【戦争で消された地震】昭和十九年(一九四四)東南海地震・昭和二十年(一九四五)三河地震
昭和十九年(一九四四)東南海地震・昭和二十年(一九四五)三河地震
昭和十九年(一九四四)十二月七日午後一時三十六分に発生した東南海地震は、海洋プレートの沈み込みに伴い発生したマグニチュード7.9の地震であった。
地震からわずか三十七日後の昭和二十年(一九四五)一月十三日午前三時三十八分、被災地である愛知県東部にマグニチュード6.8の内陸直下型地震が発生した。
三河地震である。
歴史上繰り返し発生してきた駿河トラフと南海トラフ沿いを震源域とする地震であった。
「南海トラフの巨大地震発生前後に内陸に大地震が起こる可能性が高い」と言われる典型的な例である。
震度六弱相当以上となった範囲は、三重県から静岡県の御前崎までの沿岸域の一部にまで及び、津波は伊豆半島から紀伊半島までを襲った。
東南海地震及び三河地震による被害は甚大で、特に名古屋重工業地帯の軍用機をはじめとする軍需生産力に大きく影響したといわれている。
このため、地震に関する調査資料は極秘とされ、戦時報道管制の下、被害に関する報道も厳しく統制された。
地元紙においては、物資配給・住宅対策といった被災者の生活支援に関する記事を出来うる範囲で報道するのみだった。
前回の南海トラフ地震(東南海地震、三河地震)は隠された地震といわれ、現代に伝えられている被害の様子を示す資料や写真などが非常に少ない。
東南海地震は授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や軍需工場等を中心に強震動 と津波による総死者数は、総計千二百二十三名に達した。
その三十七日後、昭和二十年(一九四五)一月十三日午前三時に内陸直下型の三河地震が発生し、死者数は二千三百六人に達している。
巨大地震の歴史
駿河トラフと南海トラフ沿いに、巨大地震が歴史上繰り返し発生してきたのは歴史書からも明らかである。
安政元年(一八五四)安政の地震の際には、東海地震域と東南海地震域は連動して活動し、その一日半後に南海地震域が活動した。
宝永四年(一七〇七)宝永地震では三つの震源域が連動したと推定される。
慶長十年(一六〇五)慶長地震の際には、鎌倉や東海、徳島などで揺れを感じたとの記録があるものの、西日本全体で強震動による被害が生じたとの記録が残されていないため、津波は大きいものの、揺れは小さい、“ゆっくり地震”又は“津波地震”ではないかと推測されている。
明応七年(一四九八)明応の地震では、遠く鎌倉や房総半島の太平洋側が津波に洗われ、 昭和や安政の地震とは津波のパターンが異なると考えられる。
昭和十九年(一九四四)十二月七日、三重県沿岸に発生したマグニチュード7.9の地震は、東南海地震と名付けられた。
気象庁マグニチュードで7.9、モーメント・マグニチュードでは8.0である。
日本が敗戦の色を濃くしていた時代であり、地震の発生そのものが秘密扱いだったために、東南海地震に関しては資料も新聞記事も少ない。
報告書(1944東南海地震 1945三河地震) : 防災情報のページ - 内閣府 (bousai.go.jp)
戦争が消した諏訪の地震
諏訪は東南海地震の震源から三二〇キロも離れている山国の小都市である。
しかし、そこで大被害が発生したのにはいくつかの要因が集中していたからであった。
諏訪盆地は全国屈指の軟弱地盤であり、周囲は堅い地盤の山で囲まれている。
東海方面からの地震波は軟弱地盤で増幅され、周囲の岩盤で反射反復され増大する盆地特有の性質を持っていた。
元々は諏訪湖底だった軟弱地盤に軍需工場が集中していた。
それらの工場は急造による不完全な新設工場と老朽製糸工場から転用されたものが多く、周囲の地域から多数の中学校、女学校の動員学徒が集められ働いていた。
東南海地震では、いくつかの工場が全半壊し、農村、市街地にも多くの損害が出たが、報道管制で真相は隠された。
「体験者の会」は昭和六十二年六月に三五〇名の証言と発見された貴重な資料をもとにして諏訪災害を次のようにまとめた。
被害の中心は軍需工場であった。
人命の損害は軽微
火災はボヤ程度の数件を除き起きなかった。
片倉館などの木材基礎工法
軟弱地盤に建てる建物は、諏訪では昔からクイ打ち工法、イカダ工法とも呼ばれる木材基礎工法が採用されている。
高島城の石垣はイカダ工法が成されているという話も伝わるが、木材基礎工法の好例は諏訪湖畔に昭和三年に建てられた片倉館である。
片倉製糸が製糸工場に働く人々と地元の人々の福祉のために建てられた浴場建築は、尖った塔、急傾斜な屋根、西洋風洋式により人々の眼を引き付ける建物である。
東南海地震の際、片倉館から数百メートルしか離れていない軍需工場で大倒壊があり、近隣の温泉街でも被害は大きかった。
しかし、驚くべきことに片倉館はまったくの無傷で、天井や壁に裂け目もなく、煉瓦一つ落ちた傷跡もなかった。
しかも、地震による敷地の傾きもなかった。
泥田を掘り起こして建てられた重量建造物が地震に無事であったことを支配人に尋ねたところ「伊那の高遠の山から三千本の松丸太を伐り出してきて地中に打ち込んだと聞いていますが、そのせいでは」と答えている。
基礎工事の設計図や建築当時の写真から、建物の下には極めて多数の松丸太が整然とクイ打ちされている。
末口五寸五分、長さ三間の松丸太は建物の下で、あたかも多数の根を張ったようになって地盤を固め、安定基盤を造って重量物の沈下をも防ぐ浮き基礎の働きもしていた。
その走りが江戸城築城の時にすでに採用されており、この技法は大正時代の帝国ホテルの建設にも生かされていた。
天正十八年(一五九〇)江戸に入って築城した江戸城の石垣の構築には幾多の教訓が残されていると言われている。
その中でも基礎工法に木材を有効に使っている例を郷土史家倉本勝三郎は「江戸城とお台場の石垣構造」で発表している。
出典 戦争が消した諏訪“震度6”昭和19年東海地震を追う 宮坂五郎・市川一雄 著