諏訪大社本宮

諏訪大社上社境内内のお手洗場の龍

 

本宮は現在上社の中心で、祭神は建御名方神である。

 

諏訪大社がいつ頃からこの地に鎮座したか不明であるが、建御名方神は「古事記」の国譲りの話に見られるので、少なくとも奈良時代には鎮座していたものと思われる。

 

はじめは、風・水の神として知られ、平安時代以降、軍神として広く崇敬された。

 

特に鎌倉幕府の源氏・北条氏は諏訪明神を深く信仰し配下の武士たちに諏訪信仰をすすめたので、諏訪神社は全国に分社が広がったといわれている。

 

江戸時代には幕府や諏訪高島藩から社領を寄進された。

 

明治の神仏分離によって上社神宮寺はなくなったが、現在も諏訪大社は庶民の信仰を集め、全国から大勢の方が参拝に訪れる。

 

諏訪大社上社本宮を歩く

遊歩道でつなぐ前宮本宮散策マップスクショ

 

茅野市と諏訪市の公民館で作成された「遊歩道でつなぐ前宮・本宮散策マップ」を参考に諏訪大社上社前宮周辺を歩いてみた。

 

茅野市中央公民館-茅野市ホームページより-

 

遊歩道でつなぐ前宮・本宮散策マップ(解説面)[PDFファイル/2.8MB]

 

遊歩道でつなぐ前宮・本宮散策マップ(マップ面)[PDFファイル/2.0MB]

 

前宮により通じる表参道側の本宮駐車場より出発する。

 

明治以降に整備された北参道側の方が広くて賑やかさがあり、北参道側の駐車場は広くて分かりやすいが、前宮より通じ、本宮へ御柱が引き入れられる表参道側から散策していく。

 

御手洗川(みたらしがわ)の蛙狩神事

御手洗川の蛙狩神事の場所

 

お宮に入るために階(きざはし)がかかっている。この御手洗川(みたらしがわ)の階(きざばし)のすぐ上の所で、古来正月一日の朝、蛙狩の神事が行われる。

 

諏訪の七不思議の一つで、元旦に川の氷を割り、砂利を掘り起こすと、不思議なことに冬眠中の蛙が必ず出てくる。

 

諏訪の他の不思議を知りたければ、こちらに書いたので参考にしてほしい。
【諏訪の七不思議】 諏訪の悠久の歴史を知る。

 

上社布橋(かみしゃぬのばし)

諏訪大社上社の布橋2020年の改修前

 

御手洗川を渡り、二の鳥居をくぐると、布橋(ぬのばし)という橋のような廊下を通る。

 

かつて大祝(おおほうり)という上社の最高の祠官が通った折に布が敷かれたことからその名がついたといわれる。

 

七十メートルもの回廊である。

 

参詣者は「入口御門」からこの「布橋」を進むことで、左手に「額堂(絵馬堂)」「遥拝所」「大國主社」「東宝殿」「四脚門」「硯石」「西宝殿」「塀重門」を、右手に「勅使殿」「五間廊」「神楽殿」「天流水舎」「本宮一之御柱」を拝観しながら「拝所」へと至ることができる。

 

「布橋」は、かつて「千度大内」と呼ばれ、千度参りをする道であったことが古資料に残されているというが、現在は神宝と神輿の遷座にあたって、新旧の「東宝殿」「西宝殿」間に白布「布単(ふたん)/毯代(たんだい)」が敷かれるという通路である。

 

四脚門(よつあしもん)

御頭祭出発前の四脚門

 

布橋の終わり近く、東宝殿・西宝殿の間で斎庭(ゆにわ)に通ずる石橋の端に、寛永十三年(一六三六)に徳川家康が寄進したという四脚門がある。

 

現本宮境内の建造物で最古のものである。

 

この門の技法は江戸初期の特徴をよく表現し、落着きのある美しい門ということで国の重要文化財に指定されている。

 

この門は神社の祭日に神輿、神官・行列などの通過を許すだけで、平素は誰も通さないことになっている。

 

かつては、神霊が降臨し意志を伝えるために依りつくもの「依代(よりしろ)」とされた祭神裔の神職「大祝(おおほうり)」だけが、「脇片拝殿」屋根に見える最上段の「硯石(すずりいし)と呼ばれる「磐座(いわくら)」(神が降臨し宿る場所を称える語)へ登るために使った門だったというが、現在は、神社の祭日に神輿、神官・行列などの通過を許すだけで、平素は誰も通さないことになっている。

出典 中洲村史

 

幣拝殿(へいはいでん)

諏訪大社上社一般祈祷の幣拝殿

 

拝所との間に広い庭がある。斎庭(ゆにわ)と言ってみだりに人が入ることの出来ない禁足地となっている神聖な場所である。

 

