なぜ諏訪に昭和の帝国陸軍軍人「永田鉄山中将像」があるのか 【高島城 高島公園】

なぜ諏訪に昭和の帝国陸軍軍人「永田鉄山中将像」があるのか

永田鉄山中将像

 

高島城のある高島公園の一角に永田鉄山を偲ぶ胸像が建立されている。

 

少年時代の永田鉄山が友人たちと駆け回って遊んだ場所であり、敷地内に立つ諏訪護国神社の目の前にその像は設けられている。

 

諏訪護国神社は、この地を故郷とする英霊を慰めるべく、明治三十三年(一九〇〇)に諏訪招魂社として創建され、現在までに五千七百八十一柱が奉斎されている。

 

本殿に向かって右側の木立の中に佇む胸像は「永田鉄山中将像」と刻まれた台座の上にある。

 

 

永田鉄山は軍内の長州閥打倒、国家総動員体制の研究と、陸軍改革を指揮し、「陸軍の至宝」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」「永田がいれば大東亜戦争は起きなかった」など彼を表する言葉は数多く語り継がれている。

 

永田鉄山軍務局長が、昭和十年八月十二日午前、東京三宅坂の陸軍省で相沢三郎中佐に惨殺される事件がおこる。

 

陸軍の中枢部である陸軍省において、軍幹部が現役将校に暗殺されるという、近代日本の陸軍史の中でも他に類例のない大事件であった。

 

この事件は現在「相沢事件」「永田惨殺事件」などと呼ばれ、日本の敗戦の要因を逆算していくと、永田暗殺事件に辿り着く。

 

永田鉄山の急逝は、昭和史における大きな分水嶺となった。

 

永田鉄山の故郷

 

永田鉄山は諏訪湖の東岸に位置する上諏訪村の生まれである。

 

父の名は志解理、母は順子という。

 

永田家は江戸時代から続く藩医の家計であり、そこへ養子として入ったのが志解理である。

 

養子である志解理の本性は「守矢」といい、諏訪で守矢と言えば上社の神官の一つ「神長官」が有名であるが、志解理の生家も傍系と考えられており、諏訪市と茅野市の境辺り「中洲村神宮寺」に多く医者を輩出した家系であったという。

 

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明治二十三年(一八九〇)四月、永田鉄山は地元の高島尋常小学校(現・高島小学校)に入学する。

 

一学年上には、後に岩波書店を創立することになる岩波茂雄がいた。

 

三年時に、藤原咲平という後に中央気象台長となり、「お天気博士」として全国に名を馳せることとなる人物が転入してくる。

 

永田鉄山はこの藤原咲平と殊に厚い友情を培った。

 

日清戦争から日清講和条約と日本国内で「臥薪嘗胆」が一種の流行語となる時代、明治二十八年八月二十六日、鉄山の父志解理が六十一年の生涯を閉じた。

 

十一歳の永田鉄山に対する遺言として「汝成長後は必ず好箇の軍人となり、之を大にして国家の干城となり、之を小にしては亡き父を十万億土に喜ばしむべし」と託している。

 

永田鉄山は父の遺言に従う形で、職業軍人を志すことを決断し、終生にわたって、父のこの言葉を忘れなかったという。

 

父親の死を契機として、永田鉄山の生活は大きく変貌し、以降、友人たちと率先して「夜学会」を組織し、勉学に力を注ぐようになった。

 

父親の没後、永田家の暮らしは一挙に困窮し、母順子は女手一つで永田鉄山を含む五人の子どもたちを養育しなければならなくなった。

 

母順子は子供たちを連れて上京する決心をし、明治二十八年(一八九五)十月末、永田家は住み慣れた諏訪の地を離れ、永田鉄山とは腹違いの兄にあたる、志解理と先妻との間の次男、十寸穂の家に身を寄せる。

 

永田鉄山が高等小学校三年時のことである。

 

