諏訪大社秋宮を歩く

諏訪大社下社秋宮

2016年遷座祭(お舟祭り)秋宮境内入り口

 

諏訪大社下社春宮、秋宮両社の鎮座に関しての文献や資料は全くなく、従来の諸説は上社に残っている文献を主にして述べているにすぎない。

 

下社においては、春宮・秋宮の二社があり、しかも、この両社が六ヵ月毎に神霊が交替して鎮座することは、上社の本宮と前宮との関係とは全く違っている。

 

下社の主要な祭祀である遷座祭(お舟祭)をみるに、その神霊が一年に二回移御するのである。

 

一年の前半は春宮に、後半は秋宮に鎮座される古儀を現在も残している。

 

神霊が一年の前半の春季に鎮座するから春宮と称し、後半期の秋に鎮座の場所を秋宮と名づけているのである。

 

一社の祭神が春秋二季にその鎮座の地を替えるということは、他の神社にはその例をみない。

 

これは一体何を意味し、何を物語っているのか、今は知る由もない。

 

 

諏訪大社下社秋宮は本殿がなく一位の木(イチイ)を御神木としている。

 

 

秋宮の社殿は安永十年(一七八一)に立川流の宮大工が完成させた。

 

対して、春宮の社殿は大隅流の宮大工の作で、秋宮より後に着工して一年早い安永九年(一七八〇)に竣工。

 

春宮と秋宮でそれぞれ彫刻などが異なるため、似て非なる二つのお宮の個性を見比べるのも一興である。

 

 

上社が古い形式の私印で、御符の命令を下達しているのにたいして、下社は平安初めから官印を使用している。

 

このことから、古い諏訪祭政体の上に、大和朝廷の息ぶきのかかった時期が、上社より下社の方がはやく、八世紀から九世紀ころと考えられる。

 

宝徳元年(一四四九)内乱により下社の焼失や、永正十五年(一五一八)上社に攻め立てられ、古代以来の下社大祝家、名族金刺(かなざし)氏は姿を消すことになる。

 

下社は大祝金刺氏の勢力をもって、上社と拮抗していたが、その全盛期の記録はほとんど失われてしまっている。

 

諏訪大社下社秋宮を歩く

下諏訪99分の街歩きマップ加工

 

秋宮の前の道は、旧甲州街道で、神社すぐ北側の綿の湯跡前で中仙道と合流する。

 

秋宮と春宮は、中仙道でもっとも賑わった下諏訪湯之町の宿でつながれている。

 

街道の旅籠は今も昔のままの街並みに、湯の香りをただよわせている。

 

下諏訪町観光協会が出している「歩きたいわ しもすわ 99分のまちあるきマップ」「下諏訪観光マップ おいでなして、しもすわ」を参考に諏訪大社下社秋宮を歩いてみた。

 

下諏訪町ホームページより
「歩きたいしもすわ-99分のまちあるき」(PDF/4MB)

 

下諏訪観光協会ホームページより
「下諏訪観光マップ おいでなし、しもすわ」(PDF/4MB)

 

山王台

春の諏訪大明神大祝金刺盛澄像

 

秋宮鳥居右脇より少し入ると秋宮専用駐車場がある。その奥に橋でつながる山王閣ホテル跡地の駐車場より出発する。

 

ここはかつて霞ヶ城と呼ばれ、下社大祝、金刺一族の居城であった。

 

平安時代末期の武将で「源義仲」の挙兵に参加し、最後まで義仲に従った四騎のうちの一人「手塚別当金刺光盛(てづか べっとう かなさし みつもり)」(不詳~1184/寿永3年)の居城跡とも伝えられ、手塚城跡とも呼ばれる。

 

見晴らしの良い場所なので、諏訪湖や富士山などの山なみが見渡せる場所である。

 

霞ヶ城跡(手塚城)
この地は、手塚別当金刺光盛の居城後です。
城主光盛は、木曽義仲に従い、寿永二年(一一八三年)義仲の火牛の奇襲戦法で有名な倶利挂伽羅峠の合戦に源氏方で参戦。
つづく加賀篠原の戦いでは、敗走する平家群の中にあって、ただ一騎ふみとどまって奮戦する武将斉藤別当実盛と一騎打ちに及んだ。
この古式に則った見事な一騎打ちは、武士道の鑑とされ、能「実盛」の題材となって今に伝えられている。

