古代の茅野の概観~古墳群が語る地域の形成~

古代社会の始まりと茅野
諏訪湖の東南にあたる古代の茅野の場所を考えるとき、まず注目されるのは、諏訪地域の中でも特に多くの古墳が築かれた土地であるという点である。
今から約二千年前を少しさかのぼるころ、畿内や西日本の各地では、農耕生産物の蓄積を基盤として、弥生時代の社会が次第に変化し始めていた。
やがて約千七百年前ごろになると、それまでの共同体的な社会から、古代国家の形成へ向かう階層的、政治的な社会へと移り変わっていく。
古代とは、政治的な社会の形成を大きな画期とする時代である。
考古学の上で一般に「古墳時代」と呼ばれる時代は、古代の前半にあたる。
諏訪地域においても、古墳の築造は地域社会の変化を示す重要な手がかりとなっている。
諏訪地域では、諏訪湖を中心に見ると、湖北地域(岡谷市・下諏訪町)と並び、茅野市周辺には多くの古墳が築かれている。
峰上に築かれた狐塚古墳、独特な石室をもつ疱瘡神塚古墳、華麗な装飾太刀を出土した蛇塚古墳や釜石古墳、さらに馬具をはじめとする豪華な副葬品が知られる大塚古墳など、茅野市周辺には古代の豊かな歴史を物語る古墳が点在している。
古墳文化の波及と茅野
茅野市周辺における古墳の出現は、畿内などに比べると百年以上遅れると考えられている。
しかし、古墳時代の土器である土師器については、最古級の型式に属する資料が下蟹河原遺跡や茅野和田遺跡などで発見されており、古墳文化の波が確実にこの地域へ及んでいたことがわかる。
やがて、農業を生活の中心とする集落が発達し、さらに馬の飼育や牧の存在を背景とした、特色ある古墳群が形成されていった。
古墳の築造は八世紀初めごろまで続いたとみられ、茅野市周辺は、古代諏訪の中心地の一つであったと考えられる。
『長野県史』考古資料編遺跡地名表によれば、諏訪地域の古墳数は、岡谷市三十五、下諏訪町十四、諏訪市四十三、茅野市四十五とされる。
茅野市内では、八ヶ岳山麓、霧ヶ峰山麓、赤石山系に囲まれた現在の中心市街地とその周辺に、古墳が多く築かれ比較的集中している。
古墳群研究と四つの立地
茅野市内の古墳については、早くから研究が行われてきた。
鳥居龍蔵博士は『諏訪史』第一巻において、「永明・宮川・玉川古墳群」といった地域的な区分を示した。
さらに、在野の考古学者、藤森栄一氏は、昭和十四年(一九三九)の論文「考古学上よりしたる古墳墓立地の観方―信濃諏訪地方古墳の地域的研究―」において、市内の古墳群を、永明寺山山腹、上川河床、長峰台地、守屋山麓の四つの立地に分けて考察した。
藤森栄一氏の方法は、一つの地域に分布する古墳群を立地の特徴に即して区分し、古墳の形態や副葬品の内容を総合的に分析するものであった。
これにより、古墳群が築かれた背景や、地域社会の歴史を明らかにしようとした点に特色がある。
その後、宮坂光昭氏は諏訪地域の古墳時代を四期に区分し、藤森氏の年代観にも修正を加えた。
宮坂氏は、葬制の変化の中に、在地首長から新来勢力への権力の移り変わりを読み取ろうとした。
また、諏訪湖西南部の古墳群を政治的、祭祀的に優越した地域とみなし、湖北地域の古墳にみられる新しい文化要素を、馬匹文化や金刺氏との関係から考察している。
このように、諏訪地域の古墳研究では、地理的な分布や年代だけでなく、中近世の諏訪社周辺に伝えられた説話や伝承との関係も意識されてきた。
考古資料と伝承を慎重に照らし合わせることで、古代諏訪の地域像をより豊かに読み解く試みが続けられている。
上川河床古墳群の成立と諏訪の豪族たち
諏訪地方では、古墳文化の流入は比較的遅かったと考えられている。
しかし、五世紀頃になると諏訪湖周辺でも古墳が築かれ始め、六世紀には急速に古墳群が形成されていった。
その背景には、鉄器文化の普及、馬の導入、東国交通路の発達、そして地域豪族の成長があったとみられる。
特に諏訪地方は、上野・甲斐・東海・北陸方面を結ぶ交通の中継地に位置していた。
そのため、中央政権との結びつきを強めながらも、地域独自の勢力を形成していったと考えられる。
茅野市域の古墳からは、轡(くつわ)、杏葉(ぎょうよう)、雲珠(うず)、鐙(あぶみ)、辻金具など、多くの馬具が出土している。
これらは単なる実用品ではなく、騎馬武人としての権威を示す象徴でもあった。
長野県は古くから馬の産地として知られ、諏訪地域でも五世紀頃から馬の飼育が始まった可能性がある。六世紀以降になると、馬を背景とした武人的豪族が力を持ち、古墳文化の発展に大きく関わったと考えられている。
また、諏訪から佐久方面へ抜ける「古東山道」の存在も重要である。この道を通じて、東国文化や中央文化が諏訪へ流入し、同時に諏訪の勢力も外部地域と結びついていった。
こうした時代の流れの中で形成されたのが、「上川河床古墳群」である。
上川河床古墳群は、現在の茅野市本町・塚原周辺の上川沿いに築かれた古墳群で、大塚古墳、姥塚古墳、玉経塚古墳、一ノ坪古墳、犬射原古墳などが知られている。
この地域は、上川によって形成された微高地上にあり、周囲には湿地帯や湧水地が広がっていた。
古代の人々にとって、水利に優れ、交通にも便利な重要な場所であったと考えられる。
さらに、沖積地を見下ろす立地は、地域を支配した豪族の権威を示す場所としてもふさわしかった。
上川河床古墳群は、諏訪地方における古墳文化の広がりと、馬を基盤とした地域豪族の成長を物語る重要な遺跡群である。
姥塚古墳

