諏訪神社上社~建替え古材の行方を訪ねる~

乙事諏訪神社の拝殿の桟唐戸

 

現在の前宮は伊勢神宮の余材拝領にて神殿に造り変えられ、「前宮の本殿」と呼ばれている。

 

その前は、大祝の精進屋として、「前宮」の中心的建物があった。

 

上社前宮は、諏訪神社成立の鍵を握るところであり、その中枢は、大祝の精進屋である。

 

「古代諏訪とミシャクジ祭政体の研究 小部族研究会編」の本文の中で、建て変わる前の古材は、糸萱の村の鎮守になっている話がある。

 

「前宮様を新しく建てるで、壊してあったのを、オラの村で買ってよォ。そいで建てたんだわ。」の記述がある。

 

神社などで使われた古材は、神社の再建や復興に使われることが多く、調べてみると、建て替わる前の前宮や本宮の材は別のところで大事に使われていたのである。

 

上社前宮は茅野市北山糸萱区の産土神の折橋子之社に、富士見町富士見乙事区の乙事諏訪神社の社殿に、諏訪神社上社本宮の幣拝殿を移築している。

 

糸萱にある精進屋

299号線から見下ろす折橋子之神社の入り口

 

「糸萱区誌」によると、上社前宮が昭和七年伊勢神宮建築の余材で建替えることになったため、古い精進屋を取り壊しすることになった。

 

その時の経緯は不明だが、糸萱区に精進屋を払い下げてもらい、折橋子之社の社殿として移築することになったようである。

 

取り壊された精進屋の材料と、諏訪大社からの指導のもと、外観は旧精進屋の原形をとどめている形で作られた。

 

神社の場所は、糸萱区がある国道299号線の沿線にあるのだが、道路が国道に格上げしたことに伴い、道路改良がおこなわれ、社殿の上方を通っているので見つけにくい。

 

道より下側の沢沿いの鎮守の森に囲まれて分かりにくいが、道から沢に降りる階段があるので、降りていくと社殿がある。

 

折橋子之社

西日指す折橋子之神社

 

糸萱区の産土神である折原子之社は、芹ヶ沢の飛岡子之社から勧請され、大己貴命(オオムナチノミコト)を祀っている。

 

大己貴命は、八千矛神(ヤチホコカミ)や大国主命(オオクニヌシノミコト)の別名であり、俗に「大黒様」と呼ばれ親しまれている。

 

勧請した年は定かではないが、糸萱草創当時にいち早く祀られていたと思われる。

 

「子」とは十二支のネズミのことである。

 

ネズミは大国主命の使いであり、大国主命は諏訪大社の祭神、建御名方命(タテミナカタノミコト)の父神にあたる。

 

大己貴命(大国主命)は、神話によれば、181人の御子をお儲けになられたといわれ、子福の神である。

 

そのような由来からか、子授け、子育ての神と云われており、古くより『子之大明神』と称せられた。

 

神社の名前から、当時の人々の願いが伝わってくるのである。

 

子之神社は、諏訪、伊那、佐久地方に十数社あるが、関東地方を中心に多くの社がある。

 

根之社、寝之社、子之権現も同じ子之神社から発生しているもと思われる。

 

乙事(おっこと)村

乙事諏訪神社

 

富士見町の集落が「村」という形で史料に登場する最初のものは、天正二十年(一五九二)の日根野高吉の諏訪頼広への知行宛行書であり、そこに「乙事村」とみえる。

 

「乙事」の名が文献史料にみえるのはこれがはじめてである。

 

逆にそれ以前の史料は「小東」「神戸」「乙骨」というように地名のみで見えることが多い。

 

中世の末ころ、乙事は主として「乙骨(おっこつ)」とよばれていたようであり、乙事の郷士で徳川家康に仕えた五味太郎左衛門は、のちに家康から在所の名である「乙骨」を姓とすることをゆるされ、乙骨太郎左衛門と名乗っている。

 

「本能寺の変」後の東国の戦乱、「天正壬午の乱」の中で、天正十年(一五八二)八月に乙事を舞台に徳川家康の軍勢と北条氏の兵との合戦が行われている。

 

家康の家臣の松平家忠が記した日記である「家忠日記」に、八月三日に徳川勢が「おっこつ」まで陣を進めたことが書かれている。

 

これが事実であれば、十五世紀の末にはすでに乙事村の集落が存在していたのである。

 

出典 天正壬午の乱【増補改訂版】 平山優 著

 

乙事諏訪神社

乙事諏訪神社下社跡の碑

 

乙事村は、上村と下村にわかれており、別々の鎮守社を祀っていたと伝えられている。

 

ともに文化八年(一八一一)諏訪明神を勧請して乙事諏訪神社上社・下社と呼ぶようになった。

 

昭和二十三年(一九四八)上社が火災にあい、復旧にあたって、下社の本殿を上社に移して本殿とし、現在は、上社・下社を合併して一社とする乙事諏訪神社となっている。

 

乙事諏訪神社は上社と古くから関係があり、社殿は諏訪大社の前身「諏訪神社上社本宮」の幣拝殿を移築したものである。

 

文禄二年(一五九三)に上社本宮の仮殿を乙事村に移築したことが、永禄三年(一八五〇)の古拝殿附書添証によって分かることから、天正十年(一五八二)織田軍によって焼かれた後、諏訪頼水によって造営された社殿と思われる。

 

この社殿が仮殿であったとしても、乙事村に移築するということは、乙事村が大祝の知行所で、早くから諏訪神社と特別の関わりを持っていたのである。

 

大正七年より行われた諏訪史編纂事業の調査で、乙事諏訪神社上社の社殿が優秀であることが認められ、昭和五年(一九三〇)に国宝(旧国宝)に指定された。

 

当時、諏訪郡下には国宝指定の建造物は他になく、乙事諏訪神社の存在は非常に貴重なものであった。

 

ところが、昭和二十三年(一九八四)の火災で片拝殿、本殿は全焼し、国宝指定の拝殿、幣殿は全焼をまるがれるにいたった。

 

現在は、火災による復元再建と昭和25年施行の文化財保護法により、「幣殿」のみが重要文化財に指定されている。

 

 

この神社は延徳二年(一四九〇)御別当明神を祀り、文化八年(一八一一)諏訪明神の神霊を勧請した。

 

この神社の拝殿、幣殿は神社建築史上重要なもので、本殿を有しない神社の珍しい例である。

 

諏訪神社(神宮寺)の神前建物として、元和三年(一六一七)に建立されたものであるが、嘉永年間この地に移建されたものである。

 

小規模であるが、鎌倉室町の手法を有し、雄大豪壮な彫刻は桃山建築の特質をよく発揮している。

 

この本殿は下社(天正年間御別当明神を祀ったと謂れ、文化八年(一八一一)諏訪明神の神霊を勧請して本殿として文政二年(一八一九)建築したものを昭和二十五年(一九五〇)社殿の合併によって移築したものである。

 

乙事区設置の説明板より


TOPへ