多量に発見された古代王者の装飾品「天王垣外遺跡」
天王森の名
諏訪湖北岸の沖積地に立地する遺跡で、海戸遺跡、横道遺跡などと連なる同一尾根上にある。
この遺跡の中心に当たる新屋敷字天王海戸の位置に天王森があり、遺跡名はこれに由来する。
天王森には津島社が鎮座し、祭神はは素戔嗚命(すさのおのみこと)である。
往古は上天王宮と称し、天王祝(てんのうほうり)が奉仕した。
「小社神号記」によると、「明暦二年ト銘在リ、大石宝殿。古来ヨリ累年六月十五日略祭アリ」と記されている。
明暦二年(一六五六)に作られた大石祠は、郡内最大のものである。
この津島社はもと高島藩家老諏訪大助の氏神で場内二の丸に祀ってあったものを、二の丸騒動の結果大助が切腹したため、その領内であった現地へ移したとの伝承がある。
また、南北朝時代末から室町時代初期に、後醍醐天皇の孫(尹良親王)や曽孫(良王)を奉じて上野国から三河国の間を流浪し、尾張周辺に住み着いた人々の伝承をまとめた「浪合記」などから、宗良親王の御子、尹良(ゆきよし)親王がしばしば滞在した千野六郎頼憲の島崎城が、天王森付近にあったともいわれている。
境内には欅の巨木が数本残されているが、かつてはさらに大きなものがあったとみえ、これを裏付けるように「旧蹟年代記」には「新屋敷天王社神社木切口差渡し弐間有之、上方より山師来て買候」とある。
天王社の神木が差渡し弐間(三・八m)もあったというのは、表現に誇張はみられるものの、相当な巨木であったと思われる。
この神木が弘化二年(一八四五)、江戸本丸普請の用材に売られたときの状況が宮嶋祝家の「履歴」に記されている。
多量の勾玉と管玉の出土
明治時代よりこの新屋敷付近から土器・石器などの遺物が発見された。
土器は弥生時代中期後半の天王垣戸式として型式設定されたが、発掘調査の行われないまま市街地化して、解明の機は失われて今日に至っている。
明治四十年(一九〇七)天王垣戸遺跡の一画から壺に入った多数の玉類が発見された。
勾玉六十六点(硬玉製大形四、同小形六十二)、管玉二百八十六点(碧玉製百五十二、鉄石英製百三十二、石英製二)、小玉十点(水晶製)の合計三百六十二点であった。
この玉類は翌四十一年に、平野村役場より長野県庁を経て帝室博物館(現東京国立博物館)に買い上げられた。
多数の完成された玉類が、天王垣外に持ち込まれ、しかも一個の壺に納められていたという事実は重要である。
多くの宝玉を所持できる権力者か、共同体の存在を意味し、高度な文化の栄えを感じさせる。
原始から古代への変わり目にある弥生時代社会を考える上に、壺や玉類の存在は貴重な考古学資料である。
天王垣戸遺跡の弥生式土器と石器
弥生時代の文化に対する体系的な研究を、信濃を中心とした中部高地全域で押し進めたのは若き日の藤森栄一である。
藤森栄一氏の弥生時代文化研究の出発点が「天王垣戸遺跡」である。
昭和七年、雑誌「考古学」の三巻六号と七号に「諏訪天王垣戸発掘の弥生式土器及び石器」と題する論文を発表している。
この論文は発見された土器・石器を、出土地別に四地点にわけて、事実を正確に報告することに主題がおかれるとともに、その石器と土器を「発見遺物の相互関係」いう観点でとらえている。
これは当時の弥生時代文化研究の状態から言えばかなり重要な観点であった。
当時、弥生式土器と石器の関係は諏訪郡内のみならず、全国的にもまだなんら組織的な研究が行われていなかったからである。
以後関連するたくさんの論文を書き続けることになる。
それらはいずれも当時、弥生時代文化の研究を指導的に押し進めていた東京考古学会の機関誌「考古学」に掲載され、全国的な視野で信濃の弥生時代文化のあり方が注目される契機となった。
戦後、県下の各地で盛んに発掘が行われ、豊富な資料、新しく発見された土器群の出土により、土器型式名などに変更や追加があったが、今でも信濃の弥生時代文化研究の基本として、藤森栄一氏の研究の体型は生かされている。
津島社由緒
祭神は建速須佐之男神(命)〔素盞嗚尊〕を祀り、新屋敷天王森に位置し岡谷の重要な古祀である。
古来上天王宮と稱し天王祝の奉仕する所であった。
「小社神號記」には『明暦二年(一六五六年)ト銘在リ大石宝殿。古来ヨリ累年六月十五日略祭アリ』とあって石祠は郡内最大のものといわれている。
この社地附近は先史原史時代遺跡地として著名であり又南北朝時代宗良親王に関する伝説を有する。
例祭は、七月十五日前後の日曜日十五社・岡谷区・新屋敷区により斉行されている。
説明板より
出典 おかや歴史散歩
出典 岡谷区史
出典 岡谷市史 上巻