諏訪海苔商団 御湯花講

上社北参道の手水舎寄進の龍

 

日本人は悠久の昔より、海苔を愛好してきた世界一の海苔食民族である。

 

古代よりその売買が行われ、江戸初期に養殖が開始された。

 

今日のように、乾海苔が誰にも愛好される日本的食品となるについては、それを推進する三本の柱があった。

 

それが、日本橋と大森の両海苔商群とならんで、乾海苔の全国的普及を先んじて行った御湯花講員たちであった。

 

諏訪海苔商団御湯花講が、嘉永五年以来百二十年間にわたって記録し続けた貴重な文献を基にした「御湯花講由来」という本がある。

 

信州諏訪の農民たちが、約二百年間におよんで海との深いかかわり合いのある出稼ぎに赴き、「百姓町人」として立ち、大を成すまでの記録である。

 

諏訪明神信仰が庶民の日常生活の中でどのように息吹いていたのか、庶民の側からみた諏訪大社信仰として、史実を知る上で重大な手掛かりを与えてくれる。

 

諏訪の作間稼ぎ

 

米作を中心とする農耕を主業とした江戸時代の農家にとって、耕作を休む間(冬季)の稼ぎは「作間稼ぎ」という。

 

作間稼ぎは、居住地を根拠地とする家内労働と、居住地を出て働く出稼ぎに大別できる。

 

八ヶ岳、蓼科山麓から諏訪湖南岸に向けて、傾斜面に連なる村々は、冷涼な気候に加え耕地は狭く、地味がやせていて作物が育ちにくい土地であった。

 

農閑期を迎えると、無為に時を過ごすことはなく、作間稼ぎとして、農民等は多様な副業を模索した。

 

中には後年まで継続され、この地の有力産業として製糸、鋸、寒天、凍豆腐、等、根付いたものもある。

 

海苔屋出稼ぎ

 

海苔屋出稼ぎは、武家奉公などより遅れ、江戸後期、文化の初年(一八〇四)前後に始まる。

 

出向いた先は、品川、大森の乾海苔仲買商で、節季奉公に入ったのである。

 

そのころ、海苔の採れる時期は、旧歴の十一月から二月にいたる三ヵ月だけ。

 

売れる盛期は暮から正月の間だから、短期決戦となる。

 

文化年間は業界始まって以来の大増産時代を迎えたときで、品川、大森の産地は大繁忙を呈していた。

 

そのようなときだけに、寒さに馴れており、辛抱強くてまじめな諏訪の若者たちは、大歓迎を受けたのである。

 

年を逐うごとに増え、そこで年々の経験を積み重ねた者たちの中からは、奉公人では満足できず、店から天秤棒を借り入れ、振売(呼売)を始め、独立する者も現われた。

 

そのうち彼等は、江戸市中を専門に売歩くだけでは満足せず、関八州から各街道筋まで、商売の輪をひろげていった。

 

後に、江戸を売歩く者を「江戸売」、関八州などを売歩く者を「旅商人」、さらに後には「旅師」と呼び慣わすようになる。

 

海苔の時期になると、品川、大森の海苔商では、店内に諏訪の奉公人が溢れ、また商品を仕入れにくる江戸売、旅商人も、店頭に群をなす。

 

こうして、文化文政期から嘉永のころまでに、品川、大森の海苔業界では、諏訪の出稼者は無くてはならぬ存在となるのである。

 

御湯花講の結成

 

人数が増えれば粒の悪いものも混じる。

 

当時の諏訪人の弊風として、独善的、利己的で容易に協調しにくい側面があり、これが一部の出稼ぎ者にあらわれ、評判を落とす事件が相次いだ。

 

少数の不心得者のために、諏訪出稼商人全体の信用を落とすことはまことに残念だと、同憂の士が集まり相談の結果、仲間(組合)を組織し、相互に戒め合ったり、助け合おうという一義になった。

 

そのため、郷土の人々等しく尊崇するところの諏訪明神の御威光にすがるが良かろうと、文久元年(一八六〇)六月、明神信仰の下に結集する乾海苔行商人仲間を発足させた。

 

名称は「海苔仲間、御湯花講(おゆばなこう)」。

 

諏訪中の江戸売、旅商人全員を勧誘し、参加させることに成功したのである。

 

御湯花講は、諏訪商人の信用維持を大義名分とし、諏訪明神の名において、「商売の不義理」をとくに厳しく取締まる規則を定めた。

 

これが奏功し、講員の信用は以後不動のものとなっていく。

 

御湯花講員から身を立て、乾海苔問屋として成功した人も少なくない。

 

幕末維新を経て、現代にいたるまで、諏訪海苔商人の発展の基盤はこの時に築かれたものである。

 

明神の霊験

天流水舎2021年1月

 

