【岡屋考古館】自分たちの土地から出土した文化財を守ろうとした人たち

岡屋考古館 ~文化財を守ろうとした人たち~

岡屋考古館(おかのやこうこかん)

 

かつて、自分たちの土地から出土した文化財を守ろうとした人たちが岡谷の地にいた。

 

その証として、岡屋考古館が築六十年を超えて今も残っている。

 

岡屋考古館は、昭和三十年(一九五五)に発見された岡屋遺跡の遺物を保存、収蔵するため、昭和三十七年(一九六二)に民間の手で自発的に建設された。

 

一方、昨今は長く閉館状態が続き、地元でも意義や存在を知る人が少なくなる中、令和四年(二〇二二)に六十周年を迎えた機に再び光が当たり始めた。

 

長く閉館状態が続いていた状況から、一般社団法人大昔調査会(諏訪市)の尽力により、令和五年(二〇二三)五月から十月までの第三日曜日の午前中のみ開館することが実現した。

 

もしかしたら現存する「日本最古」、「日本一小さい」、考古館かもしれないと関係者は話す。

 

 

当時、遺跡の調査や考古館の建設は、市民有志で結成した保存会のボランティアと寄付で行われ、現在の維持管理は建物が立地する岡谷十五社の総代会が担っている。

 

岡屋遺跡(おかのやいせき)

 

岡屋遺跡は縄文、弥生、古墳と複数の時代をまたぐ「複合遺跡」である。

 

標高八八〇mの所に位置し、三方山に囲まれた僅かな平地の場所で、祭祀跡とも砦跡ともされるが真相は不明である。

 

「岡屋式土器」の名前が付くほど特徴的な遺物の出土や、山中にもかかわらずガラス玉なども見つかっている。

 

 

昭和三十年(一九五五)に林道が開かれることになり、工事が進み、かなり急斜面の松林を切り開いたところ、多量の土器(主に縄文時代前期末の下鳥式土器)や石器が出土した。

 

その場所が岡谷十五社社有地であったところから、十五社惣代、林功郎氏などの注意するところになり、考古学者、宮坂英弌、林賢氏の実地踏査が行なわれた。

 

その結果、工事によって遺物の多く出た道路切取面に、三カ所の竪穴住居址が露出しているのが確認された。

 

この結果をもとにして本格的な調査が計画され、昭和三十年(一九五五)三月から昭和三十三年(一九五八)十一月にかけて、断続的に八回におよぶ発掘調査が実施された。

 

 

遺跡の東端には湧水があり、蒸し器として使われた甑(こしき)の出土が、弥生時代には稲作があったことを証明している。

 

住居址は縄文時代四棟、弥生時代五棟、古墳時代一棟が発見された。

 

土器も多数発掘されたが、この中の五号住居址から発掘された土器は、櫛状工具を用いた波状文を特色とする「岡屋式土器」と呼ばれ、諏訪地方の弥生時代後期を示す基準となっている。

 

弥生時代の遺跡は低地に存在するのが普通であるが、岡屋遺跡のように谷深い高地に位置することは珍しい。

 

弥生時代は戦いの時代と言われるが、岡屋遺跡から見下ろす対岸に同時期の橋原遺跡があり、同遺跡と岡屋遺跡は協同して「とりで」のような役目を持っていたかもしれない。

 

また、岡屋遺跡からは当時としては貴重なコバルト・ブルーのガラス製小玉が出土しているが、これは、この遺跡が小さいながらも特殊の性格をもったムラであったことを表している。

 

岡屋遺跡(おかのやいせき)

 

岡屋遺跡は、縄文時代前期から中期、弥生時代、古墳時代に及ぶ複合遺跡で、弥生時代後期の岡屋式土器を出土する標識遺跡として有名である。

 

これまでの調査で縄文土器、弥生土器のほか、古墳時代の土師器、鉄片、硝子玉等が出土している。

 

