「ものがたり」が交差する場所【小坂観音院】
龍光山観音院(小坂観音院)
小坂観音院は龍光山(りゅうこうざん)観音院という。
川岸駒沢の昌福寺は古くは小坂にあり、かつては地頭小坂氏の信仰も厚く、小坂観音の別当寺(管理寺)であった。
観音院は、明治四年(一八七一)昌福寺の末寺として、観音院の院号を認められ、以来無住無檀の寺院であったが、同四十四年(一九一一)新義真言宗智山派の公称寺院となり、大正十一年(一九二二)小坂区民あげて檀徒となり今日に至っている。
諏訪百番札所西六番、諏訪八十八霊場四十一番にあたっている。
魚籠(ビク)の上に安置する観音様
伝承によると、本尊十一面観音は、往古の諏訪湖から漁夫の網にかかって引き上げられ、魚籠(ビク)の上に安置して持ち帰ったと伝えられている。
そのいわれにより、今もなお魚籠(ビク)の上に安置され、観音堂の内陣の厨子の中に秘仏として人々の信仰の対象になっている。
昭和五十一年(一九七六)の調査で発見された体内銘によると、永正三年(一五〇六)の作で、施主は大檀那神氏頼満、本檀那神氏満貞であることが判明している。
万病を癒す賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)さま
観音堂の外陣に安置されている賓頭盧尊者坐像は、彫り口も鋭く、一見鎌倉時代の作と思われるが、本尊と同じく室町時代の作である。
この像をなでると、病気を癒してくださるという信仰があり、「なでぼとけ」と言われ、庶民に親しまれている。
鐘楼
鐘楼堂は元禄十五年(一七〇二)に建立され、梵鐘も同年に造られましたが戦争の際に供出してしまった為、現在の梵鐘は昭和二十四年(一九四九)に再鋳造されたものである。
小坂観音院の柏槇(びゃくしん)
観音院の境内に柏槇(びゃくしん)の古木がある。
伝説に「弘法大師」空海和尚が衆生救済のため、諸国を回って教えを弘め歩く中、観音院に参拝し仏前において護摩供養を行った。
この時、堂庭に柏槇(びゃくしん)を植えたのが年を追って増殖し、観音院の護摩供養のときはこの柏槇を利用したという。
この百槇は「御宝木」と称し、半ば朽ちているが現存し、その歴史の古さを語っている。
樹齢約一二〇〇年と推定される。
約二〇〇年前に落雷にあい、その時地上1.5m付近より四本に分かれ、内、北方の二本は枯れている。
天然記念物 柏槇
樹齢 千二百年以上と推定
目通り 五・五メートル
高さ 二七メートル
開帳 二〇メートル
伝承
空海和尚が衆生済度のため、この地にこられ、護摩供養をなさり、そのとき植えたものと伝えられている。
岡谷市教育委員会設置の説明板より
武田勝頼の生母の供養塔
武田信玄公側室諏訪御料人の供養塔がある。
男系を前提にした系図では、身分の上下や年齢に関わらず、女性は全て「女」として処理されているため、戒名は残るが、生前の名前は不明になる。
武田信玄の正室でも本名は記録になく、実家の名を冠した「三条夫人」となっている。
名前が残っていないので、小説家が“名付け親”になり(1998年にNHK大河ドラマ化された)『武田信玄』の原作者である新田次郎さんは「湖衣姫」と命名した。
一方、『風林火山』の井上靖さんは「由布姫」と名付けました。
この姫は、諏訪頼重の娘で、武田勝頼の母にあたり、小坂観音院で療養していたと描かれているため、昭和三十八年(一九六三)に供養塔を建立し、毎年五月三日に供養祭を厳修している。
地元の年寄りが、子供のころ、このまわりをお姫様、お姫様と口ずさみながら遊んだと言われている。
