葛井の清池~地の底で通じている「通底伝説」~【諏訪の七不思議】

地の底で通じている「通底伝説」~葛井の清池~

 

諏訪の七不思議の一つ「葛井の清池」

 

葛井神社は、諏訪神社上社の摂末社上十三所の一つで、上原郷の中央部にある。

 

諏訪大社上社との関わりが深く、「葛井」は久頭井、楠井、久須井、槻井などとも書かれている。

 

境内には神池である「葛井の清池」があり、元々は社殿もなく池そのものが御神体とされていた。

 

 

祭祀の始まりは明らかではないが、古くから諏訪神社の末社であり、上社前宮との関係が深い。

 

上社の年中行事の最後を飾る大晦日の「御手幣送り神事(葛井神事)」は古来より存続している。

 

大晦日に前宮の御室の儀式を終えた後、一年中の神事に用いた幣帛、榊、柳の枝、柏の葉を葛井神社に送り、寅の刻に御室の「みあかし」を合図に境内の葛井池に投下する。

 

これらの幣帛は翌朝、遠江国の「さなぎの池」に浮き上がると伝えられる。

 

現在も、大みそかの神事「除夜祭」と新年一番の神事「歳旦祭」の間、元旦の零時を以って幣帛を神池に投げ入れる「御手幣送神事」が行われている。

 

他にも、この池の主は片目の大鯉とも、池にいる魚は全て片目だとも言われ、参拝者が木の葉を池水に浮かべるとたちまち底に沈んでしまうとも言われている。

 

権祝神正庸の七不思議の歌に「見ても知れ 葛井の池の 底深く わきても清き 神のめぐみを」とある。

 

【諏訪の七不思議】 諏訪の悠久の歴史を知る。

 

葛井神社

 

葛井神社は久頭井、楠井、久須井、槻井等とも書かれ、祭神は槻井泉神とされる。

 

祭祀の始まりは明らかでないが、古くから諏訪神社の末社であり、前宮とは関係が深い。

 

大祝の即位にあたって十三所の御社参りをする時の一社に入っていて、『諏方上下宮祭祀再興次第』にも祭礼や瑞垣、鳥居の建立について細かく触れられており、市有形文化財に指定されている九頭井大夫古文書からも当社の古さをうかがい知ることができる。

 

わけても、上社の年中神事の最後を飾る御手幣送りの神事は、この神社の性格をよく表している。

 

大晦日、前宮において一年中の神事に手向けた幣帛、並びに榊、柳の枝、柏の葉等を御室殿より取り下げて葛井神社へ運び、寅の刻(午前四時ころ)に前宮御室の御燈を合図に葛井の池に投げ入れる。

 

すると卯の刻(午前六時ころ)に遠州のさなぎの池に浮かび出ると伝えられる。

 

また、葛井の池については、諏訪上社の七不思議にも数えられて伝説も多く、社叢もシロヤナギ、エゾエノキ、ケヤキなどの樹種に、枯れてはいるが樹齢推定六五〇年のケヤキの古株もあり、貴重な風趣を残している。

 

なお、葛井神社の代々の神主であった九頭井大夫家に伝承する武田信玄の寄進状及び朱印状(市有形文化財)は、武田氏の諏訪統治を知るうえに貴重な文書である。

 

茅野市教育委員会設置の説明板より

 

諏訪の七不思議 葛井神社と底なしの池

 

今井野菊著の「神々の里 古代諏訪物語」に当時の雰囲気が伝わってくる章があるので紹介する。

 

前宮神事のうち、十二月晦日夜、前宮では一ヶ年間御神事に手向けられた幣帛、柳、榊、柏の葉等をまとめて「お手倉送り」と言って、瓶子に飯を添え、これを雅樂(うた)に担がせて葛井神社に送りました。

 

途中これに行き会った人は、道端に寝て息をこらしたと伝えられ、また、死んだふりをしたとかと伝えられています。

 

また雅楽は刀を口に咬えて歩いたと伝えられています。

 

これを受けました葛井神社では前宮の御室の灯火の合図を待ちます。

 

御室では御神事の終わったあと、神長は寅之刻になるのを待って、御室の御神燈の光を葛井神社に示します。

 

これを受けて葛井の神主は社殿の後ろから葛井の池の中へ投げこみました。

 

底なしの葛井の池の湧きあがる渦巻きは、たちまちあと形もなく、これを吞み込んでしまいました。

 

伝説ではこの御幣は翌朝、遠州の国、佐奈岐の池へ浮き上がると伝えていました。

 