 

光盛について、平家物語によれば

 

光盛 かく申すは、信濃国諏訪郡霧ヶ城主手塚別当金刺光盛なり。
実盛 仔細あって名のらじ、唯、首を取って木曽殿に見参されよ。
光盛 あなやさし、いかなる人に渡らせ給へば、みかたの御勢は、皆落行き候に、ただ一騎残らせ給いたるこそ、優に覚え候。名乗らせ給へ。
実盛 存ずる旨あれば名乗る事はあるまじいぞ。組もう、手塚。

 

激戦の末、光盛がその首を打ち取るが、その人こそ、幼少の義仲(駒王丸)の命の恩人斉藤別当実盛であり、義仲が号泣する戦乱の世の悲劇としても知られている。

 

下諏訪環境協会設置の説明板より

 

諏訪大明神大祝 金刺盛澄像

 

諏訪明神下社の大祝で諏訪武士の統領金刺盛澄は、弓馬の達人だった。
諏訪大明神畫詞によれば、木曽義仲を婿にとり「女子一人出生」とあり、義仲の義父ということになっている。
義仲の平家討伐の軍に加わり、弟、手塚太郎光盛とともに北陸路を攻め上がったが、諏訪明神御射山社の例大祭のために途中帰国した。
元暦元年正月二十日義仲討死の後、盛澄は、鎌倉へ召還されたが、京都城南寺の流鏑馬に参加していたため遅参、頼朝の怒りを買い処刑されることになった。
その命を受けた梶原景時は「世に比類のない弓馬の達人、盛澄の流鏑馬を頼朝が台覧することになった。
頼朝の指図による鎌倉一のあばれ馬を見事乗りこなし、小さな土器一つもはずすことはなかった。
その技に、頼朝は「とても人間技とは思えぬ。神の加護があってこそ。」と許され諏訪に帰ることができた。
盛澄は後、鎌倉のご家人となり、頼朝護身の役を勤めた。

 

金刺盛澄像の足元にある説明板より

 

温泉手水

諏訪大社秋宮の温水手水

 

龍の口からご神湯と呼ばれる温泉が湧き出ている。

 

「御神湯」の手水舎で少し熱めの天然温泉で「長寿湯」とも呼ばれている。

 

根入りの杉

秋宮の夜中にいびきをかく寝入り杉

 

神楽殿の手前に立つ大杉。

 

樹齢約六~七百年の大杉。

 

夜中にいびきをかいて「寝」入るともいわれる。

 

言い伝えによると、真夜中(丑三つ時)になると枝先をたれ下げて寝入ってしまい、いびきが聞こえるといわれる。

 

このことから「寝入り杉」とも伝えられている。

 

葉を枕に入れると安眠できるといわれている。

 

いびきをかく杉は、くにびき神話の残る島根半島の沖合に浮かぶ隠岐島の八百杉でも、根元に住んでいた大蛇が、生きたまま寝に巻き込まれ、今でも静かな夜には大蛇のいびきが聞こえて来る話がある。

 

根入れの杉

 

この杉の木は樹齢凡そ六~七百年で丑三つ時になると枝先を下げて寝入りいびきが聞こえ子供に木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止まるといわれている。

 

諏訪大社下社設置の説明板より

 

神楽殿

下社秋宮の神楽殿

 

立川和四郎二代目富昌作。

 

青銅製では日本一の大きさという狛犬を両脇に従える。

 

神楽殿

 

御神前に神楽を奉納するための建物で天保六年(一八三五)上社本宮幣拝殿を手掛けた立川和四郎二代目富昌棟梁により落成した。

 

三方切妻造と呼ばれる様式で幣拝殿のような彫刻は見られない。

 

正面の大注連縄は御柱祭毎に新しく奉製され重量は約一トンである。

 

秋宮設置の案内板より

 

幣拝殿

秋宮の幣拝殿

 

幣殿と拝殿がつながった社殿で、左右には片拝殿が付す。国の重要文化財

 

 

幣拝殿
この建物は御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったものである。
二重楼門造りと呼ばれ、二回は跳匂欄(先の反った欄干)を回し全体に見事な彫刻が施されている。
諏訪高島藩の命により、安永十年(一七八一)に初代(立川流)棟梁立川和四郎富棟によって造営された。

 

