【上社御射山祭】 ~八ヶ岳山麓に重なる狩猟・豊穣・信仰の歴史~

【上社御射山祭】 ~八ヶ岳山麓に重なる狩猟・豊穣・信仰の歴史~

八ヶ岳山麓に営まれた御狩と穂屋の祭り

諏訪大社の御射山祭は、古くから上社と下社で同じ時期に営まれてきた重要な神事であり、別名を「穂屋祭」ともいう。


かつては旧暦七月二十六日から三十日までの五日間にわたって行われ、上社では八ヶ岳山麓、下社では八島高原へ上り、ススキの穂で葺いた仮小屋「穂屋」に籠って祭典を営んだと伝えられている。


現在の上社では、八月二十六日から二十八日までの三日間を基本として祭礼が営まれている。


御射山祭が行われるのは、秋の実りを目前に控えた時期である。一方、この頃は暴風雨によって農作物が大きな被害を受けやすい季節でもあった。


そのため祭りには、二百十日・二百二十日を控えた時期に、風雨の災いを避け、穏やかな秋と五穀豊穣を願う意味があったとされる。


中世になると、多くの武士が御射山祭へ参列するようになり、騎馬や弓矢、狩猟など、武士の生活や武芸と深く関わる行事が盛んになった。


このため後世には、御射山祭が狩猟と深く結びついた祭りとして捉えられるようになった。


その後、上社と下社では御射山祭の歩みに違いがみられるようになる。


鎌倉幕府の庇護を失った下社では祭礼が次第に衰退し、祭場を秋宮近くの二上山へ移して神事が続けられたとされる。


一方、上社では信濃武士を中心として祭礼が継続され、さらに祭場が里から比較的上りやすい場所にあったことから、多くの人々が参詣するようになり、祭礼の賑わいも増していったという。


しかし、御射山祭は狩猟だけでは捉えきれない。


穂屋に籠る山中の祭祀、風雨を鎮め五穀豊穣を願う祈り、神事として行われる御狩、そして中世武士の信仰など、複数の要素が長い歴史のなかで重なり合いながら形成されてきた祭礼なのである。


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八ヶ岳山麓の神野と御狩・穂屋


古く上社では、八ヶ岳山麓に広がる「神野(こうや)」を舞台として、春から秋にかけて四度の御狩が行われたと伝えられている。


旧暦五月の押立御狩(おしたてみかり)、六月の御作田御狩、七月の御射山御狩、九月の秋尾御狩であり、そのなかでも特に重要な神事とされたのが御射山御狩であった。


祭礼に臨む大祝をはじめとする神職たちは精進潔斎(しょうじんけっさい)し、里を離れて八ヶ岳山麓へ向かった。


途中、神野の入口にあった酒室(さかむろ)社で御手幣(みてぐら)を捧げ、そこから神聖な山野へ入ったとされる。


御射山に到着すると、夜には神楽や鼓の音とともに宵祭が営まれ、その後、数日間にわたって神事と御狩が行われた。


御狩とは、単に食料を得るための狩猟ではなく、神事として行われる狩りである。


大祝以下の神職たちは馬に乗って山野へ出て獣を狩り、得られた獲物を神へ奉納した。


当時の人々にとって、山野は生活に多くの恵みをもたらす一方、人間の力だけでは支配することのできない領域であり、そこで得られた獲物を神前に奉る行為には、山の恵みを神との関係のなかで捉える古い信仰観が表れていると考えられる。


また、御射山祭が「穂屋祭」とも呼ばれてきたことは、この祭りのもう一つの性格をよく示している。


穂屋とは、祭礼期間中に設けられる仮設の屋舎で、ススキなどを用いて葺かれたものとされる。


神職たちはこの穂屋に籠り、日常生活の場である里から離れて一定期間を過ごしながら神事に奉仕した。


祭礼が行われる旧暦七月末頃は、農作物が実りへ向かう時期であると同時に、暴風雨などによる被害が心配される季節でもあった。


そのため御射山祭には、風雨の災いを鎮め、穏やかな秋と五穀豊穣を願う祈りも重ねられていた。


このように御射山祭は、一つの社殿の中だけで完結する祭りではなかった。


里から山へ向かう道、神野、山林、祭場、穂屋などを含む広い空間そのものが祭祀の舞台であり、里を離れて神野へ入り、御射山に籠り、御狩を行って獲物を神へ奉り、再び里へ戻るという一連の流れが祭礼を構成していた。