遠州では正月元旦の朝、諏訪明神の赤飯が浮き上がると伝えています。

 

因にまた遠州の国、池神社(祭神 大巳貴命、事代主命、建御名方命)では、彼岸の中日のお祭りにはたくさんの赤飯を櫃に入れて、池の中央に漕ぎ集り、池に飛びこんで赤飯を沈める行事がありますが、この赤飯は翌朝、諏訪湖に浮き上がると言われています。

 

【諏訪の七不思議】 諏訪の悠久の歴史を知る。

 

出典 神々の里 古代諏訪物語 今井野菊 著

 

天竜川水源信仰

 

天竜川下流地域には、「葛井の清池」あるいは「諏訪湖」と通底伝説をもつ湖沼がいくつかある。

 

天竜川についても、諏訪神社の神札、神殿が流れ着き、神社として祀ったという「漂着伝説」の話がある。

 

いずれも諏訪湖を水源とする信仰といえる。

 

 

諏訪の七不思議の葛井の清池の話は、十二月晦日に上社の年間使用の幣帛などを投入すると、翌日、遠州さなぎ池に浮かぶという「通底伝説」である。

 

他にも、多留姫神社にある「多留姫の滝」に流したものが、葛井の池に浮かぶとも言う話もある。

 

【諏訪の七不思議】 諏訪の悠久の歴史を知る。

 

遠州七不思議のひとつ「桜ヶ池」

 

さなぎの池に浮かび上がるという伝説の「さなぎの池」の候補地は、静岡県御前崎市佐倉の「桜ヶ池」の可能性が高いと言われている。

 

この池には、比叡山の名僧皇円阿闍利が、釈迦の滅後、長い時の後に現れるという弥勒菩薩に直接教えいただこうと、自ら桜ヶ池の底に沈んで竜神(大蛇)となったという伝説がある。

 

ほとりには竜神を祀る池宮神社がある。

 

また、秋の彼岸の中日には、赤飯を詰めたお櫃を池に沈めて竜神に供える「お櫃納め」という奇祭が行われている。

 

「お櫃納め」は、毎年、秋分の日に開催される遠州七不思議の一つになっている神事である。

 

身を清めた地元の若人数十人がふんどし姿で立ち泳ぎという古来の泳ぎ方で、池の中心までお櫃をもっていき沈めていく行事である。

 

数日すると、水面にお櫃が浮かんでくる。

 

空の場合は、神慮に叶ったことになり、中身が残っている場合は神慮が叶わなかったことになるという。

 

納めたお櫃が、遥か遠くの諏訪湖に浮かんでいたという言い伝えがあり、桜ヶ池と諏訪湖がつながっているのではという伝説も残っている。

 

 

また、善光寺の宿坊の一つの本覚院内には静岡県の桜ヶ池と通底伝説があると伝えられている阿闍梨池がある。

 

「おひつ納め」と「皇円阿闍梨」

 

皇円阿闍梨は肥後の国(熊本県)に生まれ、幼くして比叡山で学問、仏法を修業され、後に日本の歴史書「扶桑略記」三十巻を記した。

 

皇円上人は悟りの境地を得るため天台の「止観」という方法に基づき、さまざまな難行、苦行を重ねられた。

 

しかしながら、仏法の極め難きを知り、五十六億七千万年後に出現すると伝えられる弥勒菩薩に会うことを発願された。

 

そして、その弥勒菩薩の教えにより人々を悩みから救うことが出来ると考え、嘉応元年(一一六九)六月十三日(九十六才の時)身を龍と化し、この桜ヶ池に入定された。

 

おひつ納めは、後に皇円上人の高弟、法然上人(浄土宗開祖)桜ヶ池を訪れ、師である皇円龍神の安泰と五穀豊穣を祈り、赤飯をつめたおひつを神社に一個、桜ヶ池に一個納めたことに由来する。

 

以後、親鸞上人(浄土真宗開祖)、熊谷蓮生坊直実が継承し、以来八百数十年続いている奇祭である。

 

また、この桜ヶ池は信州(長野県)諏訪湖と底が続いているとも言い伝えられている。

 

それはすべての命をはぐくむ水の神様を共に崇め、感謝するという古代人から現在の我々に到るまで心の底が通じていることを象徴している。

 

御参拝の皆様も、慈悲深い皇円上人、そして大自然の恵に合掌して感謝いたしましょう。

 

桜ヶ池前の説明板より

 

【諏訪の七不思議】 諏訪の悠久の歴史を知る。

 

出典 諏訪大社の信仰 宮坂喜十 著

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