『本朝廿四孝』 諏訪湖を翔け渡る八重垣姫

『本朝廿四孝』 諏訪湖を翔け渡る八重垣姫

諏訪湖を渡る八重垣姫

 

諏訪湖の石彫公園前より初島を見ると、湖の中に高さ6mの女性の像が立っている。

 

大きな像が湖の中に立っているので諏訪湖の中で一際目立っている。

 

一九七八年(昭和五十三年)に建立された茅野市出身の矢崎虎夫の作品である。

 

近くを見渡すと、石彫公園の中に「本朝二十四孝狐火の段」と説明の石碑がある。

 

どうやら、浄瑠璃、歌舞伎、日本舞踊の演目である『本朝廿四孝』に登場する「八重垣姫(やえがきひめ)」という架空人物の像であるようだ。

 

八重垣姫は、歌舞伎では、雪姫(『祇園祭礼信仰記』)・時姫(『鎌倉三代記』)とともに「三姫」と呼ばれておるようである。

 

なぜ、そのような姫の像があるかというと、物語のクライマックスに婚約者の命を救うため、恋する姫が凍った諏訪湖を翔け抜けるシーンがあるからだ。

 

本朝廿四孝狐火の段

 

謙信の娘八重垣姫は武田勝頼とは戦略上の許婚であった。

 

まだ見ぬ勝頼はふとした事より此の世を去ったと聞かされて娘心の一念に恋しい勝頼の絵像に向かい毎日回向に餘念がなかった。

 

たまたま謙信の館に菊造りとして住み込んだ蓑作があまりに勝頼に似て居るところから、濡衣を介してただしたところ蓑作とは真赤な偽り勝頼の変名して諏訪法性の兜を取りかへさんとの企らみ、最早や此の世の人でない恋しい勝頼様が目の前に現はれたかと天にも登る心持の八重垣姫に兜を取りかへしてくれと頼む。

 

此の場の様子を物かげにて立聞きして居た謙信は蓑作の勝頼を塩尻迄の使に出し、あとから追手を差し向けて討ち果さん所在の謙信に泣いて助命を頼めども、情容赦もあらばこそ諏訪湖に浮ぶ月影がやがては消へる運命かと身を震はして八重垣が天を仰いで嘆息し鳥になりたい翼がほしい早くこの事を知らせたい、心は千々に乱れ共今はなすべき術もなし。

 

この上頼むは神仏床に祀りし法性の兜の前に手をつかえ諏訪明神より武田家へ授け賜はるおん宝、とりもなおさず守神今の難儀の勝頼様を助け給へと兜を取って押しいただきて人目をしのび泉水のほとりにくるなれば、池にうつりしあやしき影今はたしかに狐の姿、ハット驚き飛びさがり水面をそっと見直せば目にうつりしは己の姿迷いの影かまぼろしかさて不思議やと、とつおいつ千々に乱るる八重垣が勝頼様よと兜を捧げ、のぞけば又も白狐の姿まこと当国諏訪明神は狐を以って使はすとうわさにきくが今見たり神体ひとしき兜とあらば八百八狐つき添いて守護することもあるならん。

 

思い出したりこの湖は氷張るれば、御神渡り神の狐の足跡を知るべに心安泰と人の行き交う諏訪の湖もしも狐の渡らぬ先きに、のぼれば忽ち氷は割れて水に溺ると人は云う、たとえ神渡りあらず共夫を思う念力に神の力の加はる兜勝頼様に返せよと諏訪明神の御教え忝けなやありがたや、兜をとって頭にすれば忽ち姿狐火のぱっと炎立つここかしこ鏡の如き氷の上にきらきら光るは兜か星か乱るる姿の八重垣は諏訪法性に護られて諏訪湖の上を渡りゆく。

 

公園内にある石碑より

 

『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』

 

『本朝廿四孝』は江戸時代半ばに、当時流行っていた浄瑠璃の演目として書かれたお話(謡曲)である。

 

近松門左衛門の「信州川中島合戦」をベースにした全五段の時代物の大作である。

 

