神戸神社の奉納魚雷~諏訪地域周辺に残る戦利兵器奉納を探す~

神戸(ごうど)神社の奉納魚雷
諏訪市四賀にある神戸神社の境内には、長さ約四・六メートルの魚雷が置かれている。
神社の境内に魚雷が鎮座するという、全国的にも珍しい光景である。
これは大正時代に、忠魂碑用として海軍から払い下げられたものと伝えられている。
諏訪圏域には神戸と名のつく地名が二つある。
一つは「富士見町富士見御射山神戸」、もう一つは「諏訪市四賀神戸」である。
「神戸」という地名は全国各地に存在し、その多くは古代から中世にかけて神社の経済的基盤を支えた神社附属の部民を指す名称である。
これらは「民戸」に由来し、神社の造営や祭祀に必要な費用を納め、神社の維持管理に奉仕していた。
読み方も地域によって異なり、「かんべ」の他に「ごうど」「じんご」など様々である。
四賀の名は、明治七年(一八七四)筑摩県から布告を受け、上桑原、神戸、飯島、赤沼の四か村が会議を開き、四か村合併により「四賀村」とすることで合意し、発足したことに由来する。
神戸(ごうど)神社の成立

神戸神社は、北神戸と中神戸の産土神である「若宮八幡社」と、南神戸の産土神である「八杵(やきね)神社」が、明治四十年(一九〇七)に合祀されて成立した神社である。
両神社はいずれも約三百年前に造営されていて、くじ引きによって北神戸、中神戸の若宮八幡社の場所に合祀造営された。
南組の八杵神社のあった場所には石の祠が設けられ、現在は神戸神社奥ノ宮として祀られている。
境内に置かれた魚雷の由来

神戸神社に魚雷が鎮座している理由については、神戸神社総代の調査で、その背景が明らかになってきた。
大正十三年(一九二四)六月、海軍省から横須賀鎮守府宛に、軍需部保管の廃兵器を下付(官から民へ移す)するよう訓令が出されている。
それによると、諏訪郡四賀村神戸神社建設忠魂碑用として、魚雷のほか砲弾十五個が下付けされたことが確認されている。
図面も残されており、忠魂碑の平面図では、基壇(きだん)の柵として砲弾十五個が使用される計画であったことが分かる。
しかし、忠魂碑が実際に建立された痕跡はなく、砲弾も二個のみが飾られていたようである。
現在、その砲弾は失われ、コンクリートで穴を埋められた台石が二基残るのみとなっている。
諏訪大社本宮や手長神社など、諏訪地域の他の神社にも砲弾が奉納されている例はあるが、なぜ神戸神社に魚雷が下付されたのかは不明である。
なお、令和八年現在、諏訪大社本宮は改修工事中で奉納砲弾の場所は移され見ることはできない。
子ども時代、魚雷の上にのって遊んだと思い出を語る高齢者の話も聞かれるが、なぜそこに置かれたのか設置の経緯については分かっていない。
神社などに現存する奉納魚雷は、全国でも十基ほどしかないという話である。
出典 ぶらり諏訪塾 甲州街道編
戦利兵器奉納と忠魂碑
日清戦役および日露戦役は、発展途上国だった日本が、国の存亡をかけて戦った戦争であった。
国民は一丸となり国難に立ち向かったのである。
日清戦で手に入れたた戦利品は、講和後に組織された「陸軍戦利品整理委員会」によって区分され、必要のないものは参考品、記念品として各方面に献納または払い下げられた。
民間への下附品目では砲弾が最も多く、おおむね戦利品か、忠魂碑などの建設の際、陸海軍から廃兵器として下付され、それを府県知事が管内の各施設、神社、仏閣、学校、役場、博物館といったところに分与するという段取りで行われた。
日本全国に「忠魂碑」「忠霊碑」「表忠碑」「招魂碑」などの名前で多くの碑が建っている。
古くは明治初年から存在したとされるが、日露戦役以降に建立されたものが多い。
戦没者の顕彰、慰霊を目的としたものが主であるが、従軍記念や戦勝記念の意味合いを持つ碑も存在する。
忠魂碑の傍らに砲や砲弾、機雷や魚雷などが記念品として備え付けられている場合や、砲身や機雷、魚雷が忠魂碑そのものになった。
そして、敗戦。
占領軍は「連合国に対する日本の脅威を除去する」ことを目的に、徹底した非軍事化政策を進めた。
その一環として出された神道指令により、忠魂碑の建立は禁止され、多くの既存碑も撤去されることとなった。
敗戦と占領下という厳しい状況の中で、これらの碑や奉納兵器を残すことは、非常に困難なことであった。
諏訪地域周辺に残る戦利兵器奉納
手長神社

