尾掛松
大むかし、神々が日本の国を治められていたころ、毎年、陰暦の十月になると全国の八百万(やおよろず)の神々が、出雲(いずも)の国に集まって国造りの会議を開くことになっていました。
神々がみな留守になることから十月が神無月と呼ばれるようになりました。
この神集いには、それぞれいろんな姿になって集まられたというが、諏訪の神様はそれは立派な龍の姿で参加されました。
ある年の神集いの折に、「諏訪の神様はいつも立派なお姿で参加されるけど、お見受けできるのは顔ばかり、体や尾はいずこに?」と尋ねられた。
すると諏訪の神様は、「昔々に信濃の国より外には出ませんという約束をしたのでな、体はこの出雲より幾つもの国にまたがり、尾は信濃の国、諏訪湖のそばの高い松の木に掛けてある」と答えられたという。
この約束とは「古事記」にでてくる国譲りのお話である。
これを聞かされた神々はたいそう驚かれた。
そんな大きな体になってまで出雲に来るのを神々は気づかって、諏訪の神様には前もって意見を聞いたり、会議の様子や決まったことはこちらから知らせるように取り計らうので、諏訪の神様は出雲へ出かけなくても良いことになった。
この時から、諏訪の国には神無月がなくなったといわれ、神有月の地になったのです。
諏訪の神様の言葉の「尾は(大和)諏訪湖のそばの高い木(高木)に掛けてある。」に由来して、大和(諏訪市大和)高木(下諏訪町高木)の地名が生まれたとも言われ、尾を掛けられたという松の木は「尾掛松」と呼ばれ古くから大切にされた。
住民はもとより、甲州道中を旅する人々も参拝した。
松といっても樹種はヒノキ科ビャクシン(柏槙)で、300年以上前に枯死したと思われ、白ろう化していた。
湖上の漁舟の位置を知る目印の巨木でもあった。平成十六年一月に安全面の配慮から伐採され幹のみが残る。
一方で、諏訪湖の主(ぬし)たる龍が、上社から下社を訪れた時に尾を掛けたとも伝えられている。
諏訪から出雲まで、日本の国の半分近くもの長さの龍の話である。
現在は大規模な断層を構造線と言います。
九州の八代から、徳島、伊勢をへて諏訪の南を通る大断層の中央構造線でおこった地震や噴火などの自然現象を、昔の人は俯瞰して一筋の大きな龍に例えたのかもしれません。
諸説あり