった井戸尻遺跡は、JR信濃境駅から約1.2㎞ほど南に下ったところにあり、沢を挟んで西に曽利遺跡の尾根が並行している。

 

このあたりからの眺めは絶景で、甲斐駒や鳳凰の山脈が前方を遮り、その遥か南東に富士山が端座している、風光明媚な場所である。

 

遺跡は、昭和41年に国の史跡に指定され、住居を復元するなど史跡公園として整備された。

 

遺跡の東には、いにしえからの湧水があり、その豊富な水を利用して、水生・湿生の植物園が作られた。周囲の景観も含め、「縄文の泉」公園として訪れる人々の憩いの場となっている。

 

史跡 井戸尻遺跡

 

ゆるやかに南に向かって傾く土地は釜無の谷になだれ落ち、前方を遮る甲斐駒と鳳凰の山なみが跡切れようとする辺りに富士が端座している。

 

八ヶ岳連邦の南端、編笠山麓の末端に位置して豊富な湧き水に恵まれたこの地は七千年前の縄文時代早期の古代人が住居を構え、五~四千年前の中期に最も栄えたところである。

 

西に隣しては曽利、さらにはその西方二・五キロメートルの範囲には藤内、久兵衛尾根、居平、唐浪宮など中期の著名な遺跡がつらなり、井戸尻遺跡群をなしている。

 

古くから土器や石器が発見されていたこの地が発掘調査されたのは、昭和三十三年(一九五八)のことである。

 

出土した土器は雄動にして華麗な造形でほどなくして国の内外にしられるようになった。

 

四〇年には二回目の発掘が行われ、合わせて十二基の竪穴住居が調査された。

 

こうして翌四十一年六月、中部高地の縄文時代中期の文化を代表する遺跡の一つとして、国の史跡に指定された。

 

復元家屋は、長らく第四号住居跡に設けられていたが、平成五年の全面改築を機に現在の場所に移した。

 

遺跡保護のため土盛りをして、柱の配置や炉など、中期中葉の井戸尻期に標準的な形態を復元した。

 

富士見町教育委員会設置の説明板より

 

 

出典 井戸尻遺跡

出典 蘇る高原の縄文大国

出典 信州の縄文時代が実はすごかったという本

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