地域に受け継がれた考古学の伝統~『諏訪史第一巻』から次の百年へ~

地域に受け継がれた考古学の伝統~『諏訪史第一巻』から次の百年へ~

諏訪の考古学と縄文文化~八ヶ岳山麓の大地に刻まれた歴史と研究の歩み~

諏訪湖を中心に、八ヶ岳や霧ヶ峰の山々に囲まれた諏訪地方は、日本でも有数の縄文遺跡が集中する地域として知られている。


八ヶ岳山麓には数多くの集落跡が残され、霧ヶ峰周辺では石器の材料となる良質な黒曜石が産出する。


各地から発見された精巧な石器や独特な造形の土器、土偶は、この地に暮らした人々の生活と文化を今日に伝えている。


しかし、こうした諏訪の古い歴史が学術的な調査によって明らかにされるようになったのは、近代以降のことである。


明治時代から大正時代にかけて、郷土の歴史に関心を寄せた教師や研究者たちが各地の遺跡を訪ね、遺物を採集し、調査を重ねることによって、その実態が次第に明らかになっていった。


その歩みを象徴するのが、大正十三年(一九二四)十二月に刊行された『諏訪史第一巻』である。


この書物は、諏訪地方の先史時代を本格的に研究し、その成果を体系的にまとめた先駆的な業績であり、刊行から百年余りを経た今日も、諏訪の考古学研究史を語るうえで欠かすことのできない存在となっている。


郷土の歴史を明らかにした教師たち

諏訪地方における近代的な郷土研究の出発点は、明治時代の教育活動に求められる。


明治十五年(一八八二)、地域の教師たちによって諏訪郡教育会が組織され、当時の教師たちは、学校教育の充実を図るだけでなく、郷土の自然や地理、歴史、文化を調べ、その成果を教育に生かすことにも強い関心を寄せていた。


郷土を深く理解することが教育の充実につながるという考え方のもと、各地の教師たちは身近な歴史資料の収集を進め、やがて、その関心は古墳や石器、土器などの考古資料にも向けられるようになった。


明治二十六年(一八九三)には、現在の茅野市にある尖石遺跡について、地元の小平小平治が学界に報告している。


当時はまだ「尖石遺跡」という名称ではなく、「広見の遺跡」として紹介されていた。


こうした活動は、必ずしも専門的な考古学研究として始まったものではなかった。


しかし、地域の人々が自ら土地を歩き、遺跡や遺物に関心を寄せ、記録を残したことが、その後の本格的な調査を支える基盤となった。


諏訪の考古学は、地域の教育活動と深く結び付く中で育まれていったのである。


『諏訪史第一巻』の編纂と鳥居龍蔵

大正七年(一九一八)、諏訪地方の歴史を体系的にまとめる郡史編纂事業が始まった。


当初は郡役所が担っていた事業であったが、その後、信濃教育会諏訪部会へと引き継がれ、地域の教師たちが中心となって調査と編纂を進めることになった。


編纂事業では、岡谷出身の歴史学者・今井登志喜が全体の取りまとめに関わり、考古学分野には東京帝国大学の鳥居龍蔵が迎えられた。


鳥居龍蔵は、大正七年十一月に諏訪を訪れ、郡内各地の古墳や遺跡の調査に着手した。


その後も繰り返し諏訪へ足を運び、石器や土器、住居跡などを調べるとともに、山間部の黒曜石産地にも関心を向けた。


調査には地元の教師や学生、郷土の研究者たちも協力し、専門研究者の学術的な知識と、地域の人々が持つ土地への理解が結び付いたことは、この事業の特徴であった。


一方、編纂事業は決して順調に進んだわけではない。


広範囲に及ぶ現地調査、膨大な資料の整理、刊行費用の確保など、多くの課題を抱え、調査と執筆を進める過程では、事業の運営や刊行方法についても調整が重ねられ、大正十三年十二月、鳥居龍蔵の著した『諏訪史第一巻』が刊行された。


第一巻では、縄文時代から古墳時代に至る諏訪地方の歴史が、豊富な調査資料をもとに体系的に論じられ、単に各地の遺跡や遺物を紹介するのではなく、それらを相互に比較し、諏訪地方の先史文化を一つの歴史として捉えようとした。


この成果は、地方史の編纂でありながら、当時の日本考古学の研究にとっても意義深いものであった。


八幡一郎・宮坂英弌・藤森栄一の研究

諏訪市博物館 特別展『 写真で振り返る諏訪市の80年 』の写真より


『諏訪史第一巻』の編纂を通じて培われた研究の精神は、その後の考古学者たちへと受け継がれていった。


その代表的な人物の一人が、岡谷出身の八幡一郎である。


八幡一郎は諏訪中学校の生徒時代から鳥居龍蔵の調査に関わり、後に日本考古学の発展に大きく貢献する研究者となった。


八幡一郎の研究には、実際に遺跡を歩いて資料を集め、地域の歴史を広い視野から考察するという特徴があった。


諏訪の地で培われた調査経験は、その後の研究活動の基礎となったのである。



また、諏訪地方の縄文集落研究を大きく進展させたのが、宮坂英弌である。


宮坂英弌は、昭和五年(一九三〇)から尖石遺跡の発掘を始め、やがて土器や石器の収集にとどまらず、縄文人がどのような場所に住み、どのように集落を形成していたのかを明らかにしようとした。


