諏訪が「日本のオリンピア」~武芸者たちが集う場所~

旧御射山社

古代の競技場

オリンピアは古代ギリシアの都市の名で、そこにはコロシアム(競技場)があり、オリンピックの名前の由来としても知られている。

 

世界的なスポーツの祭典(オリンピック)は、古代ギリシアのオリンピア地方で、神々をあがめた体育や芸術の競技祭が起源とされているが、日本にも全国規模の狩猟神事が行われていた場所があった。

 

霧ケ峰高原にある諏訪明神信仰の祭祀遺跡「旧御射山(もとみさやま)遺跡」である。

 

中央の祭場と競技場を取り囲んで階段状の桟敷が設けられていて、鎌倉時代には全国の武士たちが集まり、盛大に武芸の腕を競った場所である。

 

昭和三十九年、東京オリンピックが行われた年に、霧ヶ峰旧御射山は「日本オリンピア」「日本にもあったコロシアム」「鎌倉時代の競技場発掘」等々、マスコミを騒がせた。

 

この御祭を「御射山(みさやま)祭」と言う。

 

現在は、旧御射山神社の例祭にて、演武の奉納が行われている。

 

御射山祭

令和三年下社御射山祭ススキをつけた幟旗

 

御射山社は、上社では八ヶ岳山麓の御狩野(みかりの)(現在の茅野市、原村、富士見町あたり)に、下社の旧御射山社は、奥霧ヶ峰八島湿原南端(現在の諏訪市、下諏訪町)に鎮座している。

 

下社の御射山社は江戸時代初期に八島高原から秋宮東北5km程の山中に移された。

 

両御射山社とも湿原に面し、周辺を狩猟場としており、周辺には湿原に関する原始、古代の遺跡がある。

 

もとは山神信仰とみられ、のち湿原祭祀、水源信仰の祭場となったとみられる。

 

祭神を国常立命(くにのとこたち)、万物にさきがけて出現した原初の神信仰となっている。

 

神仏習合のなかで、国常立命は本地仏を虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)とし、後世、化身である「うなぎ」の放流行事も成立した。

 

諏訪地域でおこなわれる御射山祭は、中世の古文書に御狩神事として伝えられ、唯一その概要を残した祭りである。

 

また、狩猟だけでなく、水田稲作や方生会(二歳児の厄祓い)、修験や神仏混交の要素を重層的にもち、歴史を重ねて発展してきたことを伺わせる貴重な祭である。

 

上社御射山社のある一帯を通称「原山」と呼び、御射山祭は、別名「原山様の祭り」とも呼ばれた。

 

「腹を病まない」ご利益があるとされ、現在は、数え年2歳児の健康祈願の祭りとなっており、地域の親子ら家族連れが、厄を託したドジョウを放って子どもの健やかな成長を祈っている。

 

現在この祭事は、秋季の台風などが平穏に過ぎ、五穀が豊かに稔るように祈願する諏訪の代表的な「御狩りの祭事」で、中世以降、今日まで引き継がれている。

 

御射山社(上社)

 

ここに鎮座する御射山社は、建御名方命と国常立命を祭神としている。

 

中世には、この社のある通称原山の一帯は神野と呼ばれる諏訪上社の社領で、上社の御射山御狩の祭事が行われていた。

 

それは秋季の台風などが平穏に過ぎ、五穀が豊かに稔るように祈願する「風祭り」の意義をもつものであった。

 

祭事は旧暦の七月二十六日から三十日までの五日間にわたり、穂屋(ススキで囲った仮屋)を造営して大祝・神長官をはじめ多数の神官や武士などが参籠し、狩りを行って獲物を神に供え、豊作を祈願し、また流鏑馬などの武技競べも行われたと伝えられる。

 

これらの祭事は鎌倉時代以降、内容の変化や戦乱などによる一時的な中断はあったものの、数百年間にわたって継承された。

 

明治以降には庶民の民俗的信仰と結びついて幼児の健康祈願も行われるようになり、一般に「原山様」とよばれ、昭和初期までは草競馬や露天商も加わっての賑やかな祭りであった。

 

けれど、こうした祭事の舞台となった広大な神域も、明治中期の下原山入合地の分割によって一〇ヘクタールほどに縮小され、さらには太平洋戦争中の開墾と戦後の農地解放によって半減した。

 

御射山神戸村は古くからこの祭事の賦役奉仕を受け持たされていたので、神社とはとくに密接な関係にあり、集落から社までの参道に立派な松並木が続いていた。

 

それも時世の推移につれて失われ、今では三〇〇メートルほどに残る老松が往時の様を伝えている。

 

