【魁塚】草莽の志士~偽官軍にされた赤報隊~
草莽の志士
「草莽(そうもう)」とは、草や雑草が生い茂った草むらや草原を意味する。
「草莽の志士」という表現は幕末期の日本において特殊な意味を有した。
名誉も利益も求めず、志に命を賭けて倒幕運動に参加した下級武士や地方の豪農、豪商出身者などを「名もない人々の集まり」という意味で草莽と表現した。
権力を背景にせず、民間にあって国家への忠誠心に基づく行動に出る人たちを「志士」あるいは「草莽之臣」と呼んだ。
また、社会的に目立たない、低い身分ゆえ相手にされなかった博徒や農民、下級武士層を集めて編成された部隊の総称は「草莽隊」と呼ばれた。
「草莽の志士」として幕末、明治維新期に新政府から「偽官軍」の汚名を着せられ非業の死を遂げた関東勤皇浪士たちがいる。
慶応四年(一八六八)に下諏訪で処刑された赤報隊隊長の相楽総三ら幹部八名である。
その後、明治三年(一八七〇)生き残っていた旧赤報隊員により、刑死した赤報隊幹部らを鎮魂するための石碑が造立された。
明治維新の先駆けとなって命を失った若者たちを意味する「魁塚」と呼ばれた。
また、隊長の相楽総三の名から相楽塚とも呼称され、招魂祭(相楽祭)が行われるようになった。
明治期に途切れたが、地元有志が大正初期に復活させ、現在は相楽会により、彼らの霊を慰めるための「相楽祭」を執行している。
相楽総三(さがらそうぞう)(1839~1868)
本名は小島四郎左衛門将満といい、天保十年(一八三九)江戸赤坂に生まれた。
父小島兵馬は下総の富裕の郷士で当時は赤坂に住み、総三はその四男であった。
二十歳のころには文武両道に秀で、二十二歳のころは特に兵学を得意とし、教えを請うもの二百人に及んだといわれている。
総三は早くから幕府の政に疑いをもち、朝廷の衰微をなげいていた。
二十三歳のとき父親から五千両をもらって家を出、同志を求めて勤皇運動に尽力した。
幕末慶応年間(一八六六~一八六八)に展開した倒幕活動に準じた。
慶応三年(一八六七)大政奉還が朝廷に受理されたため、薩長両藩は幕府を討つ名目を失った。
しかし、討幕派急先鋒の薩摩藩の西郷吉之助らは戦端を開くため、幕府の薩摩藩邸攻撃を挑発し、鳥羽伏見の開戦の誘発につなげる。
相楽総三は、その作戦に従事した浪士であった。
その後、浪士集団は一度京都に集結し、慶応四年(一八六八)正月、薩摩藩の西郷吉之助の要請をうけ、討幕の先鋒隊を編成した。
先鋒隊の軍裁となり、併せて一番隊隊長として江戸以来の同志を中核とした一番隊を「赤報隊」と名付けた。
中山道を東進して進軍する赤報隊の運命を暗転させたのは「官軍先鋒隊」名義で布告した「年貢半減令」であった。
徳川幕府が崩壊したので、幕府旧領地はすべて「天朝御領」になり、総石高は四百万石にのぼった。
その全域で慶應四年(一八六八)分の年貢を半減すると布告して進軍したのである。
太政官からの正式に公布された法律であり、相楽総三個人の資格で発した布令ではなく、特に人心がいまだ不安定な関東を鎮撫しつつ進軍している赤報隊にとっては、下ろすことのできない公約であった。
しかし、背後の京都では情勢が大きく動き、三井組は東征軍費の担保として政府に納入する米穀の管理権を独占した。
新政府にとって年貢の半減は、今後の財政の動きが取れなくなること明らかであり、そのため赤報隊を犠牲にしてでも、偽官軍として抹殺せざるをえなくなったと思われる。
こうして「偽官軍」として捕縛され、何の弁明も許されず、冤罪により相楽ら幹部八名が刑に処せられた。
下諏訪にある魁塚
目指すは江戸、使命は東征軍の先駆け、戦になった時は先鋒をつとめることになる隊として、官軍は三隊に分けられ一番隊が相楽総三の隊であった。
