上社大祝の祖「有員親王」~桑原郷普門寺と諏訪神氏の伝承~
桑原郷普門寺に残る有員伝承の地
諏訪市四賀普門寺地区の山裾には、御曽儀神社(おみせんさま)と呼ばれる小さな社がある。
この神社は、諏訪大社上社の大祝の祖と伝えられる有員親王を祀る社として、古くから地域の人々に敬われてきた。
御曽儀神社の南には、かつて普門寺があったとされる地があり、さらにその付近には御社宮司平(みしゃぐじだいら)と呼ばれる場所がある。
この一帯は古くから神聖な場所として知られ、諏訪大社上社の末社である荻宮(おぎのみや)も祀られている。
御社宮司平は、普門寺集落のほぼ中央に位置する平地で、ここに有員親王の居館跡であったと伝えられている。
御社宮司平から北東へ三百メートルほど山裾を登ると、有員親王を祀る御曽儀神社が鎮座している。
この地域には御曽儀神社、荻宮、普門寺跡などの伝承地が集中しており、古くから諏訪信仰と深い関わりを持つ土地として知られている。
上社大祝の祖とされる有員親王
この地に関わる人物として伝えられているのが、有員(ありかず)である。
有員は諏訪大社上社の最高神官である大祝(おおほうり)の祖とされる人物であり、伝承では桓武天皇の皇子、有員親王であるとされている。
諏訪の伝承によれば、諏訪明神が有員に神衣を脱いで着せ、「我ニ躰ナシ、祝ヲ以テ躰トス」
と宣い、有員を御衣着祝(みそぎのほうり)としたという。
これは、神が自らの身体を持たず、祝をその身体とするという意味であり、有員は神威を体現する現人神として諏訪大社の祭祀を司る存在となったと伝えられている。
この出来事が、諏訪大社上社の大祝の始まりであるとされている。
坂上田村麻呂と有員の伝承
有員の事績については『諏訪社御由来記』にも記されている。
それによれば、延暦元年(七八二)、桓武天皇の第六皇子である有員親王が諏訪に下向し、桑原郷の普門寺に入ったという。
その後、弘仁三年(八一二)に征夷大将軍坂上田村麻呂が桑原郷に宮館を造営し、有員を普門寺から御曽貴宮へ移したと伝えられている。
地元の伝承でも、坂上田村麻呂が「桓武天皇の皇子有員親王の居館を建て、お移しした」
と語り継がれている。
このように、有員伝承には坂上田村麻呂の東北征討と結びつく要素が見られる。
有員と仏教信仰
有員は上社大祝として祭祀を司るとともに、仏教とも関係が深かったと考えられている。
普門寺に居したと伝えられることからも、当時の神仏習合の宗教状況のなかで、仏教信仰を取り入れた祭祀が行われていた可能性がある。
『神氏系図』には「明神は普賢、有員は文殊」と記されており、諏訪明神と仏教の菩薩を対応させる思想が見られる。
また御曽儀神社の北方山腹にある親塚からは、諏訪地方では例の少ない経塚が発見されている。
埋納品には水晶珠子、松鶴鏡、須恵器壺、刀子などがあり、平安時代の経塚と考えられている。
経塚は有員の時代より後のものではあるが、この地域が宗教的中心地であったことを示す遺跡である。
御曽儀神社と大祝の祭礼
御曽儀神社では、かつて諏訪上社の大祭である御頭祭(酉の祭り)の翌日、大祝家が祭主となって例祭が行われていた。
この祭礼では、大祝が宮田渡から行列を整えて出発し、籬太夫(まがきのたゆう)の邸で装束を改めた後、案内によって御曽儀神社へ参拝したと伝えられている。
また、大祝が職位、すなわち即位する際には、必ず御曽儀神社に参拝し、その就任を報告する習わしがあったという。
この祭礼は明治以降も大祝家の参列によって行われてきたが、昭和五十三年(一九七八)からは上社神官によって執行されるようになった。
有員伝承の成立と諏訪氏の出自
有員を上社大祝の祖とする説は、『神氏系図』や『千野姓古系図』『上社社例記』などの系図類に見られる。
しかし桓武天皇の皇子の中に有員親王の名は確認されておらず、伝承の成立には後世の政治的・宗教的意図があったと考えられている。
また、有員の伝承は「諏方大神大祝乙頴」「上社大祝神氏有員」という異なる人物の伝承が混同して成立した可能性も指摘されている。
一方、諏訪氏の出自についてはさまざまな説がある。
古代史料には「諏訪氏」の名は見えず、『三代実録』には金刺舎人の一族が諏訪郡の人として記されている。
また諏訪氏の祖先については「信濃国造の後裔説」「清和源氏の分流説」「桓武天皇皇胤説」「建御名方命の後裔説」など多くの説が伝えられている。
現在のところ、その真偽を確定することは難しく、諸説が併存しているのが実情である。
新たな文書の発見や今後の研究に期待したい。
出典 諏訪四賀村誌
