製糸王が奉納した靖国神社の石鳥居と狛犬【片倉館】

製糸王が奉納した靖国神社の石鳥居と狛犬

片倉館にある狛犬

 

諏訪湖のほとりにある片倉館の会議棟の入り口に、大きさが釣り合わない巨大な狛犬の像がある。

 

狛犬の足元に「靖国神社奉納 狛犬原型 高村光太郎作」と記した木札がある。

 

製糸業で繁栄を極めた片倉財閥の片倉家が昭和八年(一九三三)に鳥居と共に靖国神社に奉納した狛犬のレプリカである。

 

靖国神社の九段坂上の石鳥居と狛犬には「奉獻 昭和八年三月 片倉同族」と記されている。

 

 

安政の開港以来約七十年間、生糸は日本の輸出品の首位を占めていた。

 

明治政府は「富国強兵」「殖産興業」の重点の一つとして、製糸業の発展に力を入れた。

 

片倉組も時流に乗って拡大、躍進し、二代片倉兼太郎は「製糸王」と呼ばれる事業家になった。

 

昭和初期、日本の輸出の四割をシルクが占める中、その二割を片倉製糸紡績株式会社が担っていたという巨大企業であった。

 

そのような時期に、自社の社員だけでなく地域の人々にも利益を還元したいと願い、公共の厚生施設として温泉施設「片倉館」を建設した。

 

また、諏訪大社上社前宮の鳥居、上社本宮の玉垣など神社等への寄進、靖国神社の鳥居と狛犬を奉納している。

 

製糸王片倉兼太郎と鶴峰公園のツツジ

 

片倉館

 

片倉館は諏訪湖畔に建つ温泉施設である。

 

一般財団法人片倉館が管理し、会館、浴場、渡廊下の三棟が国の重要文化財に指定されている。

 

天然温泉を豊富にたたえる大浴槽は一.一メートルも深さがあり、当時、製糸工場で働く女工たちが大勢入浴できるように作られ、千人風呂とも呼ばれている。

 

明治六年(一八七三)に岡谷で製糸業を興した片倉組の中で、後にシルクエンペラーと称された二代片倉兼太郎は、大正十一年(一九二二)~大正十二年(一九二三)にかけて北中南米から欧州へ全行程約八万キロメートルに及ぶ視察旅行を行った。

 

その際、ヨーロッパ各国の農村には充実した厚生施設が整っている事に強い感銘を覚えた。

 

我が国にもぜひそのような地域住民のための施設を提供したいと一族に計り、片倉家同族が創業五十周年の記念事業として、昭和三年(一九二八)に上諏訪に住民のための温泉、社交、娯楽、文化向上を目的とした温泉保養施設、講演会や各種会合ができる会館を併設した「片倉館」を竣工した。

 

金融恐慌の混乱期にも片倉館の建設は推し進められ、竣工式には二〇〇人を超える参列者が集まった。

 

国重要文化財 片倉館とは

 

日本の代表的製糸業者「片倉一族」は、自らの発展は「日本の国土と国民からの恩恵によるもの」とする考えに基づき、利益の国土への還元と多くの社会貢献事業を行ってきました。

 

その中の一つとして昭和三年(一九二八)に、地元の人々の福祉施設として温泉施設を建設し、片倉館が生まれました。

 

建設は日本の浴場では稀な西洋風に設計され、突塔と煙突、傾斜の強い屋根は、非対称の美を表現し、ヨーロッパの古都を思わせます。

 

また内部には動物意匠の装飾、ステンドグラスのはめ込みなど、童話風の趣があります。

 

建物の基礎は湖岸の軟弱地盤に適する工法が採用され、今日まで耐震性の強さを証明しています。

 

設計者は森山松之助で、台湾総督府などの建築を手がけた昭和初期の建築家です。

 

片倉館内の説明板より

 

片倉館

 

片倉館は昭和三年(一九二八)に、当時日本の代表的製糸業者片倉家が、地元の人々の福祉施設として建設した温泉施設です。

 

建設は日本の浴場では稀な西洋風に設計され、突塔と煙突、傾斜の強い屋根は、非対称の美を表現し、ヨーロッパの古都を思わせます。

 

また内部には動物意匠の装飾、ステンドグラスのはめ込みなど、童話風の趣があります。

 

建物の基礎は湖岸の軟弱地盤に適する工法が採用され、今日まで耐震性の強さを証明しています。

 

設計者は森山松之助で、台湾総督府などの建築を手がけた昭和初期の建築家です。

 

諏訪市教育委員会設置の説明板より

 

国指定重要文化財【片倉館】-ロマン漂う洋風建築と日帰り天然温泉・千人風呂

 

 

靖国神社の狛犬

 

靖国神社のホームページより、靖國神社は、明治二年(一八六九)六月二十九日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社(しょうこんしゃ)がはじまりである。

 

「靖國」という社号は、明治天皇が「国を靖(安)んずる」という意味で、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められ、明治十二年(一八七九)六月四日に社号が「靖國神社」と改められ別格官幣社に列せられた。

 

靖國神社には、戊辰戦争(戊辰の役)やその後に起こった佐賀の乱、西南戦争(西南の役)といった国内の戦いで、近代日本の出発点となった明治維新の大事業遂行のために命を落とされた方々をはじめ、明治維新のさきがけとなって斃れた坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作、橋本左内といった歴史的に著名な幕末の志士達、さらには日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満洲事変、支那事変、大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や戦争に際して、国家防衛のためにひたすら「国安かれ」の一念のもと、尊い生命を捧げられた方々の神霊が祀られている。

 

明治七年(一八七四)一月二十七日、明治天皇が初めて招魂社(しょうこんしゃ)に御親拝の折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社である。

 

 

参拝者駐車場入口の花崗岩の鳥居及び鳥居の場所にある狛犬一対は、昭和八年(一九三三)春、満州事変、その他の犠牲者千七百十一柱の合祀祭を機に片倉同族会が寄贈している。

 

 

平和文化刊 「学び・調べ・考えよう フィールドワーク 靖国神社・遊就館」東京の戦争遺跡を歩く会編より、鳥居左柱、狛犬左台座にそれぞれ「奉献 昭和八年三月 片倉同族」と刻まれています。

 

奉納願には「今回の事変(満州事変:筆者注)ヲ記念スル為メ、・・・・・・岡山県産花崗岩大鳥居ヲ建設シ奉納支度、御許可被下度、此段奉願上候也。・・・・・・昭和七年十月十八日 長野県諏訪郡川岸村 片倉同族代表者 片倉兼太郞 陸軍大臣 荒木貞夫殿」とある。

 

片倉同族とは、製糸王といわれた片倉兼太郎を中心とする片倉一族の製糸会社です。

 

 

靖国神社の資料から石の大鳥居が完成するまで

 

岡山県議会鶴田簑輔は、北木石(きたぎいし)を鳥居の素材として献納しようとし、実現にいたらないで終わる。

 

昭和七年(一九三二)十月十八日、長野県の片倉謙太郎が満州事変記念のため前記の石で大鳥居を献納したい旨願い出る。

 

昭和七年(一九三二)十二月二十日、つづいて石狛犬も奉納したいと願い出る。

 

昭和八年(一九三三)一月二十五日、石鳥居、狛犬の建設奉告祭および地鎮祭を行う。

 

昭和八年(一九三三)四月十三日、花崗石大鳥居、狛犬一対、竣工する(大村銅像南側)。  

 

出典 靖国神社百年史

出典 「学び・調べ・考えよう フィールドワーク 靖国神社・遊就館」東京の戦争遺跡を歩く会編

 

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