カッパと立木様
赤沼(諏訪市四賀赤沼)の村のはずれに、ぽつんと沼がありました。村人たちは「赤沼池」とよんでいました。
いつも、青みをおびて、ひっそりと静まり返っていました。そこは、「底無し沼」と言われ、一度入りこむと、どこまでもめり込んで、ついには沼からあがることが出来なくなるということです。
ここに、一匹のカッパが住んでいました。
天気の良い日などは、沼の上に浮かび、泳いだり、沼の端に腰をおろしてヨシの葉でつくった笛を鳴らしていました。
ところがある年のことです。静かな赤沼の村に奇妙なことが起こりだしました。
村の人たちが大事に飼っている馬や牛を草原へ放しておくと、誰も知らぬうちに次々といなくなりました。
村人は沼の上に、馬のたてがみや、牛のしっぽが浮いているのを見つけました。さては、沼のカッパのやつめが、馬や牛の中へ引きずり込んで食べちゃったに違いないと、村人はカンカンに怒りました。
そうこうするうちに、村人が沼の近くを歩いていると、カッパが飛び出してきて声をかけるのです。
「おめさん。おらあと力くらべをしねえか?」村人が嫌がるのを無理やりにやらせます。
しまいには、馬や牛を沼に引きずり込んだ持ち前の強い力で人間を引っ張り込んでしまうのでした。
村では、何人もの人がやられました。
諏訪の殿様の家来に立木様(今の諏訪市片羽町 立木正純医院の何代前の人)という人がいました。この方、とても力の強い侍でした。
立木様はこの話を聞いて、さっそく殿様に願い出て、退治することの許しを得ました。
体のがっちりとした足の速い馬にまたがって、立木様は沼へ向かいました。案の定、カッパが沼の中から飛び出し「お侍さん、力くらべしねかい?」と言いました。
「よし、おもしろい、やろう。」立木様は力強く答えました。
立木様は、大男でとても力が強く、馬の上から、太い足のような腕を前に突き出しました。同じようにカッパもさっと前に手を出しました。
立木様は、カッパの腕を握った瞬間、左手で馬のお尻を鞭で打ち、馬は矢のようにまっしぐらに走りだしました。
「あたたたた・・・・助けてくれ・・・(;´Д`)」
さすがのカッパもこれはたまりません。しかし、悲鳴を上げる声にはかまわず、また、馬のお尻を叩きました。馬はいっそう速さをまして走ります。カッパは土の上を引きずられてどうすることも出来ません。
「お願いです。命だけは助けてください。」カッパは哀れな声をだして頼みました。立木様は可哀そうになって、手綱をゆるめ、馬をとめました。
引きずられたことで、カッパの腕は完全に折れてしまいました。カッパは大粒の涙をこぼして「今まで、本当に悪いことばかりしました。」と謝りました。
木様立が「その折れた腕はどうするのか」と聞くと「骨をつぐ方法があります。助けてもらえれば、骨つぎのしかたを教えます。」と答えました。
「よし、人助けをする骨つぎのしかたを教えるなら許してやろう。これからはけっしていたずらするではないぞ。」立木様は厳しく言いました。
カッパは立木様に骨つぎのしかたを詳しく伝えました。そして、泣き泣き血のように夕焼けした赤沼の池へ消えて行き、二度と姿を現しませんでした。
立木様は、カッパから教えられたとおり、骨つぎをしました。不思議なことにどんなに難しい骨の折れた者もすぐに治りました。
「諏訪の立木様、骨つぎの立木様。」と大変有名になりました。近くはもちろんのこと、遠く江戸まで知れ渡り、わざわざ治しにやってきました。
こうして、立木様はたくさんの人々の骨接ぎをしました。誰彼となく大勢の人たちを助けましたので、みんなから「立木様、立木様」と敬われました。
しまいには、「立木様」という言葉が「骨つぎ」という言葉の意味になったそうです。
立木家では今でも毎年夏になりますとカッパの好きなそば粉を川に流して供養しています。
出典 諏訪のでんせつ 竹村良信 著