養蚕の神様は「こだまさま」~源流は「蚕」にあった~
養蚕の神様は「こだまさま」
各村の辻などに石碑や石塔群が集まっている場所がある。
その中に、「蚕玉神」、「蠶玉神」などと彫られた石碑を見かける。
何と読むのか調べると「こだま」と読み、カイコの神様、養蚕の神様である。
養蚕の神様として各村で祈りを捧げていたが、今は忘れられた石造物である。
養蚕業は、カイコの餌となる桑を育て、カイコを飼育し、カイコが作った繭を収穫する仕事である。
作業は大変重労働で、生き物であるカイコが健康で大きく成長し、良質な繭をつくるために、人々は古くから温湿度などの環境、病気の予防、効率の良い道具の工夫など、様々な知恵と技術を結集してきた。
明治以降、蚕糸業の技術の発展と同じように大きく広がってきたのが神仏に願いを託す信仰の形であった。
蚕玉様は地域の人々が繭の豊作を祈って作った石造物である。
全国にこうした石造物があり、「蚕神」「蚕影神」「養蚕神」など様々な呼び方をしている。
諏訪地域及び長野県中南信は「こだまさま」と呼ばれる石像物が特に多く存在する。
人々の願いのよりどころとなっていた蚕玉様の石造物は、神社の境内や、路傍にたたずみ、朽ちることなく堅牢に昔の記憶を伝えている。
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馬と娘~蚕と桑の蚕種の話~
「馬と娘」の話は、中国に古くから伝わっている話である。(「挿神記」をもとにした作品)
日本に伝わり、蚕の神様「オシラサマ」となったと言われ、オシラサマ信仰は、東北、関東、中部、北陸地方を中心に広がっている。
昔、一人の男が遠い旅に出かけて行った。
家には娘と一頭の牡馬が留守番をしていたが、ある日、娘は帰らぬ父を心配して、馬にこう言った。
「父を探しに行って、もし連れて帰って来てくれたならば、お前の嫁になりましょう。」
馬は喜び勇んで一目散に飛び出して行って、やがて父親を探しあてた。
父親は馬を見て驚き、「これは留守中に何事か起きたに違いない」と、大急ぎで家に帰って来た。
そして馬に、「畜生でありながら感心なことだ」と、まぐさなどを沢山与えたが、馬はいっこうに食べようとしない。
そのうえ、娘が家に出入りすると、床を踏みならし、大声で鳴いたりするので、父親は不思議に思って娘に聞きだしてみた。
「実は・・・」と娘が事の次第を話すと、父親は大層怒って、石弓で馬を殺してしまった。
そして、その皮をはいで庭に干しておいた。
ある日、娘が隣の娘と遊んでいると、突然その皮が起き上がって娘を巻き込み、どこかへ行ってしまった。
驚いた父親が八方手をつくして探したところ、娘も馬の皮もすっかり蚕と化して、大きな木の枝の間で糸を吐き続けていた。
隣の娘がこれを飼ってみると、立派な繭ができ、収穫はいつもの数倍にもなったという。
この時から、この木を桑と名付けたそうである。
諸説あり
蚕玉神は馬鳴菩薩
蚕玉神は蚕の神様で、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)ともいう。
馬鳴菩薩は二世紀頃のインドの仏教詩人で、仏教をひろめることにも努力した実在の人物である。
そして衣服や養蚕、機織の神としてあがめられるようになった。
石像の馬鳴菩薩にはそのそばに桑の枝・繭・糸枠などが彫られていることもある。
諏訪地域では石像の馬鳴菩薩は少なく、蚕玉神と書かれた文字碑が多くある。
くわばらくわばら
「くわばら、くわばら・・・」とおじいさんやおばあさんが唱えることを聞いたことがある。
これはいったいどんな意味があるのであろうか。
昔は蚕のことを「御蚕様(おかいこさま)」とまるで神様のように大切に扱っていた。
縁起の悪いことがあった農民が蚕の世話をすることを嫌う風習があったほどである。
蚕の餌となる桑が植えてある桑畑(桑原)も神聖な場所と考えられていた。
昔々、雷神があやまって農家の井戸に落ちてしまいました。
農夫は今がチャンスとばかりに急いで蓋をして雷神を天に帰らせませんでした。
困ってしまった雷神は、「私は桑の樹が嫌いだから、桑原桑原と唱えるならばもう二度と落ちない」と農夫に答えました。
農夫は蓋をとり、雷神を天に帰しました。
別の話で
死んでから雷となったと伝えられている菅公の領地桑原には、昔から雷が落ちたことがないという伝説がる。
農家の人たちは、縁起の悪いことや落雷(恐ろしいこと)を避けるために「桑原桑原」という呪文を唱えるようになったというはなしである。
諸説あり
校外に広がった桑畑
蚕玉神社
諏訪地方で蚕飼や糸取りが行われたのは、相当古くからであったようであるが、江戸時代中期以降から一般農家の間で養蚕が盛んになった。
安国寺村では各組に、それぞれ「こだまさ」と称する講があって、蚕が当るようにと祈り、秋蚕のあがった時期にもちまわりの家でお祝いをした。
明治四十年に、各組の「こだまさま」をまとめて、この碑を建て九月三十日を例祭としてお祭りした。
安国寺史友会設置の説明板より
岡谷は昔、生糸のまちであった。
ある時期には日本全国の四分の一もの生糸を生産し、国外から「SILKOKAYA」、国内からは「絲都岡谷」と認識されていた。
岡谷のすずめは煙突の煙で真っ黒だったといわれるほどであった。
製糸産業が盛んになることによって、養蚕も盛んになり、諏訪のまちの郊外には桑畑が広がっていた。
農家では「お蚕さま」と称え、畳を上げて蚕室にあて、家族らは蚕棚の間をねぐらにしていたという話があったほどである。
養蚕が進むにつれ、その守護神「蚕玉神」の石碑や祠、蚕玉神社を建立し「蚕玉さま」の講組織を中心に、祈りが捧げられてきた。
高島藩も奨励方針をとり、桑の木を殖やすために苗木を用意するなど、その後の諏訪の蚕糸業に影響を与えた。
明治、大正、昭和、平成、令和と時代が流れて、産業や経済、人々の暮らしも大きく変わった。
祈りを捧げる精神文化の象徴であった石像物、道祖神、水神、お湯泉様、蚕玉様、庚申、二十三夜講など、ほとんどが路傍の片隅に寄せられ、顧みられることも祀られる機会も少なくなった。
かつて養蚕農家にあっては、ひたすら「お蚕さまが当たる」ように神頼みするしかなかった厳しい暮らしがあった。
そこには、製糸業、養蚕業に関わった先人達のたゆまぬ研究と苦労の歴史があった。
出典 諏訪の蚕神 小野川恵美子 著
出典 出典 岡谷歴史散歩 伊藤正和 三沢弥太郎 著
出典 シルク岡谷 製糸の歴史
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