豊臣秀吉と善光寺如来~戦国大名による善光寺如来の争奪~

善光寺の歴史
善光寺の始まりは信濃国国司の本田善光がご本尊である「一光三尊阿弥陀如来」(善光寺如来)を皇極元年(六四二)、現在の地である長野県長野市にお連れしたことが始まりと伝えられる。
本尊の善光寺如来は日本最古の仏像とされ、絶対秘仏である。
近年は七年に一度、前立本尊による御開帳が行われ、本堂前には触ると御利益が得られるとされる回向柱が建てられる。
この善光寺如来は由緒ある仏像として権威の象徴と見なされ、戦国時代には大名がこぞって自領に善光寺如来を遷座させ、各地を転々とした。
ちなみに、善光が善光寺如来を最初に祀った地が飯田市にある元善光寺の起源で、諏訪市湖南の善光寺は飯田から長野へ移る途中にとどまった地と伝えられている。
善光寺信仰の盛んな中京~尾張生まれの秀吉も幼少期から馴染みが~
名古屋を中心とする中京地域は、全国の中でも善光寺信仰が盛んな地域として知られる。
善光寺講を組織して善光寺に参詣する者も多く、善光寺如来の分身を安置するいわゆる「新善光寺」も愛知県下だけで三十近くを数える。
これは全国一の数である。
これらの中には明治以後の新しい寺も含まれているが、古い由緒を持つ寺も少なくない。
この地域は都と信州の中間にあり、善光寺如来は畿内よりこの地区を経て信州にもたらされたと伝えられていることもあり、古くから善光寺信仰が盛んだったのである。
尾張国中村(現在名古屋市の内)に生まれた秀吉が、幼少期から善光寺信仰に馴染んでいたことは想像に難くない。
善光寺如来の流転~戦国の覇者とともに繰り返された引越し~
戦国時代、善光寺は武田信玄と上杉謙信が争った合戦の地であった。
当時、善光寺を支配していた栗田氏は武田方についたため、善光寺如来は信州から甲府に移された。
現在の甲府善光寺である。
御本尊ばかりでなく、他の諸仏や僧侶たちをも含んだ一山をあげての移転であった。
信玄の死後、勝頼の代に武田氏が滅亡すると、甲州へ侵入した織田信長の長子信忠は、善光寺如来を本拠岐阜へお移しする。
現在の岐阜善光寺はこの跡である。
ところが、いくばくもなく本能寺の変によって信長、信忠父子は殺され、善光寺如来は信長の次子信雄によって青洲の甚目寺(現在愛知県海部郡甚目寺町)に安置された。
その後、武田氏の亡き後の甲州を手中に収めた徳川家康は、再び甲府に善光寺如来をお迎えしたのであった。
この間、豊臣秀吉は着々と天下人への道を歩んでいた。
善光寺如来の上洛~三晩つづけて秀吉の夢枕にたった~
天正十七年(一五九八)、秀吉は京都に方広寺を建立し、六丈三尺の木像大仏を安置した。
武士と農民を分離し、土一揆を予防するために実施された刀狩は、この寺の釘鎹に供するためというのが名目であった。
ところが慶長元年(一五九六)に大地震があり、寺の建物には被害がなかったにもかかわらず、大仏だけがもろくも崩れ落ちてしまった。
この事件は当時の人々に天下を制圧しながら、もろくも本能寺の変に散った織田信長を思い起こさせた。
そしてまたこの大仏の崩壊は、豊臣秀吉自身の行く末を暗示するものであった。
秀吉は、大きいばかりで力のない仏像よりも、小さくても霊験あらたかな仏像をと考えて、善光寺如来に目をつけ、甲州からお迎えすることにした。
この時、三晩連続して善光寺如来が秀吉の夢枕に立たれ、上洛して方広寺に入りたい旨を告げられたという。
この時舞台裏で活動したのは大本願智慶上人であった。
上人は甚目寺の出身で、秀吉側近の福島正則らとも親しかったからである。
善光寺如来の上洛は、華やかなものであった。
甲府から京都に至る諸大名を総動員し、人足五百人、伝馬二百三十六匹が用意された。
京都からは天台宗百五十人、真言宗百五十人の僧侶らが大津まで出迎えて、供奉(くぶ)した。
慶長二年七月十八日、善光寺如来は京都に入られた。
善光寺如来の帰国と秀吉の死~北政所の強いすすめ~
このころから秀吉はしだいに健康が衰えていった。
翌慶長三年六月にはついに腰が立たなくなり、寝たきりのままであった。
世の人々は秀吉の病気を、善光寺如来のたたりだと噂し合った。
思えば、善光寺如来を甲府へお移しした武田氏も岐阜へお迎えした織田氏もまもなく滅びた。
次は太閤の番だと考えるのは当然であった。
家族らの心配はひとしおではなかった。
北政所は善光寺如来を信州へお返しするように強く勧めた。
八月十七日、善光寺如来は突然信州へ送り返された。
この前々日の夜秀吉に如来のお告げがあったのだという。
寺僧ら十五人がお供をした。
急だったこともあり、上洛の時とは違って簡略な行列であった。
翌十八日、豊臣秀吉は六十三歳の生涯を終えた。
善光寺如来を都へお迎えしてから、わずかに一年後であった。
これほどまでに善光寺が全国に存在する理由とは
全国に「善光寺」という名の寺院が存在するのは、善光寺信仰を如実に表わすものである。
これほどまでに善光寺と呼ばれるお寺が多いのかと言うと、鎌倉時代に善光寺聖が全国に善光寺信仰を広めたからである。
平安時代には善光寺の御本尊が日本最古の仏像であるという事が京の都でも知られていたと言われ、その後、十世紀後半では京の帰属を中心に浄土真宗の信仰の隆盛に伴い、善光寺聖(善光寺の信仰を広める僧)がご本尊のご分身仏を背負い、演技を唱導して全国各地を遍歴しながら民衆に善光寺信仰を広めたと言われている。
善光寺聖の「聖」とは、正規の寺院を離れて、諸国を遊歴する僧侶のことを言う。
善光寺聖と言われる半僧半俗の遊行僧が、信州から遠く離れた地域にまで善光寺如来の分身を背負って出かけ、信仰を広げて回った結果なのである。
この善光寺聖は鎌倉時代に最も大きく活躍し、江戸時代になると、信州善光寺から前立本尊が出張する出開帳に変わることになる。
念仏を唱えて一心に祈るものは性別・身分問わず極楽往生に導いてくれるという救済を説き、特定の宗派には属さないという「無宗派」の寺院として知られた。
江戸時代には「遠くとも一度は参れ善光寺」という言葉が伝えられる程、庶民から厚く信仰を受けてきのである。
出典 季刊信濃路No.77
