製糸王片倉兼太郎と鶴峰公園のツツジ

製糸王片倉兼太郎と鶴峰公園のツツジ

鶴峰公園のツツジ

 

岡谷市にある鶴峰(つるみね)公園は、ツツジの名所として知られている。

 

三十種余り、三万株が植えられ、その規模は中部日本一と言われている。

 

中部地方随一のツツジの名所と知られるようになったのは、業者の勘違いから始まるとの話だ。

 

 

鶴峰公園の地は、初め片倉合名会社の所有地であり、かつては「蔓根崎」「蔓根山」と呼ぶ松林であった。

 

付近には縄文中期の広畑遺跡や、高尾城址などがあり、これらを含めて高尾郷と呼ばれていた。

 

製糸業で財を成した片倉家初代、片倉兼太郎は、製糸工場で働く低年齢の従業員への教育が必要と感じ、大正六年(一九一七)に諏訪湖が見える高台のこの地に私立片倉尋常小学校を建設した。

 

その後、昭和元年(一九二六)この山を憩いの場とし、噴水や遊歩道が整備され、昭和四年(一九二九)十一月初代片倉兼太郎の銅像を建設、鶴峰公園と称するようになった。

 

 

初代片倉兼太郎の銅像建立と、周りの公園化を記念としてツツジを植えることにしたとする説と、片倉一族から川岸村に公園周辺の土地が寄付され、これを記念して公園内に三〇〇株のつつじを植える事にした説と、本によって諸説あるので「川岸村誌続」を参考に確認してみる。

 

大正六年(一九一七)七月私立片倉尋常小学校が建てられる。

 

昭和元年(一九二六) 片倉会社で山を憩いの場所として噴水や遊歩道を整備する。

 

昭和四年(一九二九)十一月初代片倉兼太郎の銅像建立を記念し、公園化して鶴峰と改称

 

昭和八年(一九三三)川岸村役場新庁舎の竣工

 

昭和十年(一九三五)一月二十五日片倉一族より地元自治体の川岸村へ、公園周辺の土地一町六畝二十歩(一.六ヘクタール)余りを寄付する。

 

昭和十二、三年(一九三七~一九三八)頃川岸村で埼玉県安行から、数十種のつつじを多量に購入して鶴峰公園に移植する。

 

この時のつつじは川岸駅前の清水公園を初めとして、諸々に植えられている。

 

 

とあるので、本当は川岸村会が村内にツツジ三〇〇株を植えることを決め、三〇〇株注文しようとしたところ、注文側の説明不足なのか、業者側の思い込みなのか多量のツツジが送られてきたのが事実であろう。

 

とはいえ、製糸で財を成す事業家の多い地域ではあるが、時の人たちは、多量のツツジを返品することなく、村内の有志の奉仕によって至る所に植栽したのだ。

 

勘違いから始まったミスを村内の有志のご努力によって、高低差のある小高い公園一帯を、色とりどり鮮やかなツツジが埋め尽くす観光名所にしたのである。

 

現在では三十種類三万株のツツジが植えられており、日本有数のツツジの名所として知られるようになった。

 

片倉兼太郎ゆかりの場所としても知られている「鶴峰公園」は、五月にはつつじ祭りが開催され、園内は華やかな雰囲気につつまれ、平成十九年(二〇〇七)には近代化産業遺産に認定されている。

 

 

園内にある初代片倉兼太郎の銅像は、戦時中金属回収の対象となり昭和十八年(一九四三)に撤去されたが、戦後有志によって台座に翁のレリーフ胸像を再建、その後、平成十五年(二〇〇三)に銅像が復元された。

 

 

初代片倉兼太郎

 

初代片倉兼太郎は嘉永二年(一八四九)諏訪郡三沢村(現岡谷市川岸)の生まれ。
大正六年(一九一七)死没。
製糸家
製糸企業片倉組の創立者。

 

明治から大正期にかけ全国に製糸工場二十余を構えた日本製糸業界の先駆者であり、二代片倉兼太郎に受け継がれると大正九年(一九二〇)に片倉製糸紡績と改められ、やがて岡谷の製糸業は世界に通じて隆盛を極めていった。

 

「鶴峰公園」は片倉兼太郎ゆかりの場所としても知られており、開花の時期は県内外より大勢の見物客で賑わう。

 

 

一般社団法人企業家ミュージアムのホームページの『心に火をつける創業者100人の言葉』の「大志をもって社会につくす」の章で片倉兼太郎(片倉工業創業者)が紹介されている。

 

片倉兼太郎(片倉工業創業者)

 

「人はたんに金銭のためのみ働かず、すべからく天のために働くべし」

 

片倉は語る。

 

「人間は何でも食うことに心労せぬように為しおけば、事業波瀾のごときはたいていなんとか漕ぎ抜け得られるものなり」 また、「善を積んで進んでゆけば、牛の歩みのように遅くても、のちに必ず目的地に到着するものである」とも伝えていた。

 

製糸王といわれた彼は、片倉家の家憲を次のとおり定めている。

 

神仏を崇敬し、祖先を尊重するの念を失ふべからざる事(神仏を心から尊敬し、祖先を尊いものとして大切に扱うことを忘れないこと)

 

忠孝の道を忘れべからざる事(主君や親に対して真心を尽くして大切にするような行いを心掛ける事)

 

勤倹を旨とし、奢侈(しゃし)の風に化せざる事(勤勉で倹約を旨とし、度を過ぎたぜいたくをせず身分不相応なくらしをしないこと)

 

家庭は質素に、事業は進取的(しんしゅてき)足るべき事(家庭はつつましく、事業は進んで物事に取り組む事)

 

事業は国家的観念を本位とし、公益と一致せしむる事(事業は国家的考えを持ち、社会一般の利益と一致する事)

 

天職を全うし、自然に来るべき報酬を享くる事(自分の天性に最も合った職業を全うし、自然に来るべき報酬を受け取ること)

 

常に摂生を怠るべからざる事(常に健康に注意する事)

 

己に薄う(うすう)して、人に厚うする事(己にすくなくして、人に厚くする事)

 

常に人の下風(かふう)に立つ事(常に他人より低い地位に立つ事)

 

雇人を優遇し、一家族を似て視る事(雇われて働く人の待遇を良くし、家族も同じように注意深く視る事)

 

 

この家憲は、兼太郎が一生涯を通じて実践し成果をおさめたものである。
さすが製糸王と語られた男の作った家訓であり感動する内容ばかりである。

 

出典 川岸村誌 続

出典 おかや歴史散歩

出典 初代片倉兼太郎 平成十五年発行

 

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