由布姫由来記
武田信玄は、兵法書「孫子」の中にしるされている「風林火山」の軍旗を陣頭に、群雄の時代を風靡したすぐれた武将の一人であります。
その信玄の側室として美貌と情愛の深さで知られ信玄にもっとも寵愛され信玄の次男勝頼を産んだのが諏訪頼重の娘「由布姫」であります。
勝頼は父信玄没(天正元年 一五七三年)のあとを受けたが、三河の長篠での一戦で破れたのち新府城を築いて新興をはかったが、一族、家臣が寝返りをうち勝頼にそむいたので、その攻撃に耐えられず、父信玄以来の本地甲府を捨て、天正十年(一五八三)三月十一日天目山の麓、田野にて我が子信勝をはじめ、一族五十一人と共に自刃をし、ここに中部地方の大半を領してその盛強を天下にうたわれた武田氏は滅亡しました。
此の武将の母「由布姫」は十五歳にして、信玄の側室となり、勝頼を産んだのちは諏訪にかえり、病の身となり此の観音の森で静かな日々を送り、弘治元年(一五五五)齢二十五歳にして、当時十歳の愛児勝頼を残して早逝されたと、井上靖先生の「風林火山」に著されており、また地元のお年寄りも子供の頃此の墓のまわりを、お姫様、お姫様、と口ずさみながら遊んだといわれております。
この観音堂は「由布姫」が毎日ながめたであろう高島城に対面し、はるか甲州を望み、また信玄の石棺が沈められたといわれている湖底を眼前にしていて「由布姫」にはまことにゆかりが深く、ここにある姫の墓も戦国の世の一つの悲哀を物語っています。
由布姫供養塔の横石碑より
石棺を沈めた観音沖
武田信玄は京都に攻め登るため、三河(愛知県)の野田城を攻めたが、このころ病にかかり、甲斐へ引き返す途中伊那の山中で死亡した。
その遺言によって遺骸は石の棺に納め、諏訪湖の観音沖の一番深いところに沈めたといわれ、今なお人々の語り草となっている。
信玄公にまつわる伝承
武田信玄公は、死後自らの遺言により石棺に収められ、観音院沖の諏訪湖に葬られたとの言い伝えがある。
説明板より
小坂観音が出てくる伝説と民話
小坂観音がある場所は、昔は湖に突き出た岬状のような場所で、諏訪湖のシンボル的なところであったと思われる。
付近の村の民話や伝説に諏訪湖と小坂観音が出てくる話が何個かある。
小坂観音の民話や伝説を知りたければ、こちらを参考にしてほしい。
【湖の底からあげられた観音様】 諏訪の民話や伝説
【湖底に沈むつり鐘と音防鯰】 諏訪の民話や伝説
【武田信玄の石棺】 諏訪の民話や伝説
【火とぼし山】 諏訪の民話や伝説
小坂郷と諏訪明神
小坂観音院の裏門近くに「神明社」が鎮座している。
神明社は諏訪大社上社神領地の一角、小坂郷の発祥地小坂一番地に位置している。
小坂という名称が文献の最初に見えるのは、鎌倉時代嘉永三年の「祝詞段」に小坂鎮守の名が出ているほか、諏訪上社の御頭に小坂氏が内県として勤仕したことが諏訪明神の関係記録の中に見ることができる。
小坂郷の領地は、小坂、花岡、橋原、鮎沢、駒沢、及び沢底の六ヵ村であった。
諏訪大社の歴史「諏訪大明神絵詞」を編纂した小坂円忠(諏訪円忠)という人物がいる。
鎌倉時代末頃(一三三〇年)観音院の素晴らしい風景に憧れ、この地に住居を構え入山し、大進円忠と号し観音院に帰依したとある。
小坂円忠は鎌倉幕府と足利氏に仕え、数々の事蹟を挙げている。
円忠の遺した事業のうち、最も著名なものは、「諏方大明神絵詞」の編纂である。
この絵詞が現在、諏訪神社最古の縁起書である。
出典 ふるさとウォッチング おかや歴史の道 文化財めぐりガイド
出典 おかや歴史散歩
出典 岡谷市小坂区史