「この国の夜明けを告げながら進む」「赤心をもって事に当たる」と言う意味で隊名を「赤報隊」と名乗った。
赤報隊は東海道鎮撫使の指揮を受けることになっていたが、先頭を進む隊であったので、状況を京に報告し、命令を受けてはまた進むではどう考えても遅すぎた。
東海道の尾張藩などは新政府に帰順する意思を示しており、桑名藩だけが問題であって、官軍の本体が来れば降伏すると判断した。
甲府や碓氷峠を扼してしまうと江戸を攻めるのが難しくなることから、より不穏な信州と甲府を押さえるべきと中山道へ進軍したが、軍令には違反したことになった。
下諏訪までの進軍中に抵抗らしい抵抗には合わなかったが、出所不明のつまらない噂や、京からの陰謀の指示で赤報隊は踊らされた。
二月五日、下諏訪に仮の本陣をおいた相楽らは、赤報隊一番隊を「官軍先鋒嚮導隊(きょうどうたい)」と改称し、東北信地方の情勢探索をおこなうことと、碓氷峠を占拠することを当面の大きな目標とした。
信州下諏訪に相楽の隊は入るが、二月八日には東海道総督から相楽に呼び出しがあり、相楽は時系列から下諏訪を離れ京都へ行ってから大垣へ行ったと思われる。
相楽が大垣から下諏訪へ帰り着いたのは二月二十三日、その留守中、追分戦争と碓氷峠撤退など幾多の騒動が起こった。
赤報隊は二月二十七日陣を下諏訪から樋橋宿へ移した。
これは、下諏訪に赤報隊を置いて処分すると反抗があれば下諏訪は灰となることから、総督本営はまだ遠くにいたが下諏訪入りを理由に追出したと思われる。
その後、相楽は軍議のお召しにより下諏訪の岩波方へ出頭したところ、数人が折り重なって縄をかけた。
下諏訪明神の並木の下へ連れてゆかれ、木に縛りつけられ、抜身の槍や小銃を持った番兵に取巻かれた。
霰交じりの雨が降ったりやんだりして、風が寒いなか、濡れ放題に捨て置かれ、食事も湯も与えられず、寒さに凍え一夜を明かした。
三月三日の朝はひどい寒さだった。
噂を聞いて近郷近在から早朝に見物人が出て、大変な人出でであった。
声を顫せ、悲愴な混乱が渦を巻いているといった有様であった中でただ一人、相楽総三だけは一言も発しないで、どろどろの土の上にきちんと坐って両眼を閉じ身動き一つせずにいた。
その後、使者が現われ番兵に姓名を呼ばせ、一人ずつ集めて無言で明神の並木から曳かれて刑場へつれていかれた。
集められたのは、大木四郎、金田源一郎、小松三郎、竹貫三郎、渋谷総司、西村謹吾、高山健彦、相楽総三の八名であった。
読み聞かせるのではなく、判決文を相楽等八名に見せた。
相楽を除く七名は恐ろしい形相に変わって非難し、果ては毒づいたが相楽は口が苦くてたまらないように声なく笑った。
断頭の座に坐った第一番が誰で、順も不明だが、最後の八人目は相楽であった。
相楽は自分の死よりも、同志の最後を見届け、見苦しい最期をするものがありはせぬかと、気遣っていたと思われる。
相楽がやがて死の坐に直った。
雨はまだやまない。
相楽は皇居を遥拝し、静かに太刀取を願みて「しっかりやれよ」といった。
太刀取は荒肝を拉がれたように動揺が出た。
再び静かに相楽が「見事にな」といった。
これに災いされたか太刀取は相楽の後ろに廻り、気を鎮めて一声とともに斬ったが、仕損じて右の肩先に斬りこんだ。
咄嗟に相楽が振返り「代れ」と怒気を含んで𠮟りつけた。
これにたじろいてその太刀取は顔が土気色になった。
代って新しい太刀取が背後に来るまでに、相楽の襟のあたりに流れる血が滲み出し悲痛な光景となった。
刑場の内も外も咳一つするものすらいない。
太刀取は神気を養っていたが、やがて、一声とともに刀を振り下ろした。
