二十世紀の日本彫刻界の巨匠『矢崎虎夫』の生い立ちを振り返る

日本彫刻界の巨匠『矢崎虎夫』

 

矢崎虎夫とは二十世紀の日本の彫刻界の巨匠として国内外に認められた人物である。

 

幼少期から触れていた仏教と現代彫刻を融合させ、日本文化と現代彫刻の融和「矢崎虎夫の世界」を開花した。

 

 

明治三十七年七月二十五日生まれ~昭和六十三年九月二十四日逝去(享年八十四歳)

 

芸術活動一筋の人生は、日本彫刻界の巨匠として国内外に認められるとともに、茅野市の芸術文化の向上にも多大な貢献をした。

 

昭和五十六年までの間に五回に亘る紺綬褒章と、昭和五十七年に勲四等瑞宝章を叙勲し、同年十二月には茅野市栄誉市民の称号が贈られた。

 

同氏の作品は、パリ、ヴァンセンヌ公園の「雲水群像」、国立近代美術館の「托鉢」、川崎大師の「釈迦像」、諏訪湖の「八重垣姫」、尖石縄文考古館の「縄文の手」など多数あるほか、蓼科高原美術館【矢崎虎夫記念館】に数多く展示されている。

 

【雷電為右衛門】江戸時代に天下無双と呼ばれた力士
『本朝廿四孝』 諏訪湖を翔け渡る八重垣姫

 

「父 矢崎虎夫が歩んだ人生と彫刻の世界」

 

令和四年八月、彫刻家、矢崎虎夫氏の二女有賀敬子さんを講師に、「父 矢崎虎夫が歩んだ人生と彫刻の世界」と題して、芸術活動一筋に歩んだ父の人生と矢崎虎夫氏が遺した彫刻の世界について、講演、解説が行われた。

 

公演は茅野市中央公民館「茅野学講座」として行われたため、令和四年度茅野市公民館報(六六四号)や公演の動画が公開されている。

 

茅野市公民館報バックナンバー(664号)

 

公民館報に書かれている公演の概要を抜粋する。

 

はじめに

 

郷里の皆様とお会いできましたこと、嬉しく思っております。

 

お役に立つのであれば、知っている限りのことをお話しさせていただきます。

 

生き方のバックボーンは父親の教え

 

父矢崎虎夫は、明治37年7月25日、永明村(今の塚原)に生まれました。

 

農家の二男でした。

 

大変厳格な働き者の父親と仏事に熱心な優しい母親に育てられました。

 

永明尋常小学校での勉強を終えていよいよ中学校に入るという時に、養蚕を営んでいた父親から「中学もいいけれども悪い人間になっちゃだめだ」と厳しく言われたそうです。

 

そうした教えが父の生き方のバックボーンにあったと思います。

 

新潟の禅寺で修行

 

中学校を卒業すると、原村出身の彫刻家清水多嘉示(たかし)先生のお世話で彫刻界の巨匠平櫛田中(ひらくしでんちゅう)先生の内弟子になりました。

 

そこでの3年間に木彫の基礎を学びました。

 

修業を終えて東京美術学校彫刻科に入学しました。

 

一流の先生方のもとで、今度は彫塑(ちょうそ)の勉強をして4年間を過ごしました。

 

夏休みには親友の水島さんに誘われて、新潟にある禅寺に行きました。

 

そこのお坊さんが大変すばらしい方で、父は仏教の教えや経典といったものを2年間学んだそうです。

 

それが一生を通じての根本精神となりました。

 

小さい頃から仏心を植え付けられて育った父は、修行に没頭し熱心に教えを受けたそうです。

 

東洋美術を懸命に勉強

 

その頃から木彫を始めました。

 

『カナリア』という小品を日本美術院展に初出品し、初入選しました。

 

その後は毎年欠かさず日本美術院展に出品しています。

 

だんだんと賞をいただくようになり、大きな作品も作るようになりました。

 

日中戦争が始まる直前には、満州から北支に廻り大同の石仏、雲南石仏寺などの仏跡を歴訪。

 

翌年、韓国慶州の石仏寺などを見て東洋古代仏教美術の粋を肌で感じ、また後のインドネシアボロブドゥール仏跡巡歴などから得た感動が制作の大きな力となりました。

 

昭和12年に戦争が始まりましたが、父は怪我をしたり病を得て入院したりで出征しないですみました。

 

後に海軍報道班員という役目を仰せつかってインドネシアに派遣されました。

 