左右片拝殿
安永十年(一七八一)初代立川和四郎富棟により造営された。
幣拝殿に比べ彫刻などは見られず、江戸時代の記録には幣拝殿は帝屋(御門戸屋)、片拝殿は回廊と記されている。

 

秋宮設置の案内板より

 

御柱

2016年の秋宮三の御柱

 

正式には「式年造営御柱大祭」といい、日本三大奇祭のひとつとされる「御柱祭」は、寅と申の年に樅の大木を「御柱」として伐り出し、氏子が各地区分担して二社四宮(「上社本宮」「上社前宮」「下社秋宮」「下社春宮」)へそれぞれ4本ずつ曳行し、社殿の四隅に建てる「諏訪大社」最大の行事である。

 

御柱のことを知りたければ、こちらに書いたので参考にしてほしい。
【御柱とは】 諏訪信仰の古き歴史を知る。

 

 

天覧の白松(てんらんのしろまつ)(三葉の松)

下社秋宮の天覧の白松

 

葉が三本つながった落ち葉「三葉の松」を財布に入れると、貯金が増えるという。

 

昭和天皇皇后陛下が行幸の折にご覧になったことから「天覧の白松」と云われている。

 

「三葉の松」というよりも「天覧の白松」と言った方が、御利益ありそうである。

 

 

神楽殿をまわり正門より境内を出る。

 

専女の欅(とうめのけやき)

下社秋宮の向いの専女の欅(とうめのけやき)

 

八幡社の道をへだてた西方にあって、通称を「おトーメ様」ともいう。

 

樹齢千年以上の欅の巨木である。

 

専女の欅の奥には、秋宮の社叢である専女社(とうめしゃ)がある。

 

専女の欅(とうめのけやき)

 

古くから諏訪社外苑の専女社内にあり、秋宮社叢の一部で町内有数の巨木でもある。

 

遠く下筋からも見えて、芽吹きや紅葉で気候を占った陽気木として知られる。

 

下諏訪町教育委員会設置の説明板より

 

承知川

承知川の信玄の埋蔵金

 

信玄がお社を建て替えのために用意したお金が、その時は、お社はつくりかえたばかりで、まだ、その必要がないとのことで、明神様の近くの土の中へ埋めたという話がある。

 

承知川橋の大きな一枚石に刻まれている煉瓦模様は、信玄の埋蔵金の隠し場所の地図だと言われている。

 

承知川橋の記

 

この一枚石は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。

 

輝石安山岩 重量約拾参屯

 

伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦の砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したと言う。
爾来承知川と呼びこの一枚石の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。
この一枚石の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。
表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。
この度新橋掛替に当ってこの橋石を永久に此処に保存する。

 

久保海道町

 

承知川の埋蔵金の話が知りたければ
【承知川】 諏訪の民話や伝説~信玄の埋蔵金~

 

言いなり地蔵

下社秋宮の言いなり地蔵

 

諏訪大社秋宮にはかつて本地仏千手観音を本尊とする神宮寺があった。

 

明治維新の神仏分離令で神宮寺は廃寺になり、この地蔵様は萩倉の薬師寺堂に安置された。

 

しかし、毎晩この地蔵様が神宮寺の方向へ動くので元の地におかえりになりたいのだろうと、町の人々がお返ししたという。

 

誰の願いも「言うなり」にお聞き届けくださることから、いつしかいいなり地蔵様と呼ばれ信仰厚く今まで大切にされてきた。全国的に見ても「いいなり地蔵」の名で信心されているお地蔵様は珍しい。

 

いいなり地蔵

 

誰の願いも言うなりに叶えてくれるので言成地蔵尊。元禄年間諏訪神社の神宮寺の境内に安置され善男善女の信仰厚く毎日お参りする人が絶えなかった。

 

明治元年神仏分離令が公布され神宮寺が廃寺になり、言成地蔵尊は萩倉の薬師堂に信者により安置されたが、毎日少しずつ前にあった方に移動するので信者も驚き、話合った結果、地蔵様のお心を思い元の位置(現在地)に戻し安置する。

 

当時は諏訪の平を一望する眺望地であった。

 

下諏訪観光協会設置の説明板より

 

千尋池

下社秋宮の千尋社周辺の千尋池

 

「千尋社周辺の千尋池は、諏訪大社下社の宝印で重要文化財の「売神祝ノ印(めがみはふりのいん)」が発見されたという伝説がある神池。

 