その後、明治三十一年(一八九八)九月一日、永田鉄山は東京の市谷にある東京陸軍地方幼年学校の門をくぐった。

 

昭和陸軍

 

昭和陸軍が歴史の表舞台に登場するのは、とりわけ満州事変からである。

 

昭和六年(一九三一)九月十八日、柳条湖事件に端を発して満州事変が起き、その後、わずか五ケ月で関東軍が満州全土を制圧する。

 

関東軍参謀は、かねてから全満州の軍事占領を計画しており、それを実行に移したのである。

 

満州事変以後の昭和陸軍を実質的にリードしたのは、陸軍中央の中堅幕僚層で、その中核となったのが永田鉄山を中心とする一夕会であった。

 

満州事変における現地での関東軍の活動そのものは石原莞爾の計画によって実行されたが、国内の陸軍中央を含めた事態全体の展開は、事前の主要幕僚ポストの掌握など含め、基本的には一夕会の周到な準備によって遂行された。

 

その基となったのが永田鉄山の構想だった。

 

 

彼の構想は、政党政治的な方向への対抗構想ともいえるものであり、それが、満州事変以後の陸軍を主導する一つの重要な推進力となった。

 

山形有朋をはじめ、桂太郎、寺内正毅、田中儀一など、陸軍指導者が個人として政治勢力を掌握しようとした例はあるが、陸軍が組織として政治を動かそうとする新しい志向であった。

 

永田鉄山らは旧来のような統帥権の独立によって国家を動かすことはできず、陸軍に新しい派閥を形成し、それを通じて政治に影響力を行使すべきだと考えていた。

 

つまり、陸軍が組織として、陸相を通じて内閣に影響力を行使し、軍の考える方向に国家を動かしていくことを志向していたのである。

 

課長が決めた満州事変

 

当時日本国籍だった朝鮮人入植者への暴行、殺害、掠奪が満州のあちらこちらで頻発する中、永田鉄山や今村均ら陸軍の課長が集まり、「満州問題解決方針の大綱」を作成した。

 

一年後を目途に武力で満州全土を制圧し、排日テロなどの問題を一挙に解決するという内容であった。

 

中央の課長たちと、出先の関東軍の課長の石原莞爾、その上司の板垣征四郎によって満州事変が計画された。

 

明治時代、上が判断していたことが、この時代になると数メートル先から酒の匂いがする参謀総長、政治判断ができない言いなりの次官ばかりで、下の課長たちの言うことがそのまま通ってしまうひどいありさまであった。

 

課長たちがこんな会議をしている時点で組織としておかしかったのである。

 

 

翻って現在はキャリア官僚、ノンキャリ官僚という言葉を聞く、ノンキャリ官僚は仕事が出来る人、キャリア官僚は政治の仕事を代行している印象であり、役人のご説明により政治家は役人の言いなりである。

 

政治によってルールを決めようというのが立法権である。

 

立法権に基づいて行政権力があるのに、行政権力が立法権つまり選挙で選ばれた人を凌駕しているのが現実である。

 

その行政権力は学閥と年功序列、省益の優先と組織特有の体質である。

 

政治家には、ぜひ天下国家を論じてもらいたいものである。

 

 

帝国陸海軍の現場の軍人は間違いなく世界最強だった。

 

愚かな上層部がでたらめな作戦を立てても、優秀な現場が成功させてきたのが実情である。

 

成功すれば次はもっとでたらめな作戦を立て、負けるまで戦っているようなものであった。

 

そして、上の人間は失敗してもだれも責任を取らないのである。

 

これは、今の官僚機構や日本中の会社で繰り広げられている光景であり、何のためにそれをやっているのか、誰にもわからず続けていることである。

 

胸像がみつめるもの

 

永田鉄山が暗殺されてから三年以上経った昭和十三年(一九三八)十一月十三日、故郷の諏訪、高島公園内に建つ諏訪招魂社の社頭に、一体の胸像が披露された。

 