姥塚古墳は、かつて茅野駅前広場付近に存在した古墳で、古くは「ばんばあ塚」と呼ばれ、のちに「姥塚」の字が用いられるようになったという。
明治三十八年(一九〇五)、中央東線の開通に伴う茅野停車場の開設により、古墳は取り崩された。
記録によれば、姥塚古墳は水田の中に築かれた円墳で、上川河床段丘の西縁、湖盆沖積地を見下ろす位置に単独で立地していた。石室は、羨道と玄室の区別が明瞭でない形式で、左右に副室をもつ構造であったとされる。
出土品には、直刀、鉄鏃、挂甲小札、馬具、金銀環、玉類、青銅銙、和鏡、須恵器、土師器などがある。
築造年代は、七世紀末から八世紀初めごろの終末期古墳と考えられる。墳丘上には石祠が祀られていたことから、被葬者への尊崇が後世まで続き、神格化されていった様子もうかがえる。
姥塚古墳
この古墳は、茅野駅前広場のあたりに古くからあり、明治三十八年(一九〇五)十一月、中央東線の開通により、茅野停車場の開設にともなって取り崩された。
記録によれば、水田の中にあった円墳で、築造年代はおよそ八世紀末と推測され、墳丘上には石祀があり、台座石には花崗岩の天井石三枚が用いられていた。
石室は、羨道が南に開口していて、羨道と玄室の区別のつかない形式で、玄室の左右に副室があった。
出土品は、直刀、鉄鏃、桂甲小札、金銀環、玉類、細かい紋様つきの和鏡、須恵器、土師器、青銅銙などであった。
昭和四十一年十一月、駅庭の大整理に際して、散存する積み石を集め、この地に姥塚古墳の石標を建立した。
今回、茅野駅周辺再開発事業の一環として、姥塚古墳の一部地籍を残し、この地の古代文化を偲ぶよすがたとした。
茅野市教育委員会設置の説明板より
大塚古墳

