阿久遺跡 (国史跡 昭和45年7月2日指定)
約7000年前の縄文時代前期、この地に人が住みムラが形成され、約6000年前の縄文時代前期後半になると立石・列石を中心に土壙群とその外側に環状集石群(ストーンサークル)と呼ばれる祭祀的な施設が作られ、これまでの住まいの場から祭祀場へと変貌を遂げていきます。
このことは、前期の墓制や祭式など、社会の精神構造を知る事ができる遺跡として、全国的に例がなく、大変貴重な遺跡です。
阿久の祭祀場は立石・列石を中核に据え、墓壙群と環状集石群(ストーンサークル)がドーナツ状に廻り、その外側が住居域となる構造をしています。
環状集石群(ストーンサークル)は居住地と非居住地、生の世界と死の世界を隔てる意味をもち、まさに賽の河原のような性格をもっていました。
長い年月をかけて周囲のムラで亡くなった人たちを各集団の定められた区域に再葬し、集石がつくられていきました。
立石や集石には火を受けていた痕跡があることから、再葬の際は盛大な火を焚く儀式をしていたことが推察されます。
阿久の地は蓼科山を信仰の対象とした祖霊を崇める先祖崇拝の大祭祀場であったのでしょう。
ムラの中央の広場に立石は長さ120cm、幅・厚さとも35cmの角柱状をした花崗閃緑岩が横転した状態で見つかりました。
立石のそばには板状をした石が半月状に立石を取り囲む状態で見つかったことから、立石の周囲を円形に石を敷き詰めていたと考えられています。
列石は8個の板状の石が直線的に並んで見つかりました。
石のほとんどが三角形をしていて、先端部を土中に埋めて、二列に並列して立ち、立石から列石の間を通して蓼科山を拝望するように造られています。
阿久遺跡からは約800基の土壙と呼ばれる穴が発見されています。
土壙には石を立てたもの、土器を埋めたものなど墓穴と考えられる土壙が見つかり、立石・列石を中心に墓壙群が形成されます。
墓壙の多くは平面の大きさが100cm以下で、遺体を埋葬するには小さい穴であることから、遺体を一旦骨にした後に埋葬する再葬墓と考えられます。
集石は径50~150cm、深さ30cmほどに掘られた穴に拳大の石を詰めています。
それらがいくつも集まって一つのグループを作り、そのグループが集まり、直径120m、短軸90m、幅30mにも及ぶ巨大な環状集石群が形成され、集石の数は271基にものぼります。
その後、さらに祭祀場の規模が大きく拡大し、住居は僅か2軒のみとなります。
このうちの1軒は数回の建替えをした非常に大型の集会所的な住居で、阿久のムラは共同の祭祀場として使われるようになります。
しかし、この時期を最後に前期の阿久のムラは役割を終え、縄文時代中期へと変わっていくのでした。
現在は、中央自動車道建設に伴い昭和50~53年にかけて行われた発掘調査により遺跡の重要性が確認され、中央道下に砂で埋めて保存されました。
原村埋蔵文化財収蔵庫は国史跡『阿久遺跡』に隣接し建設されています。
公開はしていませんが、資料の活用をはかるため希望者の見学に便宜を図っています。