【東国経略の中心地】南北朝の争いと宗良親王【岡谷東堀(柴宮)】

南朝・北朝の争いと宗良親王(むねながしんのう)

南北朝の争い

柴宮正八幡宮拝殿正面の十六弁の菊紋章

 

元弘三年(一三三三)北条氏の鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇の親政となり、これを「建武の中興」といった。

 

この中興政治は公家と武家との利害の衝突、恩賞の不公平、土地問題の処理のまずさなどによる武士の不満から三年足らずで崩壊した。

 

やがて、後醍醐天皇の南朝と足利尊氏の立てた京都の北朝との二つの朝廷ができ、この後、五〇年間抗争が続いたのである。

 

いわゆる南北朝時代である。

 

こうした政局の中にあって諏訪武士の動向をみると、信濃国は北条氏が守護であり、ことに諏訪氏は鎌倉の北条氏と親しく、諏訪社もまたその保護のもとに基盤は確立されていたことから、諏訪一族は「中先代の乱」以後、反足利尊氏派であった。

 

その後、松本の小笠原氏が信濃国守護となると、足利尊氏と強く結びつき、中南信に強大な勢力を持つようになった。

 

諏訪一族をはじめ、南信の知久氏、香坂氏、東信の海野氏、北信の保科氏、中信の仁科氏らは南朝方に、小笠原氏を中心とした佐久の大井氏、川中島の村上氏らは北朝方となって対立をし、南北朝の争いは信濃国にも波及した。

 

宗良親王(むねながしんのう)

柴宮正八幡宮社殿右側の石碑

 

宗良親王は後醍醐天皇の第八皇子として、応長元年に誕生になり、和歌をよくし、歌集「李花集」を残している。

 

二十歳で比叡山延暦寺に入り、天台座主(ざす)となられた。

 

延元二年還俗(げんぞく)(僧が僧籍を離れ、俗人にかえる)して宗良親王と名を改め、南朝方の中心となって東国各地の勢力回復のためご活躍になった。

 

宗良親王が東国の経略にあたって、信州官軍の一中心であったのは、諏訪氏であった。

 

北条時行の大徳寺城に兵を挙げた時、上社諏訪頼朝も兵を出し、武蔵の合戦には神(みわ)氏一族三十五人が加わり、桔梗ヶ原合戦の主将は上社権祝(ごんほうり)矢島正忠であった。

 

諏訪は東西交通の中間にあり、諏訪・金刺の両雄が、親王の東国奔走の時には多くこれに加わり、興国・正平のころに、その計画のため諏訪に本陣を構えたと伝えられている。

 

残念ながら合戦の陣形や動き、兵力数などの詳しいことはわかっていない。

 

合戦の激しさは京都にも伝えられ、公家、洞院公賢(とういんきんかた)の日記「園太歴」に、合戦で信濃国は大騒動となり、信濃から天皇へ馬の献上する催しが中止されたことなどが記されている。

 

確証があるものはないが、岡谷市東堀には御所・御所清水・尼堂・馬渕・御用地など、宗良親王に関係の深い字名・地名が今も使われており、遺跡と伝えられているところや口碑も多い。

 

御射山祭(みさやままつり)
信濃(しなの)なる穂屋(ほや)の薄(すすき)もうちなびき御狩(みかり)の野(の)べを分(わ)くる諸人(もろびと)

 

氷湖御神渡(ひょうこおみわたり)
諏訪(すわ)の海(うみ)氷(こおり)を踏(ふ)みて渡(わた)る瀬(せ)も神(かみ)し守(まも)らば危(あや)うからめや

 

柴宮の正八幡宮

2015年撮影の柴宮正八幡宮

 

宗良親王ご来諏の時、諏訪社の社人が、仮の御所を柴で造り御座所とした。

 

これが柴宮の地名の起源であると伝えている。

 

正八幡宮は古くは宗良親王をお祀りした社であったが、武田氏領有時代に諏訪社、八幡宮以外の神を祀ることを禁じたため、八幡宮として取り壊しの難を免れたとも伝えている。

 

社殿の建築には、親王との関係によるのか、特別のものがある。

 

社殿正面の千鳥破風、唐破風、水屋に十六弁の菊花紋章つけている。
本殿側面の蟇股に錦の御旗を彫り、本殿扉に箭および御旗が刻まれている。
祭典用の大幕、大提灯に十六弁菊紋章をつけることを許されている。
舞屋の柱が丸柱である。(一地方鎮守の舞屋に丸柱は使わない習慣)
錦旗、銘刀、箭などを祭具とする。

 

宗良親王が諏訪において詠まれた歌は数首ほどあるが、その中に次の歌がある。

 

諏訪下宮宝前に通夜し侍り、夜もすから法施たてまつりしに、湖上月くまなくて、秋かぜもほかよりは夜さむに待りしかばよみける

 

すわの海や神の誓の如何なれは秋さえ月の氷しくらむ

 

李花集

 

歌より諏訪下社にお籠りになり、祈願されたことはあきらかであるが、これがいつであったか史料も乏しく明らかでない。

 

柴宮正八幡記の中に、東堀の地に御座所を設け、親王ご来諏の時ここにお迎え建武と改めたので、この新政を建武中興とよんだと記されている。

 

御所清水

宗良親王の御所清水の石碑

 

清水がわき出し、御所で使う井戸の役目をしていた。

 

現在は「御所清水」と記された石碑が立ち、築山となって名残をとどめている。

 

御所清水の碑 由緒

 

この碑は、戦乱の南北朝時代(1300年代)南信地方を中心として勇戦された、後醍醐天皇の第8皇子、宗良親王(信濃の宮)(1311~?)が、東堀「柴宮」に御駐在の時、朝夕ご使用になった清水の遺跡に昭和19年、小口白湖・北原痴山先生等が中心となって建立されたものです。

 

当初工事の中程にあったものを、沖電線(株)岡谷工場建設の時(昭和46年)現在地に移しました。

 

―御遺跡の昔や清水湧くところ―

 

設置説明板より

 

尼堂(あまんどう)

宗良親王の菩提を弔ったお堂と伝わる尼堂

 

尼堂墓地の中の「遺跡尼堂」は、親王に仕えた女官が尼となり、親王の菩提を弔ったお堂があった場所と伝えられている。

 

神の木

2015年岡谷東堀の神の木

 

神の木と呼ばれる樹齢千年といわれる欅の大木は、口碑に親王が下社参詣の途次、しばしば樹下にお憩いになった所と伝える。

 

区民は「神の木様」と呼んでいる。

 

春の芽吹きの状態から、全部の枝が同時に若葉を出すと豊作、芽吹きが異常だと凶作と、その年の農作物の豊凶を占ってきた「陽気木」と呼ばれている。

 

神の木(欅)
樹 齢 千年以上と推定
目通り 五メートル
高 さ 十四メートル

 

伝承
昔春の芽ぶきの状態から、その年の農作物の豊凶を占ったといわれ、そのため陽気木とも呼ばれ、大切にされてきた。

 

岡谷市教育委員会設置の説明板より

 

 

出典 岡谷市史 上巻

出典 東堀区誌

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