今度は見事にいって、相楽の首が三尺ばかり飛んで雨が叩く地面へ音を立てて落ち泥を四方に飛ばした。
史跡 魁塚(相楽塚)
薩摩藩の西郷隆盛の指示で武力倒幕のための兵を集め下準備をして、維新政府軍の先駆けとして活躍した人物に相楽総三と同志がいます。
新政府になれば年貢が半減になるという旗印を掲げ、中山道を東へと兵を進めましたが、その途中に新政府軍から偽官軍の汚名を着せられてこの地で処刑されました。
一八六八年(慶応四)三月三日のことでした。
魁塚には相楽総三と七人の赤報隊幹部、道中で命を落とした隊員四人、相楽と親交があった諏訪高島藩士の石城東山(一作)をまつっています。
新政府に裏切られ汚名を着せられ、処刑をされた相楽と同志の最後はいたましいものがあります。
その後、名誉回復がされましたが、その半世紀も前にかつての相楽の同志と地元の人たちは魁塚を建立し、それ以来、毎年命日に慰霊祭を開催してきております。
相楽会設置の説明板より
相楽の孫 木村亀太郎
相楽総三をはじめとする赤報隊一番隊(官軍先鋒嚮導隊)の殉難の志士は、明治新政府樹立の陰の功労者であるにもかかわらず、偽官軍の汚名を着せられたため、その子孫はひけ目を感じ先祖のことを語り継ぐことをためらった。
そのような中、相楽総三の孫である木村亀太郎は、十二歳の時に祖父が偽官軍の汚名を着せられ斬首となったことを知り、祖父の汚名を晴らすことに尽力することを決意した。
大正元年二十歳の頃、はじめて下諏訪を訪れる。
下諏訪では相楽は好人物として見られていること、相楽を偲び毎年四月三日に相楽祭が行われていたことを知り驚き喜んだ。
これを機に赤報隊に関わる資料を集め始めると共に、新政府の要人に話を聞くなどの活動を始める。
資料はあまり残っておらず、当時を知る人物はなかなか真実を話してくれなかった。
数少ない資料を基に、粘り強く拾聚して記述し、下野岩船山附近の戦争、甲府城占領計画の失敗、相州荻野山中の陣屋打ち、芝三田薩摩屋敷戦争、江戸湾の海戦、信州追分戦争、信州下諏訪の赤報隊潰滅と、幕末史ないし明治史の世間に対しての是正の材料を供えた。
木村は御贈位を受けることによって赤報隊の名誉が回復されると考え、大正七年(一九一八)、大正十三年(一九二四)に御贈位の請願を行ったが、採択されることはなかった。
贈位とは生前に功績を挙げた者に対して、没後に位階を贈る制度のことで現在の叙位にあたる。
昭和三年(一九二八)、三度目の請願に取り組んだところ、木村の長年の粘り強い努力が新聞にも取り上げられ、有力な協力者も現れるようになり、新たな請願書を下諏訪町長と共に長野県庁へ 提出した。
昭和三年(一九二八)十一月一日、百六十名の御贈位が発表され、その中に明治維新の功により正五位を贈られた相楽の名前と赤報隊隊士九名の名前があった。
刑死から六十年後ついに偽官軍と言う汚名が晴らされたのであった。
翌、昭和四年(一九二九)靖国神社に合祀された。
木村亀太郎が名誉を回復させた「赤報隊」は昭和六十二年(一九八七)から平成二年(一九九〇)にかけて「赤報隊」を名乗る犯人が起こした赤報隊事件で負のイメージが再び付いてしまった。
「赤報隊」を名乗る犯人が起こしたテロ事件で、警視庁は散弾銃による襲撃事件四件と時限爆弾による未遂事件一件の計五件を広域重要指定116号事件に指定した。
特に朝日新聞阪神支局襲撃事件では執務中だった記者二人が殺傷され、言論弾圧事件として大きな注目を集めた。
「市民社会に深刻な脅威をもたらすテロ」と位置づけ、精力的な捜査が行われたにもかかわらず、平成十五年(二〇〇三)までにすべての事件が公訴時効を迎え事件は未解決のままとなっている。
出典 相楽総三とその同志 長谷川伸 著