足利将軍が鉄砲で暗殺され、その犯人捜しに、武田家と長尾(上杉)家の争いが絡む、複雑な人物関係と幾重にも張りめぐらされたどんでん返し、今風に言えば「一大謀略ミステリー巨編」である。

 

スケールの大きな、先の読めないサスペンスが楽しめる作品で、今でも歌舞伎の定番として人気がある。

 

あらすじ

 

大序(足利館大広間の段)

将軍足利義晴(あしかがよしあき)の側室、賤の方が懐妊し、どうもそれが男の子らしいというので、京都に大名全員集合で宴が催されることになった。

 

その席には普段不和である越後長尾(上杉)家、甲斐武田家も呼ばれていた。

 

長尾(上杉)家は武田家から合戦に必勝をもたらすという諏訪明神の霊具「法性の兜」を借りパクしており、返却を求められていたが知らん顔をしていたので仲が最悪であった。

 

一方、将軍足利義晴の正室、手弱女御前は両家を慮り、長尾(上杉)家の息女で景勝の妹、八重垣姫(やえがきひめ)と武田家の嫡子、勝頼(かつより)に祝言を挙げさせて和睦を図るように言い渡す。

 

初段(足利館奥御殿の段)

武田家の子息、勝頼と、長尾(上杉)家の息女、八重垣姫の婚約が調うが、将軍足利義昭が何者かに鉄砲で暗殺されてしまう。

 

日頃上洛を怠っていた信玄と謙信が疑われ、両家ともその嫌疑を解くため、三年たっても犯人が捕らえられないときは、謙信は景勝、信玄は勝頼、それぞれ嫡子の首を打つと誓う。

 

二段目(信玄館)

約束の三年が過ぎる。

 

逆心のある家老、板垣兵部(いたがきひょうぶ)は、赤ん坊の時に我が子と勝頼をすり替えていて、勝頼として育てられた我が子の命を助けようと、身代わりの簑作(みのさく)という百姓(実は本当の勝頼)を連れてくる。

 

信玄はこのことを見破っており、偽りの勝頼は切腹する。

 

蓑作と呼ばれて民間に育った真の勝頼は長尾(上杉)家にある諏訪法性(ほっしょう)の兜を取り戻すため、腰元、濡衣(ぬれぎぬ)とともに信濃へ向かう。

 

三段目(桔梗(ききょう)ヶ原・勘助住家)

桔梗ヶ原には武田と長尾(上杉)の領地の境があった。

 

この境の上に頭を長尾(上杉)方に、足を武田方にした捨て子がいた。

 

この子をどちらが拾うかで武田家執権、高坂弾正(こうさかだんじょう)と長尾(上杉)家執権、越名弾正(こしなだんしょう)とが双方の妻もかかわって争い、高坂夫妻が連れ帰ることになる。

 

この子の袖には今は亡き高名な軍略家、「山本勘助」と書いた名札がついていた。

 

山本勘助には横蔵(よこぞう)と慈悲蔵(じひぞう)の二人の遺児がおり、兄横蔵は一見曲者だが実際は思慮遠謀の人、弟の慈悲蔵は老母への孝養が厚い人であった。

 

拾われた子は実は慈悲蔵が訳あって捨てた実子の峯松(みねまつ)であった。

 

高坂弾正の妻は子供を餌に慈悲蔵を武田家に仕えさせようとするが、彼はすでに謙信の臣になっているので受け付けず、兄の横蔵と雪中で争い、亡父の秘蔵した軍書を手に入れ、母と心をあわせ、兄を主君景勝の身替りにたてようとする。

 

しかし、信玄の家臣になっていた横蔵は、身替りの役にたたぬようにと自ら片方の目をえぐり、父の名、山本勘助を襲ぎ、直江山城守(なおえやましろのかみ)となった慈悲蔵と敵味方に分かれる。

 

四段目(謙信館・奥庭)

簑作(真の勝頼)は濡衣と薬売りに身をやつして甲斐から信濃に下る。

 

