諏訪湖の治水 ~五六郎の阿呆丸~
江戸時代後期、諏訪湖の氾濫を防ぐため、私財を投げ打って諏訪湖にあった島(浜中島)を除去した人がいる。
伊藤五六郎である。
当初は、極めて難工事だったことから、周囲の人は五六郎を笑い、使用した泥を乗せる大船を、 「阿呆 (アホウ) 丸」 と呼んだ。
大工事が完了するころには、馬鹿にする者はいなくなり、人々はその徳に感謝した。
五六郎は、私財のすべてを投げ打って仕事を成し遂げたことにより家は没落し、晩年は不遇な生活を送り、明治元年(一八六八) 、六十余歳の生涯を終えた。
現在は、「SUWAガラスの里」の一画に郷土の英雄として顕彰碑が建てられている。
伊藤五六郎翁の事績
翁は、文化三年(一八〇六)有賀村の伊藤甚之丞の長男として生まれ、怜悧事を好む事業家肌出、身丈六尺近くもあり毎年の如く洪水に苦しむ野民の様子を深く憂い、二十代の若さで、文政十一年(一八二八)七月有賀村外十三ヵ村名主の連署を得て、高島藩に請願し遂に天竜川釜口にあった浜中島(面積約三千坪)撤去の許可を得た。
この島は、湖面より平均六尺高であったが、その水面下約二尺の深度まで撤去する計画を以て、自ら工事を監督し、その開鑿した土砂は、運漕船(幅一間半、長さ約八間の大舟)九艘を作って、有賀村中曽根の地に運搬し、約六町歩の水田侵墾に供した。
この工事は、文政十三年十二月に竣工したが、その使役した延人夫数は、請負見積壱万五千九百拾弐人を遥かに超えたという難工事であった。
これによって湖の水位は下がり、水害常習地の十四ヵ村の人々は多大な恩恵を受け、翁を「生き神様」とまで称えた。
然し翁は、この事業のため私財を使い果たし、報われる事のないまま明治元年(一八六八)十一月十二日六十余歳でこの世を去った。
吾人は、諏訪市が今日の発展の姿あるを思う時、翁の偉業を忍び、顕彰碑を建立し、その功績を永く後世に伝えるものである。
顕彰碑より
満水堀と新堀
諏訪湖は、上川、砥川など三十一もの河川が流れ込んでいるが、その出口は天竜川の一つだけである。
大雨や台風のたびに水が溢れる、「溢水氾濫」をし、湖周に住む人々の暮らしを脅かして来た。
江戸時代のころより治水工事が行われ、諏訪湖の排水を改良するために1本の排水路、「満水堀」と呼ばれる排水路を開削し、元和元年(一六一五)に完成した。
この「満水堀」工事によって、弁天島が出来上がった。
その後、さらに諏訪湖の水位を下げるために、天和三年(一六八三)~元禄二年(一六八九)の間に「新堀」と名付けられた排水路を弁天島の中間に開削した。
この工事で排水路は3本(天竜川、新堀、満水堀)になり、島も弁天島と浜中島に分かれた。
伊藤五六郎と浜中島
伊藤五六郎は、豊田有賀の農家、伊藤甚之丞の長男として文化六年(一八〇九)に生まれた。
頭のよい事業家肌だったらしい。
文政十一年 (一八二八) の長雨で諏訪湖周辺一帯が水に浸かり不作になった。
湖岸を開拓した湿地帯は正徳元年(一七一一)~文政十一年(一八二八)の百二十年間に、五十回もの浸水の大被害を受けていた。
弱冠二十一歳の五六郎は見兼ねて、諏訪湖の氾濫に影響していた湖内にある 「浜中島」 を取り除くか、新たな水路を開くかで水害を防ぎたいと、郡奉行に願い出た。
島の除去の計画が採用され、五六郎が工事を請け負うこととなった。
五六郎は、まず、諏訪湖で使われていた漁舟の二十倍余りの大きさ、幅が一間半(約3m)長さ八間(約15m)という今まで人々が見たことがない大船を建造した。
島を一つ取り去るという大事業、成功は難しいと冷やかしたり、馬鹿でかい船を見て、人々は 「阿呆丸」と呼んだ。
五六郎はそんな世評には屈せず、延べ一万六千人近くの人足で、約1年間かけて土砂を運び去り、文政十三年 (一八三〇) 、浜中島は姿を消した。
浜中島撤去工事で出た土砂は、高島城付近の有賀村の浅瀬へ運び、そこを埋め立て「五六郎田圃」と呼ばれる新田を開いた。
弁天島と諏訪湖富士
五六郎は、実に偉大なる仕事を成し遂げたが、多額の借金のため土地に居られなくなり、江戸へ出奔した。
江戸でも不遇であり、五十六歳の時、妻子を江戸に残して故郷の諏訪へ帰郷して親類に身を寄せた。
親戚から「厄介者」と嫌われ、手習いの師匠をして明治元年(一八六八)年に他界した。
伊藤五六郎の墓は、諏訪湖が見渡せる、諏訪市豊田有賀の江音寺の裏山の急傾斜地にある。
浜中島撤去後の釜口には弁天島が残り、葛飾北斎の「富嶽三十六景・信州諏訪湖」には遠く富士山、高島城を望み、一番手前中央に弁天様の祠のある弁天島が描かれている。
弁天島と弁財天社
浜中島を撤去しても湖水の氾濫はやまず、天保元年(一八三〇)~安政六年(一八五九)の三〇年間に十九回の洪水が記録されている。
そこで、藩主諏訪忠誠が設置した目安箱に、誰が入れたか不明であるが弁天島撤去の願い書が入れられ、明治元年(一八六八)の大洪水を契機に、弁天島は撤去された。
諏訪湖の弁天さまは、芸術、芸能の神として知られている奈良の天河大弁財天社から最初に勧請されたものと言われている。
弁天さまは古代インドにおける川の神(女神)なので、竜を神使としていた。
諏訪大明神は、その姿が竜神であるという伝説が伝えられている。
諏訪の弁天さまは、諏訪湖の化身である竜を従えるため、諏訪湖のたった一つの出口、天竜川が始まる場所に御坐され、諏訪湖の周りの人々の願いを聞いたのである。
現在、社は釜口水門近くにある「御社宮司社」に移され、弁天さまの絵がかけられている。
また、「復刻平野村誌」によれば、弁天島の社は「小口治右衛門の祝神」でもあったとされ、弁天島で祀られていた弁天さまは「毒沢鉱泉 神乃湯」館主小口家によって先祖代々お守りされている。