【雷電為右衛門】江戸時代に天下無双と呼ばれた力士

雷電為右衛門

諏訪大社上社にある雷電像

 

雷電為右衛門(らいでんためえもん)は江戸時代の力士である。

 

大相撲史上、「最強力士」と呼ばている。

 

天明四年(一七八四)十七才で出府、江戸相撲に入り、寛政二年(一七九〇)には関脇に付出され優勝した。

 

寛政七年には大関に昇進し、実に十六年二十七場所の長きにわたり大関の栄位を保持した。

 

幕内通算成績は、三十五場所で、二百五十四勝十敗二分十四預五無勝負である。

 

この時代の大相撲は、年二場所制で、現在の六場所制より少ないにもかかわらずこの成績である。

 

土俵人生は約二十一年間で、その勝率は九割六分二厘という古今最高の勝率をあげた。

 

この勝率は雷電引退から二五〇年余り経った現在でも未だ破られていない歴代最高記録である。

 

圧倒的な強さは「天下無双の力士」と呼ばれた。

 

雷電は身長百九十七センチ、体重百七十二キロ、その取り口は巨体を生かした突き押し専門で、初土俵の三日目には八角を「張り手」でぶっ飛ばし、八角は夜になって血ヘドを吐いて死んでしまったなど、相撲中に相手をケガさせることはしばしばあった。

 

「かんぬき」で両腕をへし折り、「突っ張り」で相手を土俵下まで飛ばし、廻しを持って両腕で相手を引き付ける「鯖折り」では肋骨を折った。

 

こうした雷電の怪力ぶりに他の力士たちからの苦情が出て、雷電は年寄たちに「張り手」をはじめ、「突っ張り」と「かんぬき」の3つを禁じ手とされたが、これだけの成績を収める伝説の力士なのである。

 

相撲の歴史と雷電

諏訪大社上社の雷電像横にある手形

 

大相撲は大人気である。

 

「国技」として厳格なしきたりにのっとり行われる相撲の歴史をさかのぼると、それは日本の神話にまでたどり着く。

 

平安時代には、宮中行事として「相撲節会」が行われていたが、鎌倉時代以降は武士の格闘技としての色合いが強くなった。

 

相撲はその土地の風習やしきたりの中で、辻相撲や野相撲として日本各地で数多く行われ、戦国武将たちも、全国の力自慢を集めて上覧相撲をたびたび開催し、その中から腕っ節の強い者を召し抱えた。

 

江戸時代になると、相撲は神社仏閣の修理を目的にした「勧進相撲」として行われるようになり、次第にそれも形骸化され、現在の大相撲の礎ができあがってくる。

 

そこに突如として現れたのが、雷電為右衛門である。

 

現役時代の勝率九割六分二厘は、現在まで誰も超えることのできない大記録になっている。

 

雷電をモデルとした浮世絵は数多く制作され、その人気の度合を伺い知ることができる。

 

雷電は江戸相撲の黄金期をつくった一人なのである。

 

なぜ諏訪大社に

雷電像は当時の時津風理事長(元横綱双葉山)の揮毫

 

雷電像は昭和四十一年(一九六六)、茅野市出身の彫刻家矢崎虎夫が横綱柏戸と横綱佐田の山、富士錦をモデルに制作し、第十三回日府展で文部大臣賞を受賞した作品である。

 

銅像は雷電の生誕二〇〇年を記念して蔵前国技館に建てられる予定だったが、適当な場所がなく、軍神すなわち勝負に強いという縁をもって諏訪大社に奉納の運びとなった。

 

「古事記」の国譲り神話より、建御名方神と建御雷神の力比べが相撲の始まりとされ、相撲にゆかりのある祭神が祀られる諏訪大社だからこそ、奉納先に選ばれた理由の一つだろう。

 

また、製作者が諏訪大社の地元出身ということも影響があったと思われる。

 

二十世紀の日本彫刻界の巨匠『矢崎虎夫』の生い立ちを振り返る

 

像の台座の「雷電像」は当時の時津風理事長(元横綱双葉山)が揮毫している。

 

 

「信濃力士伝」(中村倭夫著)によると、雷電像は雷電生誕二〇〇年に合わせ、雷電像奉納後援会(小山邦太郎代表)が昭和四十一年十月に奉納。

 

建設委員長は前県知事(当時)の林虎雄、諏訪六市町村や山梨県甲府市、東京などの有志約七十人が奉納者として名を連ね、時津風理事長や横綱柏戸、各界名士が参列して除幕式を挙行している。

 

 

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