海苔商出稼者の出身地は、諏訪湖南岸地域から八ケ岳と蓼科山麓方面の村々にあり、上社に近い。

 

下社付近の下諏訪、岡谷方面からはあまり出ていない。

 

彼等の上社信仰は絶対的で、江戸へ向けて出発するに先立ち、必ず上社の神前に詣でた。

 

道中の安全、出稼ぎの安穏、商売繁昌を記念したのである。

 

その際、「御天井の水」(御天水)を頂き竹筒に入れて出稼先に持参する。

 

神代以来境内に亭々とそびえる神木の葉を伝わり、たとえ晴れた日でも三雫は必ず滴り落ち(諏訪大社七不思議の一)、御天水舎のお天井の筒を通って水槽にたまった霊泉だと信じられている。

 

旱魃(かんばつ)が続くと、地元の村々では代表が上社にこれを貰いに詣でる。

 

神主はお天水を竹筒に入れ、神前で雨乞いの祈祷をした上で渡す。

 

代表はこれを捧げ持って帰途につくのだが、途中休むとき地面に置いてはいけない。

 

置けばそこに雨が降ってしまうからである。

 

持ち帰ると村の鎮守に供え、その後にまくとたちまちに雨が降ったという。

 

海苔屋出稼者たちは、この霊験あらたかな御天水を産地に持参した。

 

海苔浜が不作に悩むとき、海苔ヒビの上からそそぐと、生海苔の色はみるみる良くなった。

 

この奇跡をまのあたりにし、各浜の人々から、感謝されたことは一度や二度ではなく何度もあったのである。

 

また、境内の「お砂」を袋に入れて、産地へ持参することもあった。

 

海が荒れて、海苔採取の舟が出せぬとき、お砂を荒波の上に撒くと、たちまち波の静まる奇跡を見ることができ、これまた産地の人々に感謝される結果を生んだ。

 

海の神、産業の神としての諏訪明神信仰は、このような形であまねく海苔産地に行きわたっていった。

 

出稼者たちは、自分たちの産土神が遠く江戸の海の海苔浜にまで、霊験をおよぼしている実情をみて、明神の功徳の広大無辺なことをしみじみと感じ、ますます報恩感謝の念を深めたのである。

 

この深い明神信仰は、出稼者たちの心の灯となって、同じく神の恩恵をうける氏子同士としての一体感を心根深く植えつけていくことになる。

 

敗戦後の御湯花講

 

戦後、産地には、漁業協同組合が大きく立ちはだかり、計画生産、共同販売など、斬新な施策を実行した。

 

これにより群小の出稼者など、じか買商人を排除し、有力問屋を選別し販売する傾向が定着するようになる。

 

また、有力問屋は、指定商社として共同入札に参加し、入札した品を強力な流通ルートにより販売するようになった。

 

戦前のように出稼商人等に頼って売る必要はなくなったのである。

 

前近代的な要素を多分に持ち合わせている上に、資本力弱小な行商人の出る幕はなくなってしまった。

 

出稼商売の実質的な終焉である。

 

出稼商売の終焉は、終戦の年から数えて二十年もかからなかったのである。

 

こうして、諏訪盆地から乾海苔出稼商人は消えてしまった。

 

講創立百二十年献碑

諏訪大社上社にある御湯花講の神恩奉謝の碑

 

もともと御湯花講は、諏訪明神信仰を精神的支柱とする出稼ぎ商人の信仰集団として発足した仲間組織である。

 

その昔から、講員の商売繁盛は明神のご加護によるものと信じ、つねに神徳を仰ぎ、熱烈な報恩感謝の念を禁じ得なかった。

 

代々の講の世話役たちが、百二十年間一回たりとも欠かすことなく記し続けてきた、貴重な文書がある。

 

御湯花講の先人たちが、極めて篤い明神信仰を土台にして、いかに忍耐強く諏訪商人の信用維持に総力をあげ、商勢を発展させたてきたのかを窺い知れる。

 

御湯花講の創設より百二十年目にあたる昭和四十六年、諏訪大社の境内に一大献碑を建立しようとの議が持ち上がった。

 

その記念碑には、「海苔の発展史、産土の神、諏訪大神の海苔商との結合、即ち当御湯花講の永世繁栄する基礎の由来を記して、四方より来る数多の世人に知らしめ、感謝と繁栄を祈願したい」とあり、神恩報謝の碑と共に手水舎も寄進した。

 

上社北参道の手水舎寄進の沿革の額

 

諏訪大社上社神楽殿には嘉永五年に大森の海苔商たちが太々神楽(だいだいかぐら)を奉納した記念の大額が海苔の歴史を語っている。

 

出典 御湯花講由来

出典 諏訪海苔商団御湯花講 小川勝義回想録


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