正面の拝殿は、後方のお扉の前に幣帛(へいはく)をおくから幣拝殿という。

 

この奥に、普通は本殿があるのだが、上社にはない。

 

独自様式「諏訪造り」で、「本殿」を持たない「諏訪大社上社本宮」の社殿配置は、四隅に「御柱」が建ち、「幣拝殿(へいはいでん)」と左右の「片拝殿(かたはいでん)」で構成されている。私事の祈祷をおこなう場所は「勅願殿」で、「幣拝殿」は恒例祭典や重要神事をおこなう場所だという。

 

「諏訪大社上社本宮」は、1582(天正10)年「織田信長」による兵火で、「神輿(みこし/しんよ)」を除きすべての社殿が焼失したとされるが、仮殿から順次再建し、1617(元和3)年に社殿の完成をみたという。

 

硯石(すずりいし)

諏訪大社上社の硯石

 

幣拝殿向かって右側の山の斜面に見える石が硯石(すずりいし)である。

 

石の上がくぼんでいて、水がたたえられているので硯石という。

 

依代となる石を神とする信仰を磐座(いわくら)信仰と言い、諏訪大社上社はこうした信仰形態を踏襲している。

 

諏訪大紀行の中の上社境内の図加工

 

神仏集合の時代になる前は、正面は現在の神楽殿の位置であり、天流水舎を右にして、徳川家康寄進の四脚門を入ると硯石の直前の斎庭に出る。

 

この磐座信仰の軸線に対し、本宮の御柱は右前を一として、左回りに二、三、四と四本が並んでいる。

 

「鎌倉時代の大社の神楽歌に『明神は 石の御座所に おりたまふ みすふきあげの 風のすすみに』とある如く明神の天降り給う場所であり神降しをする古代宗教の最高至極の位置であったと云われている」と、神が降臨する場所であり、神の依代(よりしろ)とされる「磐座(いわくら)」であることが案内される。

 

この磐座は「諏訪の七石」の一つであると言われる。

 

諏訪大社上社本宮には後二つ諏訪の七石がある。

 

御沓石と蛙石であるが探してみるのも面白い。

 

諏訪の七石を知りたければ、こちらに書いたので参考にしてほしい。
【諏訪の七石】 諏訪の悠久の歴史を知る。

 

勅願殿(ちょくがんでん)

諏訪大社上社の勅願殿の窓が開いている

 

「勅願」とは「勅命による祈願」「天皇の祈願」が本来の意味だが、ここ「諏訪大社上社本宮」では、古く「祈祷所」と記された祈祷をおこなう場所である。

 

「幣拝殿」が「諏訪大社」の恒例祭典や重要神事を斎いおこなう場所であるのに対し、「勅願殿」は個人私事の祈祷をおこなう場所だという。

御柱(おんばしら)

諏訪大社上社本宮一の御柱

 

正式には「式年造営御柱大祭」といい、日本三大奇祭のひとつとされる「御柱祭」は、寅と申の年に樅の大木を、「御柱」として伐り出し、氏子が各地区で分担して、「上社本宮」「上社前宮」「下社秋宮」「下社春宮」の四ヶ所へそれぞれ4本ずつ曳航し、社殿の四隅に建てる「諏訪大社」の最大行事である。

 

御柱のことを知りたければ、こちらに書いたので参考にしてほしい。
【御柱とは】 諏訪信仰の古き歴史を知る。

 

本宮一之御柱である長さ五丈五尺(約17メートル)直径1.2メートル(目通り)の樅の木である。

 

御神徳の更新を祈る氏子の魂を結集した御柱である上社綱置場(御柱置場)より二十数キロの行程を数千人の氏子の奉仕により曳行されるので裏側は擦り減っている。

 

茅葺の御宝殿と共に寅歳と申歳の七年目毎に建て替えられる御神木で神域の四隅に建立される。

 

御柱祭は天下の奇祭として有名であり次回の御柱祭は平成三十四壬寅歳に行われる。

 

諏訪大社設置の説明板より

 

高島神社(たかしまじんじゃ)

諏訪大社上社にある高島神社

 

「社務所」の左手前に本宮境内社で末社の「高島神社」がある。

 

御祭神
諏訪頼忠公 大祝中興の祖・諏訪藩祖
諏訪頼水公 大祝・高島藩初代藩主
諏訪忠恒公 高島藩二代目藩主

 

例祭日 九月二十三日
本来の例祭日は九月二十三日であるが最近は八月十二日に神裔の御参列のもと例祭を執行している。

 

諏訪氏は当大社の御祭神諏訪大神の子孫で上社最高の祝職大祝となり更に藩主として政治を行った。この祭政一致の形態は往古より続く諏訪の特徴である。

 