明治以降は人家の中に埋没したが、地元有志が復興会を組織し、家屋移転などを経て四十三年に復旧した。

 

売神祝ノ印(めがみはふりのいん)は諏訪大社下社の宝印で、それを納める院筥(いんばこ)と共に昭和九年一月三十日に国宝の指定を受けた。

 

社伝によると大同年間(八〇六~八一〇)平城天皇より下賜されたものといわれ、美しい鋳肌をもった銅印で大和古印の系統をひくものと考えられる。

 

かつて一旦失われ、秋宮神池の千尋池から発見されたと伝えられている。

 

中山道・甲州街道合流点

中山道甲州街道合流地点の碑

 

諏訪大社下社秋宮の千尋池を過ぎしばらく行くと、道の右手に「下諏訪宿 甲州街道・中山道合流之碑」と彫られた黒い石柱が立っている。

 

この交差点で甲州街道は終点となり、南西方向の道を行けば中山道を京都へと向かい、北西方向に行けば同じく中山道を江戸へと戻ることになる。

 

近くには綿の湯のモニュメントがある。

 

伝説によれば、諏訪大社上社に住んでいた建御名方神(タケミナカタノカミ)の妃・八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)が日ごろ使っていた化粧用の湯を綿に浸して「湯玉」として下社の地に持ってきて、その湯玉を置いたところから温泉が湧き出たといい、以来その湯は「綿の湯」と名付けられた。

 

青塚古墳

青塚古墳の石室

 

墳長57mの前方後円墳

 

埋葬施設は後円部西側に開口する両袖式の横穴式石室で、全長約7.4m、石材に安山岩の自然石が使用されている。石室の構造や出土した円筒埴輪などから六世紀後半~末頃の構造と推定されている。

 

下諏訪町横町木の下の青塚は諏訪大社社有地にある。

 

古墳が立地する台地は霧ケ峰から伸びた山塊が平坦となり、その中心には秋宮が鎮座し、古墳の位置は北西の隅といえる場所にある。

 

現在は人家に囲まれ北側だけが道路によって開けているが、狭隘な地となって、墳丘には欅の大木で守られている。

 

下諏訪青塚古墳

 

この古墳は、明神山山麓から西に突き出た丘陵の先端部に位置し、付近に古墳は認められず単独墳の様相を呈している。

 

現在の墳形は、長い年月の間に旧状を変じており、見方によっては二基の円墳が近接し合っているようにも見えるが、主軸長六十七メートル、後円部幅四十二・八メートルの前方後円墳である。

 

石室は、後円部西側のくびれ部寄りに開口した横穴式石室で、安山岩の自然石を用いた乱石積となっており、全長は七・四メートルである。

 

なお、内部は未調査のため不明な部分が残されている。

 

本古墳は、墳丘の形態・石室・出土した埴輪の特色から、六世紀後半から末に築造されたものと推定されている諏訪地方唯一の前方後円墳であり、後円部に比して前方部が長いという天竜川流域の特色を有した貴重な古墳である。

 

長野県教育委員会設置の看板より

 

星ヶ塔ミュージアム矢の根や

星ヶ塔ミュージアム矢の根やの黒曜石

 

国の史跡指定を受けた星ヶ塔黒曜石原産地遺跡など町内の埋蔵文化財を展示するミュージアムである。

 

縄文時代の黒曜石採掘抗を忠実に再現したジオラマ、採掘イメージのパノラマイラストや町内で出土した遺物から縄文時代の黒曜石の交易と暮らしの様子が想像できる。

 

黒曜石採掘抗ジオラマ

星ヶ塔黒曜石原産地遺跡の実際の採掘抗を忠実に再現した原寸大のジオラマ

 

地下シアター

みちがつくった下諏訪の歴史を約12分間の映像で解説

 

1F展示室 星ヶ塔遺跡と黒曜石の世界

下諏訪町と黒曜石との関わりを紹介し、黒曜石原産地ベルト地帯と産地による黒曜石の特徴を紹介

 

1F展示室 やってみようコーナー

実際に黒曜石に触れ感触を楽しむことができます。パズルもあります。

 

2F展示室 イラスト紹介

縄文時代の採掘のイメージをイラストで紹介しています。

 

2F展示室 下諏訪町の遺跡

下諏訪町から出土した遺物から物の交易の様子が想像されます。

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