【温泉と御神渡り】 諏訪の民話や伝説

温泉と御神渡り

綿の湯の陶板レリーフ木曽路名所図会


遠いむかしの諏訪は、とても住みにくいところでした。


何でも、いたるところがヤブで生い茂り、猛獣や毒蛇などがのさばり、人なんて住めないところのようでした。


こんな諏訪を、お明神さまのタテミナカタノミコトと女神のヤサカトメノミコトが、大変暮らし良い諏訪の元を作ってくださったといわれている。


お明神さまはとてもりっぱな方で、その姿の雄々しさに、若い人も年をとった人も、誰もが息を飲んで引き込まれるような方でした。


奥さんのヤサカトメノミコトも、このうえない美しい方で、まるで湖の精のように美しく、奥山の女神のように奥ゆかしい方でした。


この二人の神さまは、家来の神さまと力を合わせて、荒れ果てた土地を切り開き、稲や粟などを植えさせ、牧場を作って馬を飼わせました。


また、舟をこしらえさせて、魚の捕り方を知らせたり、桑の育て方、蚕の飼い方、はた織りなどを伝えました。


このような苦労のおかげで諏訪は寒い国ではあっても、食べ物に恵まれ、二人の神さまは仲良く暮らし、明るく、楽しい平和な国となりました。


ところがある時、二人の神様は些細なことで大げんかをしてしまいました。


「わたし、出ていくわ」


女神は怒って御殿を飛び出しました。


その時、手回り品と一緒に、お化粧のお湯を綿に浸し、湯玉にして出ていきました。


諏訪の神宮寺の岸から舟にお乗りになり、湖の北の下諏訪に移って住みました。


移動する途中、綿にしめしたお化粧のお湯の雫が、ぽたり、ぽたり、と所々に落ちました。


するとどうでしょうか、この雫の落ちた土の中から熱い水、「温泉」が吹き出したのです。


諏訪市小和田の共同浴場「平湯(ひらゆ)


神宮寺から点々と一直線に、下諏訪まで温泉が湧き出ているのです。


飯島や赤沼は、「ぽつり」とひと雫しか落ちなかったのでぬるく湧き、「たらたら」とこぼした田宿、湯の脇、大和、高木からはあったかいお湯が湧きました。


また、綿を置いて休んだところ、小和田からは「どくどく」とたくさんのお湯が出ました。


下諏訪にお付きになって綿に湿らせた「湯玉」を置いたところからも、温泉が湧き出ました。


ここがもっとも多く、しかも、熱いお湯が湧き出て、神話に基づいて「綿の湯」と名付けられました。


この「綿の湯」は女神さまのお使いになるお湯(ご神湯)ですので、心が汚れた者が入ると、みるみる湯口が濁ると言う伝えがあり、下社七不思議の一つ「湯口の清濁」として伝えられております。


雫が落ちてお湯が湧き出たところが現在の上諏訪温泉・下諏訪温泉と云われているのである。


綿の湯の湯玉のオブジェ


神話と伝説 綿の湯


諏訪大社は、上者の本宮・前宮と、下社の秋宮・春宮の総称です。


その昔、上社の地にお住いの諏訪明神 建御名方神(タケミナカタノカミ)のお妃 八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)が、日頃お使いになっておられたお化粧用の湯を綿に湿し「湯玉」にして下社の地へお持ちになりました。


その湯玉を置かれた所から湧いたのがこの温泉で、綿の湯と名付けられました。


神の湯ですから神聖で、やましい者が入ると神の怒りに触れて、湯口が濁ったといい、「湯口の清濁」は下社七不思議の一つと数えられています。


下諏訪宿は中山道と甲州道中が交わるところ、全国一万余の諏訪神社総本社の門前町で、湯の湧く宿場として親しまれ街道一賑わいました。


下諏訪宿の中心が綿の湯界隈です。



松尾芭蕉と門人近江国膳所藩士菅沼曲水の連歌


 入込みに諏訪の湧き湯の夕まぐれ  曲水
 中にもせいの高き山伏  芭蕉


入込みは共同浴場のこと、夕暮れの宿場の賑わいがしのばれます。



壁面の陶板レリーフは文化二年(一八〇五)の木曽路名所図会に描かれた下諏訪宿の情景です。


碑の揮毫は放送作家 永六輔氏


説明板より


さて、女神に出ていかれたお明神さまは諏訪の神宮寺に残って仕事をしていました。


でも、冬になると仕事がなくなり、女神に逢いたくてたまらなくなりました。


見ると、諏訪湖一面に厚い氷が覆っていました。


向こう岸の下諏訪を見て思いました。


「そうだ、氷を渡って女神に会いに行こう。」


お明神さまは、真夜中に氷の原っぱを走って渡ると、ものすごい大きな音がして、厚い氷が裂けました。


次の朝見ると、小高く盛り上がった山脈が、お明神さまの通った諏訪の神宮寺から諏訪湖の真ん中を横切って、下諏訪の女神のところまで続いていました。


二人の神さまは、仲直りをしました。


それから後、毎年冬になって諏訪湖が凍って、四、五日経つと、お明神さまは氷の原っぱを渡って女神に会いに行きました。


すると、やはり通った後に氷の山脈が出来ました。


「御神渡りだ。お明神さまがお渡りになった。」


と、諏訪の人たちは、言い合って拝みました。


それまで、氷にのらなかった諏訪の人たちは、御神渡りがすんだので、氷にのりました。


そして、春になると氷の山脈もいつしかなくなり、白一色だった湖の上に、周りの若緑が映ると、


「お明神さまがお帰りになった」


と、諏訪の人たちは語り合いました。


今でも冬になり、諏訪湖一面が凍って、四、五日経つと、御神渡りがあります。


そして、この御神渡りによって、その年の豊作物の取れ具合を占いました。


氷の山脈が東の方、上諏訪側に寄っておれば、豊作だと言われ、西の方、岡谷側であれば取れないと言われています。


出典 諏訪のでんせつ 竹村良信 著

【諏訪の七不思議】 諏訪の悠久の歴史を知る。
【諏訪湖】 過去から未来へ~御神渡りの観測記録~


諏訪市博物館の写真で振り返る特別展の写真

諏訪市博物館 特別展『 写真で振り返る諏訪市の80年 』の写真より


諏訪湖は百万年前の大地溝帯(フォッサマグナ)糸魚川・静岡構造線と中央構造線が交わったところに断層運動によって地殻が引き裂かれて生じた構造湖(断層湖)とされている。


地表の大部分は塩嶺塁層や霧ヶ峰・八ヶ岳などの火山噴出物でおおわれているが、断層に沿って湧き出る温泉、底なしと呼ばれ沈降する土地など、今でも大地は活動を続けているのである。

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