御祭神は江戸時代初期における高島藩中興の藩主三代の御遺徳を尊びお祀りしている。

 

諏訪大社設置の説明板より

 

波除鳥居(なみよけとりい)

諏訪大社上社一の鳥居の波除け鳥居

 

一ノ御柱から四ノ御柱を結ぶ線あたり迄が、かつての神域と思われる。明治以降二回にわたりだいぶ西の社域をのばしており、少し離れて波除鳥居がある。

 

波除けという言葉が、かつて諏訪湖がこの辺りまで伸びていたことを示す。

 

諏訪大社上社本宮の第一鳥居とされている。

 

当社唯一の木造鳥居

 

昭和十五年(一九四〇)紀元二千六百年祭の折建替えられたものを平成二十一年(二〇〇九)全解体修理を行い再建立したものである

 

諏訪大社設置の説明板より

 

明神湯(みょうじんゆ)

北参道入り口にある明神湯は温かい

 

源泉なので温かい。

 

往古より諏訪明神ゆかりの温泉とされ諏訪の源泉とも伝えられている。

 

諏訪大社設置の説明板より

 

雷電為右衛門の像

信州出身の力士の雷電為右衛門の像

 

幕末に信州小県郡大石村が生んだ名力士で茅野市出身の彫刻家、故矢崎虎夫氏の文部大臣受賞作品。

 

モデルは横綱柏戸と佐田山及び富士錦である。

 

勝負に強い御神徳を仰ぎ当大社に奉納された。

 

諏訪大社設置の説明板より

 

五穀の種池

五穀の池は隣、清祓池への神事中

 

清祓池の前にあるのが、石造り八角形の「五穀種池」である。

 

昔はここで御作田神事があったともいわれる。

 

毎年春の御頭祭には近隣の農家の人々が種もみを浸してその浮き沈み依って豊凶を占った池です。

 

諏訪大社設置の説明板より

 

天流水舎(てんりゅうすいしゃ)

2020年布橋改修前の天流水舎

 

「天流水舎(てんりゅうすいしゃ)」は、「宝殿の天滴」で知られ、「諏訪大神」が水の守護神として崇敬される所以となっている。

 

俗にお天水と称されるどんな晴天の日でも雫が三滴は屋根上の穴から降り落ちると云われ諏訪の七不思議の一つに数えられている。

 

旱天の祈りにはこのお水を青竹に頂いて持ち帰り雨乞いの祭りをすると必ず雨が降ると云い伝えられる。

 

諏訪大社設置の説明板より

 

諏訪の他の不思議を知りたければ、こちらに書いたので参考にしてほしい。
【諏訪の七不思議】 諏訪の悠久の歴史を知る。

 

神楽殿(かぐらでん)

諏訪大社上社の神楽殿

 

「四方吹き通し」桁行四間、梁間三間の入母屋造りの建造物。

 

「神楽殿」とは、祈願者の神楽奉納の御殿を言うが、神楽の奏上だけではなく、拝殿の意味をもっているといわれる。

 

収まる大太鼓は、「神楽殿」建立と同時に奉納された江戸時代のもので、胴は樽と同様の合わせ木作り、直径一八〇センチメートルだというが、国内一と言われる牛の一枚皮でつくられていて、大晦日のみ打たれるという。

 

出典 中洲村史

 

文政十年(一八二七)の建立で祈願者の神楽奉納の御殿であり、四方吹通し入母屋造りである。

 

大太鼓は神楽殿建立と同時に奉納され胴は樽と同様に合わせ木作りで神龍が画かれている。

 

皮は一枚皮が使われ一枚皮では(牛と伝う)日本一と云われる

 

この大太鼓は元旦の朝にのみ打たれる。

 

諏訪大社設置の説明板より

 

五間廊 勅使殿(ごけんろう ちょくしでん)

諏訪大社上社の五間廊と勅使殿

 

「廊下様式切妻造り」の「五間廊」は、上社五官の「神長官(じんちょうかん)」「禰宜太夫(ねぎだゆう)」「権祝(ごんのほうり)」「擬祝(ぎのほうり)」「副祝(そいのほうり)」着座による神事について古記録が残る社殿である。

 

その「五間廊」とともに「勅使殿(ちょくしでん)/神門戸屋/帝屋」がる。

 

現在の勅使殿は元禄三年(一六九〇)の創建であり安政年間に大修理を加えてある切妻流れ正面大唐破風造りである。

 

中央の記録では神戸門・帝屋とも書かれており建武二年(一三三五)大祝即位の記録には御門戸屋にて神事があり社殿に布を敷いて其の上に五穀を供えそこに大祝が着座したことがみえている。

 

