山の湯治湯と名勝【北八ヶ岳一帯にある蓼科高原】
山の湯治場
北八ヶ岳一帯にある蓼科高原には、江戸時代の終わり頃にはすでに三湯の温泉があった。
近隣地域の人々には、山の湯治場として親しまれていたようである。
滝ノ湯川渓谷、大河原峠越えの古道に沿った現在の蓼科温泉郷の「滝之湯」と「親湯」、渋川渓谷に沿った現在の奥蓼科温泉郷の「渋之湯」がこれである。
信玄の隠し湯ともいわれる「渋之湯」は天文年間には存在し、武田信玄の武将が入場した歴史が残されている。
渋川流域に点在する諸温泉を中心とした一帯を、今では奥蓼科と呼称している。
三湯とも泉湯は摂氏二〇~三〇度の冷泉で、浴用・飲用に供せられたが、明治期まで沸かし湯はなかった。
とくに泉質が優秀で、万病によく効くといわれ、江戸時代には主として、病人、けが人の治療や病後の療養に利用された。
明治九年の「湖東村誌」(長野県町村誌)には字唐沢の河原にある「渋之湯」、「豊平村誌」(長野県町村誌)の「冷泉・新渋花ノ湯」の記述は、ともに「唐沢鉱泉」のことを指している。
奥蓼科の「明治温泉」は天保年間に発見されたといわれる。
明治元年に再興され、「御射鹿の湯」と呼ばれたのち、「明治温泉」と改称している。
「諏訪便覧」より、明治三十年代に入ると、蓼科の温泉(山浦地方)の湯治場数は、「川原湯」「乳児之湯」「明治温泉」「新渋之湯」「渋之湯」「巌温泉」「滝之湯」「小斉の湯」「塩壺之湯」の九湯が記されている。
出典 奥蓼科の歴史
八ヶ岳にあった。日本一高いところにある湖
「白駒の池」は、北八ヶ岳の麓に広がる原生林の中に、驚くほど透明な水をたたえた湖である。
今では、神秘的な湖として多くの方が訪れる観光スポットになっている。
標高2,100m以上の場所にある湖としては日本最大の天然湖で、水の透明度は5.8m。風がない晴れた日は、なめらかな水面が鏡のようにあたりの森と空を映す。
同じ時期に出来たと言われる、緑池、雨池、双子池、亀甲池などとともに、八ヶ岳火山湖沼郡として知られている。
湖の名前は、白馬とともに湖に消えた、娘の悲しい伝説に由来するのである。
諸説あるが、長者の娘と小作人の男の恋の話(南佐久郡口碑伝説集)や、娘が長者の看病をする話(諏訪のでんせつ)や、池の主(土蜘蛛)と二人で池の主になる話(蓼科・八ヶ岳の伝説)など、最後には娘が湖に消えていくのである。
湖に行くには麦草峠頂上からすこし佐久側に下ったところに専用駐車場がある。
麦草峠は八ヶ岳中信高原国定公園一帯の観光には欠くことの出来ない峠として人気がある。
湖へは駐車場から15分ほど遊歩道が整備されている森の中を歩く。
麦草峠を通過する国道299号線は冬期通行止めになるので、冬期間の道路状況には注意が必要である。
東山魁夷の絵画で有名になった御射鹿池
御射鹿池は白樺湖・蓼科湖と同様、農業用温水溜め池として、茅野市湖東の笹原・須栗平地積の水田を潤すために、昭和7年11月から昭和8年5月にかけて築造された池である。
日本画家・東山魁夷が、御射鹿池をモデルに代表作のひとつ『緑響く』を描いたことで美術愛好家の間で注目された。
さらに『緑響く』が、シャープのAQUOSのCMで使われたことで御射鹿池は一躍有名になった。
日本画家、東山魁夷の絵画で、ともに風景の中に白馬が描かれているが、『夕明り』は八島ヶ原湿原、『緑響く』は御射鹿池がモチーフである。
周囲のカラマツ林は、季節ごとに色を変え、春には新緑、夏には深い緑、秋には黄金色に黄葉し、冬には真っ白な雪と氷の色と、季節の風景を御射鹿池の水面が静かに映し出し、日々違った顔を見せるのが隠れた魅力と言われる。
上社御柱の出発地点
上社山出しの出発地は 御柱街道と八ヶ岳エコーラインの交差点に「一番塚」という信号機があり、そこから上に8本の御柱が道路に向かって約300mおきに並べられる。
搬入は御柱祭がある年の3月末くらいになる。
令和4年度の諏訪大社御柱祭上社の御用材は、30年ぶりに八ヶ岳の麓の御小屋山で伐採したモミの木になる。
令和4年3月まで、八ヶ岳中央農業実践大学校の仮置き場で御柱の巨木が見学できた。
八ヶ岳中央農業実践大学校には八ヶ岳の峰々が一望できるとても広い芝生広場がある。
広場の前の直営販売所では大学で育てている野菜や加工肉、乳製品などや土産も買えて、観光帰りに良いスポットである。