境内に砲弾が置かれている。
砲弾 径:約31.6、長:約960cm
加式三十二糎砲 鋼鉄弾
由来詳細不明。
小野神社・矢彦神社
小野神社と矢彦神社は同じ境内に並んでいるように見えるが、小野神社は塩尻市、矢彦神社は上伊那郡辰野町になる。
小野神社

境内に砲弾が置かれている。
砲弾 右 径:約21cm 長:約47cm
左 径:約32cm 長:約95cm
右は鉛套弾は陸軍から。
日露戦役記念、大正九年九月。
左は導環に錨のマークの刻印があるので海軍かららしいが詳細不明。
矢彦神社

砲弾の載っていた台石が残っている。
「戦利兵器奉納ノ記」の刻まれた金属板。
「砲弾台石建設寄附者氏名」の銘板。
三十七八年戦役従軍者(戦歿者も含む)の名が刻まれている。
大正四乙卯年五月帝国在郷軍人会小野村分会建之、とある。
羽場手長神社

戦利3吋速射野砲の砲身
手長神社(羽場城跡)の砲身を利用した忠魂碑。
忠魂碑建立の主唱者として、「伊那富村在郷軍人分会羽場班」と「共和社」の名が台座に彫られている。
共和社というのは明治時代からある、農家の後継ぎ青年の組織。
防衛研究所にこの砲身についての記録が残っている。「戦利廃兵器下付の件」(大日記乙輯昭和9年)
左記
一、克式七糎半野砲砲身 一
一、安式十二吋加農榴弾弾丸 四
副官ヨリ陸軍兵器本廠長ヘ通牒
忠魂碑建設用トシテ左記ノ通 長野県上伊那郡伊那富村在郷軍人分会長ヘ無償下付方許可セラレシニ付交付方取計ハレ度 依命通牒ス 昭和9年2月6日
戦利3吋速射野砲
書類上は「克式七糎半野砲」となっているが、実物はロシアの「3吋速射野砲」
羽場城の由来
内堀・中堀・外堀の址が今も残っている羽場城址は今からおよそ四百五十年前、天文のはじめに下伊那松尾の城主小笠原貞宗の四男、小笠原重次郎がこれを北の沢を濠として建てたといわれている。
その後、武田勢が伊那谷へ攻めて来た時は、小笠原長時は、旗本草間備前守時信をもちいてよく城を守りぬいた。
その後、弘治年間、武田氏再度の侵入があった時、政氏は遂に屈伏してしまった。
そして、武田氏は、制圧したあと、柴河内守に、この城を守らせたが、天正十年二月、織田氏のために落城した。
織田氏は、文禄年間、京極修理大夫高知(きょうごくしゅうりだいゆうたかとも)が飯田に在城していた時、羽場城には、城代をおいて近郷をおさめさせていたが、間もなく廃絶となった。
在城は約五十年となる。
明治四十三年、秋葉神社を合併した手長神社を新設して今に至っている。
明治五十九年四月 羽場高砂会
羽場城館跡
羽場城館跡は、天竜川の流れに浸食された羽場淵の崖上に築かれ、これを北側の要害とし、残る三方面の備えは二重にめぐらせた土塁と空堀とする、いわゆる平山城で、戦国末期の洗練された姿を今に伝えている。
現在に残る遺構は図のようであり、主郭の土塁と空堀は、土塁頂部から堀底まで六メートル以上、堀幅二〇メートル以上におよび、当時の大規模な土工事を偲ぶことができる。
また、主郭の東西に郭が設けられ、東の郭には櫓台と思われる約一〇メートル四方の土壇が残されている。
西の郭は、大正期に伊那電気鉄道(現飯田線)軌道開削で大きく削られている。
主郭と東西の郭を囲む外土塁はかなり削平が進んでいるが、堂山と呼ばれる無量寿庵跡地付近には二か所の小山が残されていて、築造当時の外土塁の規模を知ることができる。
地元では土塁南側の小路を堀道と伝え、外土塁の外周をめぐっていた大規模な堀の存在も推測されている。
『長野県町村史』は「天文年中小笠原十二郎居住すと云跡あり」として、戦国期に小笠原氏ゆかりの氏族の居住を伝え、また、『小平物語』は、近世初頭に上伊那十三騎の一騎として活躍した柴氏の居住を記している。
しかし、この城館の築造は未完におわったとも伝えられ、柴氏の居住も近世初頭の一時期で、居館の構えも主郭部のみであったと考えられている。
寛永十三年(一六三六)、高頭城主の保科正之が出羽山形に移封すると、これに従って柴氏も移住し、この城館は役割を終えた。
平成十一年三月一日 辰野町教育委員会
出典 諏訪四賀村誌