やがて簑作(真の勝頼)は花売りとして、濡衣は八重垣姫の腰元として長尾(上杉)の屋敷に入り込む。

 

許婚(いいなずけ)の死を聞き、十種香 (じしゅこう)をたいて回向(えこう)していた八重垣姫は、父謙信に召し抱えられた花作りの簑作(真の勝頼)を見て激しく恋慕する。

 

謙信は簑作(真の勝頼)の正体を見抜き、塩尻へ使いに行くように言いつけ、蓑作は塩尻へ向かう。

 

それを見送った後、謙信は家来を呼び、簑作(真の勝頼)の後を追って討ち取るよう命じる。

 

簑作(真の勝頼)に謙信の討手がかかる事を聞いた姫は、なんとかして簑作に追っ手のことを知らせようと、舟人に頼んで諏訪湖を渡ろうとするが、諏訪湖には氷が張って舟が出せずなす術がない。

 

陸路は間に合わないと、奥庭から盗みだした諏訪法性の兜にすがると、これを守護する霊狐の狐火 (きつねび)に導かれて湖水を翔け渡り簑作(真の勝頼)を救う。

 

一方、濡衣の父、関兵衛は、実はかつて将軍を暗殺した斎藤道三で、今また後室を鉄砲で撃つが、濡衣が身替りになって死に、これまで不和とみせた武田、長尾(上杉)両家の働きによって、謀反の陰謀が破れる。

 

その後兜は武田に戻され、勝頼らの婚儀も成立し、両将とも今に名を残すこととなった。

 

出典 本朝廿四孝 近松半二作

諏訪法性の兜

 

八重垣姫が勝頼に危険を知らせようと祈りを捧げる「法性の兜」は現存しており、「諏訪湖博物館・赤彦記念館」に武田信玄の「諏訪法性の兜」として収蔵されている。

 

現在も「諏訪湖博物館・赤彦記念館」には複製品が展示されている。

 

諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)
戦国武将、武田信玄が着用したと伝わる兜。

 

諏訪神社より出陣の度に借り受けたとされ、軍神として信仰された諏訪明神を武田信玄も厚く崇敬したといわれています。

 

その名は江戸時代初期に集成された「甲陽軍鑑」のなかに記述されている。

 

もとは諏訪大社神長官守矢家に伝えられていた。

 

江戸時代の明和三年(一七六六)に人形浄瑠璃としてつくられた物語「本朝廿四孝」の十種香の段に出てくる兜、また歌舞伎でも盛んに演じられそのときに使われている兜はこれである。

 

「諏方法性兜」と呼ばれる兜はいくつかあるが、数多くの浮世絵に登場する兜はこの形のもので、大変有名である。

 

武田信玄に関する言い伝えは大変多く、江戸時代から庶民に人気があったと思われ、この兜もそうしたなかの一つとして語られ続けている。

 

博物館内の説明板より

 

諏方大明神と言えば「龍」の化身と言われているが、江戸時代「本朝廿四孝」がヒットしたことで、諏訪法性の兜の化身が「狐」という設定から、当時、諏訪の地域以外の人は、諏訪大明神は「狐」の化身と思われる方も多かったようだ。

 

大河ドラマを見るときもそうであるが、歴史的背景や知識を知っているとより話を面白く感じることが出来る。

 

境内に舞屋や舞台がある神社が数多くあることからも分かるように、当時はこの作品も含め色々な催し物が各地の村々で披露されていたのだと思う。

 

各地の村々で浄瑠璃、歌舞伎、日本舞踊を楽しむ江戸時代の庶民の教養は高かったと想像できる。

 

 

2022年10月、「諏訪神仏プロジェクト」に合わせて、人形浄瑠璃文楽の「本朝二十四孝 奥庭狐火の段」公演が本作ゆかりの地である諏訪の地で演じられた。

 

恋する姫が凍った諏訪湖を翔け抜ける一大スペクタル、諏訪を舞台に八重垣姫の情熱的な恋を描いた人気の演目が、諏訪地方で初めて演じられたのである。

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