また、勅使参向の折には弊帛の授受が行われたところである。

 

元旦の蛙狩神事や御頭受神事も行われたところである。

 

当時の勅使殿は今の神楽殿の前あたりにあたり拝殿の性格をもっていた。

 

諏訪大社設置の説明板より

 

神馬舎(しんめしゃ)(駒形屋)

諏訪大社上社の神馬舎

 

古くは「諏訪大社」の祭神で「建御名方神」とその妃「八坂刀売神」の神馬の屋形だったという。

 

古くより諏訪大明神の神馬の於く屋形で明治以降は背に御幣を立てた銅製の神馬と木製の神馬が安置されている。

 

明治二十七年七月の大暴風雨により近くの大欅が倒壊してしまったのに神馬は前方に十メートル程飛んで微塵も被害を受けなかった。

 

時恰も日清戦争の勃発した頃であり人々は諏訪明神が神馬に乗って戦場に向かわれたのであると云って驚き欋れたと伝えられる。

 

諏訪大社設置の説明板より

 

 

諏訪大社上社を出て前宮側へ歩いていく。

 

北斗神社(ほくとじんじゃ)

フェンス設置前の積雪後の北斗神社

 

寿命の神様

 

祭主は祢宣太夫で天御中主命(北極星)を祀る。

 

本殿は文政8年(1825)白鳥弥四郎が手掛けた。

 

木製案内板より

 

麓から伸びる200段の石段を登りきった高みに鎮座している。

 

祀られている神様は『天御中主神(アメノミナカヌシノミコト)』古事記の神話では、タカムスビ、カミムスビ、の神と一緒にこの世界に最初に現れた神様で、北極星を御神体とし、人々の寿命を司る神様といわれている。

 

200段の石段を一段登る毎に一日寿命が伸びるといわれるパワースポットです。

 

石段を登るのはきついですが、登りきった高みから見下ろす里の景色はかなりの緊迫感がある。
石段を一歩一歩踏みしめ200日の長寿を叶えてみるのも一興かと。

 

昔は、この社に藁縄(わらなわ)と灯明を供えて戦地に出征した家族の武運長久を祈願した。

 

200段の石段もその参拝者のため明治の始めから作られ始め、二度の大戦をはさみ完成したのは戦後、昭和二十五年だった。

 

権祝邸

権祝邸の入り口の門

 

上社では、『五官』といって、神長官・祢宜太夫・権祝・擬祝・副祝が、それぞれ世襲で現人神である大祝を奉じて上社の祭祀を行っていた。

 

権祝邸は権祝をつとめていた矢島氏の屋敷跡です。

 

権祝は明神の御子池生神(いけのうのかみ)の末と伝え、古くは高部村神袋の地に居館があったが、天文のころ矢島重綱がこの地に移したという。

出典 中洲村史

 

少し離れるが大祝邸まで行ってみる。歩いていくには少し距離があるので車で行ってもよいと思う。駐車場もある。

 

大祝邸

大祝邸の入り口の門

 

大祝とは、諏訪明神の依り代として諏訪社の頂点に位置した役職で、上社大祝は古代から近世末に至るまで世襲され「諏方氏」を名乗った。

 

中世までは諏訪の領主として政治権力を掌握、江戸時代に藩主諏訪家と大祝諏方家ができ政教がが分離され、明治維新を経て神官世襲制度が廃止されるに伴い大祝職も廃止された。生き神を祀る信仰が存在しつづけた神社は全国でも珍しいのである。

 

元々、大祝の居館は、中世までは前宮の神殿にありましたがここ「宮田渡」の地に移って、「諏方大祝家」を別名「宮田渡大祝家」と呼ぶ所以となった。

 

当時は約3000坪の敷地に約320坪の主屋が建てられ、2棟の土蔵と別荘や女性が出産時などにこもる別棟の「たや部屋」なども備えていたという。

 

昭和初期には敷地とともに主屋も約80坪に縮小され、現在の主屋は多く天保期の古材を転用しての改修で、さらに縮小されて約43坪になっているという。

 

大祝を知りたければ、こちらに書いたので参考にしてほしい。
【現人神】 諏訪信仰の古き歴史を知る。

 

今回はここまでまでの散策で終わりにした。

 

 

コースを変えて御頭御社宮司総社や神長官神長官守矢史料館に向かうのも良いと思う。

 

神長官守矢史料館を知りたければ、こちらに書いたので参考にしてほしい。
【神長官守矢史料館】 諏訪信仰の古き歴史を知る。

 

 

御頭祭は上社本宮から前宮まで歩いていくので、前宮まで雰囲気を感じて歩いていくのも良いと思う。
【諏訪大社前宮を歩く】 諏訪信仰の歴史を感じる散策

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