さらに御射山祭には、御狩だけでなく、風雨を鎮め、農作物の実りを願う祈りも含まれており、山野の恵みを神へ奉る祭祀と、秋の実りを守るための祈りとが重なり合っていたのである。


御射山祭は、八ヶ岳山麓の山野を神聖な空間として捉え、山の恵みに感謝するとともに、里の実りを神に祈る祭礼であったとみることができる。


武士社会と御射山祭の変化


中世になると、御射山祭は、武士社会との関係を次第に強めていった。


馬を操り、弓矢で獲物を追う狩猟は、武士の武芸と深く結びついていた。


そのため御射山祭にも武士の参列が盛んとなり、狩猟や武芸を伴う祭礼としての性格が強く現れるようになった。


鎌倉時代には諏訪信仰が武士社会へ広がり、御射山祭にも多くの武士が関わるようになった。


なかでも上社の御射山では、信濃武士を中心として神事が営まれたと伝えられている。


祭礼の規模が大きくなるにつれて、御射山には神職や武士だけでなく、多くの人々が集まるようになり、祭礼期間には参詣者を相手とするさまざまな興行も行われ、山中に一時的な集落が形成されたかのような賑わいをみせたとも伝えられている。


このように中世の御射山祭は、神に祈りを捧げる祭祀であると同時に、武士をはじめ多くの人々が集う大規模な祭礼へと発展していった。


しかし、御射山祭は古代・中世から現在まで、同じ姿のまま続いてきたわけではない。


武士社会の衰退や、狩猟をめぐる制度・社会環境の変化によって、かつてのような御狩は次第に行われなくなった一方で、風雨の災いを鎮めて五穀豊穣を願う祭礼としての性格や、御射山そのものを神聖な場所として祭る信仰は受け継がれていった。


こうした変化は、祭りが本来の姿を失ったというよりも、時代ごとの社会や人々の暮らしに応じて、祭礼が再編されてきたものとみることができる。


現在、御射山祭は地域で「原山さま」とも呼ばれて親しまれている。


御射山一帯には「原山」と呼ばれる地籍があり、その名にちなみ、後世には「腹を病まない」御利益があるとも信じられるようになったという。


さらに、数え年二歳ほどの子どもの健やかな成長を願う信仰も加わり、現在では幼児の健康祈願のために参拝する人々もみられる。


かつて山野で御狩を行い、神へ獲物を奉った御射山祭は、長い歴史のなかで祭礼の形を変え、新たな祈りや願いを取り込みながら受け継がれてきた。


現在の「原山さま」には、古くからの御射山信仰に加えて、人々の健康や子どもの成長を願う、身近な祈りの場としての性格も重ねられているのである。


現在の御射山祭と神輿の渡御(とぎょ)


現在の上社御射山祭を特徴づけるものの一つが、本宮と御射山を結ぶ神輿の渡御である。


神輿は本宮から御射山へ一直線に向かうのではなく、道中の社や集落を巡り、それぞれの場所で神事を重ねながら八ヶ岳山麓へ上っていく。
現在の御射山祭では、この渡御そのものが重要な祭礼の一部となっている。