そこで現地の人たちに彫刻を教えることもありました。

 

塚原に疎開、若い人たちと仏教哲学を学ぶ

 

東京美術学校を終え、27歳の時に杉並区の桜上水に家を建て、自宅のアトリエで制作を始めました。

 

東京の空襲が激しくなり、桜上水の家を手放して郷里の塚原の古い家に疎開してきました。

 

田畑を耕し自給自足の生活をしました。

 

そういう時でも院展への出品は続けていました。

 

制作を続けたことが、今に至っているのだろうと思います。

 

また、当時は集まってきた若い人たちと法華経を勉強する生活を続けていたようです。

 

信仰宗教というのではなくて、仏教哲学、法華経の真理を一生懸命勉強していました。

 

48歳の時、法隆寺金堂が火事になりました。

 

父はその復元工事に携わらせていただきました。

 

金堂北西の雲肘木(建物を支えるもの)を作らせていただきました。

 

2年間法隆寺に滞在し再建に努めました。

 

それも父にとって大きな勉強の一つだったようです。

 

作風が大きく変わり開花

 

60歳の時、諏訪市の姉妹都市であるオーストリアチロル地方の方に仏像を差し上げたことが縁で、オーストリアウィーン総合造形大学で1学期間客員教授として仏教美術を教えることになりました。

 

最初はウィーンで暮らしていましたが、大学教授の紹介でフランスパリのザッキン先生のアトリエでの制作を許されました。

 

その時が父の彫刻の開花時期だったと思います。

 

ヨーロッパに行ったこと、現代彫刻に触れたこと、キュービズムの先端を行くザッキン先生との触れ合いがあったことが父の作風を大きく変えたのだと思います。

 

ザッキン先生は、父に「すばらしい日本の文化的なものをもう一度見直してみなさい」とおっしゃいました。

 

パリの画廊で父が個展を開くと阿修羅像のポスターがものすごく人気で、飾ると毎日誰かが持ち帰ってしまったそうです。

 

仏教的なものが珍しかったのだと思います。

 

日本の文化的なものに目を向け見直したことが、父の彫刻が大きく変わり開花した元であったと思います。

 

集大成は『雲水群像』

 

県内あちこちに父の作品を設置していただいています。

 

茅野市内にも30点くらいの作品を目に触れるところにおいていただいています。

 

永明寺山にも釈迦像を建てていただきました。

 

戦死者の弔いと報恩感謝が父の念願でした。

 

その後、父は群像という形に目覚めました。

 

群像を制作するために禅宗の総本山である永平寺に行きました。『雲水群像』が出来田のは67歳の時です。

 

パリのヴァンセンヌの森に建てていただきました。

 

父の作品の集大成のようで大変ありがたいことでした。

 

彫刻家として幸せな一生

 

皆様のお力によって、父は階段を上がるように一つずつ技術を高め、芸術家としての精神も高めていきました。

 

本当にありがたいことです。

 

感謝してもしきれないくらい幸せだったと思います。

 

平櫛田中先生、ザッキン先生、すべての方々の教えがあったからだと思います。

 

そして母の支えがなければ、ここまで来られなかったと思います。

 

戦時中郷里に戻ったことも父の宝物となりました。

 

郷里の風土に接し、一緒に御柱も経験させていただきました。

 

そういう豊かな生活が父の芸術のエキスになっていたと思います。

 

父は彫刻家として本当に幸せな一生だったと思います。

 

こうした立派な記念館に111点の作品を納めていただき、皆様の目に触れる所に置いていただけることは何にも勝る幸せです。

 

遺族として心から感謝を捧げます。

 

蓼科高原美術館 【矢崎虎夫記念館】

 

蓼科高原美術館は、長野県内でも有数の避暑地として知られる蓼科高原にあり、茅野市出身で日本彫刻界の巨匠として活躍された「矢崎虎夫」氏の代表作を収蔵し、その偉業をたたえるため、平成三年開館しました美術館である。

 

展示されている作品は、彫刻作品で、どの作品も力強さと生命力に溢れています。

 

開館時間

午前10時~午後3時 (8月は10時~16時)

 

休館日

火曜日(8月は無休)※要確認 11月~4月は冬季休館になります。

 

入館料

大人 500円/子ども 300円 (30名以上の団体の場合は大人 400円/子供 250円)

 

蓼科高原美術館 - 北八ヶ岳ロープウェイ

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