富士見町教育委員会設置の説明板より

 

旧御射山(もとみさやま)(下社)

 

霧ケ峰一帯は旧石器時代の遺跡が多く、また国内有数の黒曜石の産地です。

 

ここは旧御射山といい、諏訪神社下社大祝金刺氏の禁猟地で、太古から御射山祭が行われた所です。

 

鎌倉・室町時代は信濃武士・鎌倉武士が参加する全国的な大祭として盛大でした。

 

「諏方大明神画詞」から中世の下社御射山祭を思い描いてみましょう。

 

旧暦七月二十六日大祝・神官社人御頭役(祭の当番)一行が山に登り尾花(ススキ)で葺いた穂屋に五日間籠りました。

 

周囲に見える人口の土壇は穂屋の敷地後です。

 

別名穂屋祭りと言われる由縁です。

 

この頃ちょうど二百十日に当るので、雨風を鎮め五穀豊穣を祈るため狩猟・饗膳(神と人が相嘗する式)があり、二十九日の矢抜きの儀には鹿を射止めた者に、尾花を添えた尖矢が授けられました。

 

参集の武将たちは小笠懸、相撲、草鹿、武射、揚馬など競い、馬乗に秀でた諏訪の武士は名声をあけ人々の心を引き付けました。

 

また鎌倉幕府の篤い崇敬により諏訪神の武神としての信仰が確立したといわれています。

 

諸国から白拍子・田楽・巫女・呪師などが山に群集し祭場は里のような賑わいであったと和歌にも詠まれています。

 

この祭を機縁に諏訪神が広く勧請されていきました。

 

各地の諏訪神社の多くが二十七日を祭事としているのも故あることです。

 

江戸時代の中頃、御射山の祭場は秋宮近くの山中に遷され、以来旧御射山は史跡跡地になりました。

 

ここに鎮まる石祠を「本御射山神社」といい、建御名方神をお祀りしております。

 

付近には清水が湧き、風そよぐススキは秋の稔りをほうふつさせます。

 

旧御射山は諏訪大社下社の山宮・水霊の籠るお山であり諏訪信仰の原点です。

 

尾花ふく 穂屋のめぐりのひとむらに しばし里あり秋の御射山 下社大祝金刺盛夫
ススキ箸 見たばかりでも 涼しいぞ 小林一茶
雪散るや 穂屋のススキの刈り残し 松尾芭蕉

 

本御射山神社社務所設置の説明板より

 

諏訪の古代氏族 神氏と金刺氏

 

神(ミワ)氏は古代よりこの地で繫栄し、諏訪神社上社を氏神とまつり、郡内村落の神社は皆其の末社であった。

 

崇神天皇の時、大和朝廷は建五百建命(タテイホタツノミコト)を信濃国造(シナノノクニノミヤツコ)に任命し、天皇族の勢力が諏訪に波及してきた。

 

この国造の子孫が、他田(オサダ)金刺(カナザシ)の両氏族である。

 

金刺氏は諏訪下社の祭祀権を掌握して、同社の大祝(オオホウリ)となり、下社附随の地は金刺氏の支配に帰した。

 

上社神氏族は、八ヶ岳蓼科山麓の広い山野を、「神野」と称して禁猟地とし、此処に鳥獣の繁殖を求め、お祭りに当たっては、これを開放して氏族全体の大規模なる共同狩猟を行い、生活の質を得ると共に神に捧げる生贄を得て、これを神前に掛けて祭儀を執行した。

 

下社金刺氏族は霧ケ峰一帯の地を、其の氏族の共同狩猟地としていたが、下社には記録が無く、上社の神野と同じく、氏族の禁猟地であったと思われる。

 

鎌倉幕府と御射山祭

旧御射山社の山なみ

 

諏訪は遥か後代まで、狩猟、牧場等の原始産業が盛んに行われた土地であり、その特殊な生産事情を反映して、諏訪の武士は射芸に秀で、馬乗に巧みであった。

 

既に平安朝時代から其の武名は天下に高かった。

 

上社の大祝も下社の大祝も、早くから武士化し、源氏と濃厚な関係を結ぶに至り、そのご家人に列するになっていく。

 

源頼朝が鎌倉幕府を開くや深く諏訪神社を崇敬し、厚い信仰を寄せたのは、神氏族や金刺族の武士団に、深い期待をかけていたからであった。

 

鎌倉幕府は信濃全国の地頭御家人に下知して五月会(ごがつえ)祭及び御射山(みさやま)祭の祭りの費用を負担して、お祭りを輪番に勤仕させた。

 