祭礼初日の八月二十六日には、国常立命の御霊代を奉じた神輿が本宮を出発する。


まず上社前宮へ向かい、前宮周辺の溝上社、柏手社で神事を行う。


その後、宮川御社宮司社、酒室神社へ進み、酒室神社では穂屋祭が営まれる。


さらに蚕玉社を参拝した後、原村方面へ向かい、柏木の虚空蔵菩薩、室内の闢廬社などを巡って、夕刻に御射山へ到着する。


主な経路は、本宮―前宮―溝上社―柏手社―宮川御社宮司社―酒室神社―蚕玉社―柏木虚空蔵菩薩―闢廬社―御射山となる。


翌二十七日には、建御名方命の神輿が本宮を出発する。


こちらは前日とは異なる経路を取り、宮川御社宮司社から原村柏木の大山祇神社、八ツ手の虚空蔵菩薩堂、中新田の津島神社へと進み、各地で神事を行いながら御射山へ向かう。


津島神社でも穂屋祭が営まれる。


主な経路は、本宮―宮川御社宮司社―柏木大山祇神社―八ツ手虚空蔵菩薩堂―中新田津島神社―御射山である。


このように、二日間の神輿はそれぞれ異なる経路を取り、宮川から柏木、室内、八ツ手、中新田など、八ヶ岳西麓の広い地域を巡って御射山へ向かう。


このように、現在の御射山祭は、御射山だけで完結する祭りではなく、本宮から御射山へ至る村々や神社を、一つの祭礼のなかに結びつける役割も担っている。


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御射山で営まれる本祭


建御名方命の神輿が御射山へ到着すると、本祭が営まれる。


御射山では御射山社だけでなく、大四御庵社、国常立命社、富士浅間社、西宮社、三輪社、神功皇后社、子安社、磯並社など、境内の諸社を順に巡って神事が行われる。


この形式からも、御射山が一つの社だけを中心とする祭場ではなく、複数の神々や祭祀地点を含む広い祭祀空間として捉えられていることがうかがえる。


本祭終了後、建御名方命の神輿は御射山を下り、途中の神戸八幡社で神事を営んだ後、本宮へ還る。一方、前日に御射山へ入った国常立命の神輿はそのまま御射山に留まり、二十八日の神事を終えた後、本宮へ還御する。


現在の祭礼には、神を里から山へ奉遷する―御射山で祭る―再び里へ還すという明確な構造がみられる。


現在の渡御経路を古代・中世の祭礼とそのまま同一視することはできないが、里から山へ赴き、道中の祭祀地点を巡りながら御射山で神事を営むという点には、古くからの「山へ向かう祭り」という性格が、形を変えながら受け継がれていることがうかがえる。


御射山祭が伝えるもの


上社御射山祭には、長い年月のなかで、さまざまな時代の祭祀や信仰が重なり合っている。


穂屋に籠って風雨の平穏と五穀豊穣を祈る祭祀、八ヶ岳山麓の神野で御狩を行い獲物を神へ奉る神事、中世武士と狩猟・武芸との結びつき、そして現在の神輿渡御である。


祭りの姿は時代によって大きく変化してきた。


しかし、八ヶ岳山麓の御射山を特別な祭祀の場とし、里から山へ赴いて神を祭るという性格は、形を変えながら受け継がれてきたと考えられる。


御射山祭とは、山の信仰、農耕への祈り、御狩、中世武士の文化、そして地域社会の信仰が重なり合いながら形成されてきた祭礼である。


現在の「原山さま」の祭礼にも、かつて人々が八ヶ岳山麓へ入り、一定期間を山中で過ごしながら神事を営んだ御射山祭の歴史が、形を変えながら受け継がれているのである。


御射山社(上社)


ここに鎮座する御射山社は、建御名方命と国常立命を祭神としている。


中世には、この社のある通称原山の一帯は神野と呼ばれる諏訪上社の社領で、上社の御射山御狩の祭事が行われていた。


それは秋季の台風などが平穏に過ぎ、五穀が豊かに稔るように祈願する「風祭り」の意義をもつものであった。


祭事は旧暦の七月二十六日から三十日までの五日間にわたり、穂屋(ススキで囲った仮屋)を造営して大祝・神長官をはじめ多数の神官や武士などが参籠し、狩りを行って獲物を神に供え、豊作を祈願し、また流鏑馬などの武技競べも行われたと伝えられる。


これらの祭事は鎌倉時代以降、内容の変化や戦乱などによる一時的な中断はあったものの、数百年間にわたって継承された。


明治以降には庶民の民俗的信仰と結びついて幼児の健康祈願も行われるようになり、一般に「原山様」とよばれ、昭和初期までは草競馬や露天商も加わっての賑やかな祭りであった。


けれど、こうした祭事の舞台となった広大な神域も、明治中期の下原山入合地の分割によって一〇ヘクタールほどに縮小され、さらには太平洋戦争中の開墾と戦後の農地解放によって半減した。


御射山神戸村は古くからこの祭事の賦役奉仕を受け持たされていたので、神社とはとくに密接な関係にあり、集落から社までの参道に立派な松並木が続いていた。


それも時世の推移につれて失われ、今では三〇〇メートルほどに残る老松が往時の様を伝えている。


富士見町教育委員会設置の説明板より


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出典 信州の神事

出典 諏訪諏訪大社上社御射山祭の歴史と民俗 調査報告書 名古屋大学諏訪文化研究会著 石川俊介著

出典 [信州の大紀行]シリーズ4 諏訪大紀行

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