大塚古墳は、姥塚古墳と同じく上川河床の沖積段丘上に立地していた。『諏訪史』第一巻に採録された古記録によれば、明治二十四年(一八九一)、道普請用の石材を採取するため、塚原区によって発掘されたという。
墳丘は大きな河原石を積み上げたもので、周囲約三十三メートル、高さ約三メートルと記録されている。土を用いず、石を主体として築かれていたことから、積石塚の性格をもつ古墳とみられる。天井石には三枚の平石が使われていた。
出土品としては、玉類などの装身具、直刀、刀装具、馬具、銅椀などが知られる。とくに切子玉を主体とする玉類、実用的に整った馬具、仏教的色彩をもつ銅椀などから、大塚古墳は姥塚古墳と同じく、古墳時代終末期、すなわち八世紀初頭前後の築造と推定されている。
大塚古墳に関しては、『信濃国諏訪郡大塚之碑』に、建御名方命の末裔とされる「五百足父子」の墓ではないかとする伝承が記されている。こうした伝承は、考古学的事実そのものとは区別して扱う必要があるが、地域の人々が古墳をどのように理解し、語り継いできたかを知る上で貴重である。
釈分
陸軍少将大勲位能久親王篆額
信濃国諏訪郡永明村塚原里有三大旧塚在南者曰大塚在西北曰姥塚在東者曰王経塚三塚皆以大石築之而大塚最大戓謂建御名方命之子出速雄命十八世孫建隈照命有子曰五百足其妻曰兄弟部祷神得子因名神子又曰熊子敬神尚武偉蹟甚多三大塚蓋五百足父子之古墳也明治二十四年里人平之下有一大石槨中蔵刀剣鑣鐙鏃鍔金環勾玉等数十種好古者目以為千五六百年以上旧物年代亦合焉里人欲勒石以伝之使余録其事余亦信濃人也義不可辞掛以銘曰
八島之山 鵞湖之水 英霊不滅 永護福祉
明治二十五年五月
大蔵次官従四位勲三等渡辺国武撰
貴族院議員従四位勲三等金井之恭書
王経塚古墳

王経塚古墳は、姥塚古墳、大塚古墳とともに上川沿いに築かれた古墳である。周囲の水田耕作により墳丘は一部削られていたが、発掘調査によって、盛土を保護する外護列石が三帯確認され、円墳であることが明らかとなった。
石室は片袖式の横穴式石室で、奥壁と天井石には永明寺山の花崗閃緑岩、側壁には上川の河原石が用いられていた。副葬品には、玉類、刀子、刀装具、馬具、鉄釘、鉄鏃、須恵器、土師器などがある。
石室の形態や副葬品の内容から、王経塚古墳は七世紀後半に築造されたと推定されている。また、石室内から平安時代の土師器も見つかっており、後世に追葬または祭祀的な行為が行われた可能性がある。発掘調査後、王経塚古墳は原位置に復元保存され、昭和五十二年(一九七七)には茅野市指定史跡となった。
大経塚
上川沖積地平坦部に構築された古墳のうち現在に残る唯一の古墳で、未発掘と伝えられていた。
近年墳丘の崩壊が進み、また都市計画道路開設などから学術調査のうえ復元保存することになり、昭和四十九年四月~七月にかけて発掘調査、復元事業を実施した。
石室は半ば崩壊し、副葬品も大部分が盗掘されていた。
古墳は、墳丘の高さ約三メートル、直径十二・三メートル、片袖式の石室で、玄室の長さ三・七七メートル、幅一・六~一・七メートル、羨道部の長さ二・五メートル、幅一・三五メートルであり、高さは一・〇八~二・〇メートルと推定される。
奥壁と天井石は永明地山の花崗閃緑岩を、側壁は上川の河原石を用いて構築し、この周辺を河原石や小石で裏詰めして土盛りをしている。
副葬品は金環、玉類、刀子、刀装具、馬具、鉄鏃、土師器(高台付坏)、須恵器破片である。
石室形態および副葬品から、七世紀後半に築造されたものと推定される。
また、石室内から時代の異なる平安時代の土師器が発見されたことから、追葬が行われたものと推定される。
茅野市教育委員会設置の説明板より
犬射原古墳