この建立に関する建設委員の名簿を確認すると、永田鉄山の親友であった藤原咲平や岩波茂雄らの名前を見つけることができる。

 

時はすでに日清戦争下あったが、除幕式は盛大に催された。

 

この胸像を制作したのは、地元出身の彫刻家、長田平次である。

 

除幕式には、未亡人となっていた重子の他、嗣子である鉄城らも参列し、除幕後には片倉館にて追悼会が催された。

 

 

その後、日本は対米戦へと突入していき、戦時下である昭和十九年(一九四四)の秋、物資の不足を補うための「金属類回収令」の対象となり、供出されることとなった。

 

日本はまさにかつて永田鉄山が予見した通りの「総力戦」の中で右往左往していた。

 

胸像が撤去された跡地には、代わりにコンクリート製の像が設置されたが、敗戦後には進駐軍の手によって、コンクリート像さえも撤去されてしまった。

 

それから数十年か後、金属類回収令によって礎石から降ろされたかつての銅像が、梱包されたままの状態で、諏訪護国神社の土蔵内から発見されたのである。

 

これをもとの位置へと復元しようと運動を主導したのは「永田鉄山中将胸像復旧既成同盟会」と名付けられた組織で、会長を務めた浜亀吉という人物は永田と小学校時代の同級生である。

 

復興した胸像の台座に刻まれた「永田鉄山中将像」の題字も浜が揮毫したという。

 

二十年もの歳月が流れた昭和四十年(一九六五)四月十一日、永田の胸像が高島公園内に再建された。

 

 

永田鉄山中将胸像碑文
永田鉄山中将は明治十七年一月十四日上諏訪町本町に生まる。
郡立高島病院長永田志解理氏の四男なり。
高島尋常高等小学校に学ぶ年少志を立てて東京陸軍地方幼年学校に入り進みて陸軍士官学校陸軍大学校を卒ふ。
天禀の優秀に加ふるに非凡の勉強を以てし各校の卒業毎に成績抜群にして恩賜賞を授与せらる。
夙に上司の属望を受け官命に由つて渡欧する事三度、入りては陸軍省参謀本部教育総監部の諸要職に就き、出でては歩兵第三連隊長第一旅団長たり、遂に陸軍軍政の中心軍務局長に補せらる。
中将頭脳明晰識見高邁裁決流るるが如く思慮周到造詣深遠難局に処して苟も挙借を謬らず、最も独創企画に秀で軍隊教育令青少年訓練国家総動員等中将の立案献策に係るもの少なからず、国軍の進展に寄与せる所絶大なり。
陸軍の至宝として永田の前に永田無く永田の後に永田無しと称せらる。
多年意を大陸国策の研究に注ぐ。
満州事変以来の非常時局に際し其蘊蓄を傾け枢機に参画して処信に邁進せる間妖言累を及ぼし、昭和十年八月十二日不慮の災禍に遭つて執務中局長室に斃る。
享年五十二歳なり。
中将の死は真に身命を君国に処せるもの正に戦場の死と択ぶ所無し。
因て同郷の有志協議地を此処にとし中将の胸像を建て、以て此の偉材の英姿を永遠に伝へんとす。
昭和十三年十一月十三日 永田鉄山中将記念会

 

永田鉄山中将胸像碑文
この胸像は先の太平洋戦争に際して金属回収のため撤去したるも、このたび故人を崇敬する有志により新たに台石を築造原位置に復旧するを得たものである。
昭和四十年四月十一日 
永田鉄山中将胸像復旧期成同盟会

出典 永田鉄山昭和陸軍「運命の男」 早坂隆 著

出典 帝国陸軍の栄光と転落 別宮暖朗 著

出典 新装版お役所仕事の大東亜戦争 倉山満 著

出典 永田鉄山刊行会編『秘録 永田鉄山』

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