当時の人々は、湖岸の平地を開拓して住んでいたものと思われるが、このような高地に弥生時代のおもかげが残っている点に注目したい。

 

この地は、現在、岡谷十五社の社地で、古くは祭場であったと伝えられている。

 

昭和五十三年十月 岡谷市教育委員会 設置の説明板より

 

岡屋遺跡(おかのやいせき)

 

昭和三十年、背後の山腹に林道がつくられたとき、多量の土器、石器とともに竪穴式住居跡が発見された。

 

これがきっかけとなって、ここが岡谷十五社神社社有地であったことから、岡谷区を中心に岡屋遺跡保存会が結成され、同年三月から三十三年十一月にかけて、八回の発掘が行われ、多くの成果が得られた。

 

発見された住居跡は、縄文時代前期末(今から五〇〇〇年前)から中期までが四棟、弥生時代五棟、古墳時代一棟の十棟であるが、まだ地下に未発見の住居跡があり、原始から古代の長い期間にわたって生活が営まれていたことがわかった。

 

なかでも、住居跡五号から発掘された土器(写真の壺と甕)は、櫛状工具を用いた波状文を特色とする岡屋式土器と呼ばれ、諏訪地方の弥生時代後期という時代を示す基準土器となっている。

 

岡屋遺跡を語るうえで重要なことは、このような山間の高所に、弥生時代の人々が住んでいたことである。

 

遺跡の東裾には豊富な湧水があり、蒸器としての甑(こしき)が一点出土していることは、この岡屋のムラでも沢を利用した水稲耕作が行われたことをうかがわせる。

 

そして、当時としてはたいへん貴重なコバルト・ブルーのガラス製小玉(首飾りのビーズ)が一点出土しているなど、山間の小さなムラということでは説明できない性格をもっている。

 

三方を山に囲まれたこの地は、標高八八〇m、天竜川との比高一五〇mで、弥生時代の近畿、中国地方を中心に分布する山頂などの高所に築営された高地性集落の一例ととらえられている。

 

岡屋の眼下、天竜川対岸には同時代の大集落、橋原遺跡がある。

 

弥生時代が「戦いの時代」と言われるように、高地の岡屋のムラは、低地にある橋原ムラと共同して、大切な農地を守る隠れ家、あるいは砦のような役目をもっていた特殊なムラと考えられている。

 

発見された遺物は市立岡谷美術考古館に展示されている。

 

昭和六十二年十一月 岡谷市教育委員会 設置の説明板より

 

岡屋遺跡保存会

 

遺跡調査の間、昭和三十二年(一九五七)には岡屋遺跡保存会(会長林功郎)が結成され、昭和三十三年(一九五八)五月には住居址D(縄文時代前期末~中期初頭)、また同年十一月には住居址6(弥生時代後期)の住居が復元された。

 

そして、昭和三十三年(一九五八)には第1輯(宮坂英弌氏執筆)、昭和三十五年(一九六〇)には第二輯(伊藤正和氏執筆)として、『岡屋遺跡』と題する報告書が岡屋遺跡保存会の手で公刊された。

 

さらにその後、岡谷十五社境内に岡屋考古館が設立され、岡屋遺跡出土の貴重な遺物が一括して保管されることになった。

 

 

考古学者、戸沢光則氏は「このように全く偶然に岡屋遺跡が発見されて以来、発掘調査、報告書の刊行、遺物の保存にいたるまでの経過は、岡屋遺跡保存会といういわば市民団体という人々の自発的な意志と努力によってなしとげられたという点で、文化財保護のための貴重な一つの事例として記憶されるであろう。」と記している。

 

岡屋遺跡出土の弥生式土器は「岡屋式土器」の名で、考古学界に重要な標準資料として広く知られた。

 

岡屋遺跡の調査と保存に力を尽くした人々への小さいながらも一つの報いとして、考古学史の上に「岡屋」の名を永久に残すことになったのである。

 

出典 岡谷市史 上巻

出典 岡谷区誌

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