当時の信濃国内の地頭には、在地の武士のみならず、鎌倉幕府関係の武士、特に北条氏の一族が多かったので、夫等の武士は御頭に当たれば、自らの家臣や村役人を引連れて諏訪社に出向き御射山祭に奉仕した。

 

幕府の保護を受けた御射山祭は、諸国の武将を集めて狩猟や競技を行い、神前に奉納する全国規模の祭典を繰り広げるようになった。

 

当時の社会は仏教が深く浸み込んだ社会であって、諏訪神社も時代の勢いで、一応仏教化されていた。

 

御射山祭は、諏訪大明神が天竺波提国(てんじくばらい)の王であった時、鹿野苑(ろくやおん)にて狩を行った故事によると伝えられた。

 

また、御射山本社の山宮の本地仏は、虚空蔵菩薩だと信ぜられ、ひいては御射山祭の祭場では、三光(日月星)が同時に拝せられると言う信仰も生まれた。

 

天下の大祭だったため、武芸者の他に、諸国から参詣人が集まったようである。

 

御射山祭の競技

御射山遺跡の説明板

 

御射山祭は、本儀の祭祀に伴い、多くの武の競技が催された。

 

これは、社家の配慮により、神いさめの行事として行われたもので、その種類は、小笠懸(こがさかけ)、相撲、草鹿(くさじし)、武射競馬(ぶしゃくらべうま)である。

 

競技の他、揚馬、御子村、騎馬行列等、賑々しい華麗な催物も行われた。

 

笠懸(かさかけ)

騎射の一種で、遠く的を置いたものを遠笠懸、近いものを小笠懸という。

 

古くは、笠を的にしたものであったが、後には種々な物を的にするようになった。

 

御射山祭の小笠懸の的の付近には、御贄の鹿がかけられた。

 

この競技は三日間とも狩猟の後に行われたが、おそらくは、その日に獲った鹿を御贄にかけたと思われる。

 

相撲(すもう)

絵詞同日条に「相撲二十番アリ」とあり、今の相撲と同じく色々と物言いがついたと見え、介添人達が争った記録がある。

 

草鹿(くさじし)

鹿の形をした的を射る競技で、下山の途中で行われた。

 

競馬(くらべうま)

競馬(くらべうま)とも大馳(みち)とも言い、御射山祭では三馳(みち)と言った。

 

今の競馬と違い二騎ずつで勝負を争った。

 

揚馬(あげうま)

人馬共に盛装を凝らし、馬上を練り行く式で、神慮をいさめ奉るための行事である。

 

御子村(みこむら)

御子の村は巫女の群の意味である。

 

神社付きの巫女が、盛装して馬に乗り、一定の道筋を練り行く行列である。

 

騎馬行列(きばぎょうれつ)

騎馬行列は、将軍や貴人の警衛、或は祭礼警衛のための武士行列から起こり、それが次第に儀式化、祭式化し、遂には祭礼においては一種の催物と変わったものである。

 

 

当時の全国神社の祭典を通観するに、これほど多くの競技が行われた祭典はなく、御射山祭は、狩猟といい、競技といい、当時の武士たちの心を惹きつけたのは、想像に難くない。

 

御射山祭は非常に賑やかな祭典で、大衆の喜びでもあったが、その反面、厳粛な祭典でもあったようである。

 

御射山信仰の広がり

令和三年下社御射山祭ドジョウ放流の厄払い

 

諏訪神社の武人としての信仰は、すでに平安初期には成立していた。

 

鎌倉幕府の崇敬により、諏訪神社は政治的にも社会的にもその地位を武士の中に確立した。

 

信濃国内の地頭御家人が、五月会や御射山の御頭を勤仕するに及び、その信仰は旺盛となり、地頭たちは皆その領地に諏訪神社を勧請した。

 

御射山祭は最も武士的な祭であったので、彼らは祭に憧れ、領内の山野の一部を禁猟の神地とし、諏訪神社の名を移して御射山と唱え、祭日にはそこで狩りをして生贄を得、神前に掛けて祭祀を挙げた。

 

現在長野県下にはミサヤマなる地名が多く、その多くが鎌倉時代初期に創ったもので、狩猟の遺跡地である。

 

鎌倉武士や北条氏の一族で、信濃に領地があった人々は、信濃武士と同じく、その領内に諏訪神社を勧請し、御射山祭を行った。

 

彼ら領地は、信濃の外、全国に存在したので、その領地もまた諏訪神社が勧請されたのである。

 

鎌倉時代には全国至る所に諏訪神社の分社が生まれ、その中の多くは中世武家の勧請と思われる。

 

出典 御射山祭の話 伊藤冨雄 著


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