犬射原古墳は、塚原区の犬射原神社境内にあったと伝えられる古墳である。
この周辺にはかつて多くの古墳があり、「つかっぱら」と呼ばれていたとされる。
しかし、農地開発などによって多くの古墳は失われていった。
その中で犬射原古墳は、神社として尊崇されたために残ったものと考えられる。
現在、出土品や墳丘、石材などの詳細は不明であるが、神社の石祠がある位置が古墳の所在地であった可能性が指摘されている。
失われた古墳の存在は、上川河床一帯にかつて多くの墓域が広がっていたことを示している。
犬射原社
犬射原社は諏訪大社上社の末社で、祭神は大己貴命、建御名方命、事代主命、祀られた年暦は明らかでない。
桓武天皇の延暦年間の末(八〇〇年)頃に、諏訪神社式年造営の行われた時、この社も末社の故を故をもって御造営されたと伝えられることからもその古さがうかがわれる。
また古代から、信濃国各郷村の課役をもって、毎年四月十五日に流鏑馬神事が、また同月二十七日の矢ヶ崎祭(どぶろく祭)には犬追物の規式が行われたといわれる。
特に犬追物の規式は我国の創始で、神事次第等旧記に三十二匹の犬と四十八本の矢を各村に割当てた記録が残っている。
この一帯は犬射原と呼ばれ、天文十一年七月諏訪頼朝は甲州武田勢を迎え討つため、犬射原楡の木に陣したが戦利あらず、退いて上原城を焼き、ついに桑原城で敗れて囚われた。
当初の境内は十丁四面の原野であったが天正の乱(一五八二年)以後次第にすたれ、今日はこの一画を残すのみとなった。
茅野市教育委員会設置の説明板より
下蟹河原遺跡と古代茅野の中心地

茅野市八ケ岳総合博物館 令和七年度特別展示 下蟹河原遺跡の矢島数由作成の見取り図
下蟹河原遺跡は、大塚古墳や姥塚古墳などが立地する上川沖積台地の西端崖下にある。
崖の下は湧水の多い低湿地で、周辺には達屋酢蔵神社や御社宮司社などの古社も存在する。
この一帯には、弥生時代から平安時代に至る遺跡が分布していた。
昭和六年(一九三一)、五味重吉氏宅地内の菜園で土器が発見され、藤森栄一氏の論文「信濃下蟹河原における土師器の一様式」によって学界に紹介された。
出土した薄手の台付甕は、口縁が小さく二段に折れ曲がるS字状を呈し、古式土師器の一括資料として重要な意味をもつ。
戦後には、埼玉県五領遺跡出土土器やS字状口縁土器との比較から、これらの土器が古墳時代初頭に位置づけられることが確認された。
また、東海地方、とりわけ愛知県方面との関わりの深さも指摘されている。
この地域は地盤から諏訪湖が今より大きかっただろう時の端にあたり、下蟹河原遺跡は、古代茅野が外部地域と結びつきながら発展したことを示す重要な遺跡である。
古墳と伝承が語るもの

古代茅野の前半期にあたる古墳時代の遺跡は、八ヶ岳山麓の高燥な台地から離れ、諏訪盆地の沖積低地やその縁辺部に多く立地している。
守屋山麓古墳群、永明寺山麓古墳群、上川沖積地の古墳群、長峰台地末端部の古墳群は、古代の集落や墓域、交通路、祭祀空間を考える上で欠かせない存在である。
また、この地域には御母神の諏訪入りや蟹河原長者などの民話や伝説も伝えられている。
これらをそのまま歴史事実とみなすことはできないが、古墳や湧水地、古社のある土地を、地域の人々が特別な場所として記憶し続けてきたことを物語っている。
発掘調査はまだ遺跡全体に及んでいるわけではない。
しかし、弥生時代を含み、古墳時代から奈良・平安時代、さらにその後の時代へと続く大きな集落遺跡が、この上川流域に存在していた可能性は高い。
上川河床古墳群と周辺の遺跡は、古代茅野の中心地を考える上で、今なお重要な手がかりを与えてくれる。
出典 茅野市史 上巻
出典 茅野市八ケ岳総合博物館 令和七年度特別展示 古墳の茅野-地域のなかの古墳-