戦後には与助尾根遺跡の調査を進め、多くの竪穴住居跡を発掘した。


この調査には地元の中学生や高校生、若い研究者たちも参加し、その中には、後に縄文農耕論を提唱する藤森栄一や、考古学界で活躍する戸沢充則らの姿もあった。


宮坂英弌の研究は、縄文時代の集落を一つのまとまりとして捉え、その構造や変遷を考察する点で成果を残した。


さらに、昭和二十四年(一九四九)には、発掘された住居跡をもとに竪穴住居の復元が行われた。


これにより、出土資料だけでは想像しにくかった縄文人の暮らしが、具体的な集落の姿として示されることになった。



一方、藤森栄一は、八ヶ岳山麓の豊かな縄文文化に着目し、縄文人の生業や社会について独自の研究を進めた。


特に「縄文農耕論」は、縄文時代を狩猟・採集中心の生活として捉える従来の見方に問いを投げかけた研究として知られる。


その仮説のすべてが現在の考古学で定説となっているわけではない。


しかし、出土した石器や土器を人々の具体的な生活と結び付けて考えようとする姿勢は、その後の縄文研究に大きな影響を与えた。


鳥居龍蔵や八幡一郎、宮坂英弌、藤森栄一らの活動を通じて、現地調査を重視する諏訪の考古学研究の伝統が形づくられ、次の世代へと受け継がれていったのである。


黒曜石が結んだ先史時代の交流

諏訪地方の先史文化を考えるうえで、欠かすことのできないものが黒曜石である。


黒曜石は、火山活動によって生まれた天然のガラス質の岩石で、割ると鋭い刃をつくることができる。そのため、旧石器時代から縄文時代にかけて、石器の材料として広く利用されてきた。


霧ヶ峰や和田峠周辺は、日本を代表する黒曜石の産地として知られている。


この地域の黒曜石は、諏訪地方だけで使われたのではなく、関東や東海地方など、遠く離れた地域の遺跡からも発見されている。


その分布からは、当時の人々の移動や集団間の交換など、地域を越えた広域的な交流があったことがうかがえる。


また、下諏訪町の星ヶ塔黒曜石原産地遺跡では、大正九年(一九二〇)の鳥居龍蔵の調査に始まり、その後も八幡一郎や藤森栄一らによって研究が進められた。


とりわけ昭和三十四年(一九五九)から三十六年にかけての藤森栄一による調査では、山中に残された多数のくぼみが縄文時代の黒曜石採掘跡であることが明らかにされた。


これによって、縄文人が地表の石を拾って利用するだけでなく、良質な石材を求めて地中を掘り、採取していたことが具体的に知られるようになった。


黒曜石の産地と利用地が明らかになっても、当時の人々がどのような経路を通り、いかなる仕組みで交流していたのかを直接知ることは容易ではないが、石材の産地分析と各地の遺跡の分布を比較することで、先史時代の人々の広域的なつながりが少しずつ明らかになってきている。


諏訪を取り囲む山々は、人々の行き来を妨げる境界であると同時に、各地を結ぶ交流の舞台でもあったのである。


八ヶ岳山麓に発展した縄文集落


縄文時代になると、諏訪地方では人々の生活のあり方が次第に変化していった。


土器の使用が広まり、森林の木の実や山野の動植物、水辺の資源を利用しながら、一定の場所に住居を構えて生活する集団が増えていった。


特に八ヶ岳西麓は、豊かな森林と水資源に恵まれ、縄文人が暮らすうえで好条件を備えていた。


原村の阿久遺跡は、縄文時代前期の大規模な集落遺跡として知られている。


この遺跡では、住居跡のほか、環状に配置された集石群や立石、列石などが発見されている。


こうした遺構は、集落が単なる生活の場ではなく、共同体の儀礼や埋葬などにも関わる空間であった可能性を示している。


縄文時代中期になると、八ヶ岳山麓では集落がさらに発達した。


茅野市の尖石遺跡や与助尾根遺跡、富士見町の井戸尻遺跡などは、その代表的な存在である。


これらの遺跡からは、数多くの竪穴住居跡や土器、石器などが発見され、縄文人の生活の一端が明らかになっている。


特に八ヶ岳山麓では、縄文時代中期に遺跡が集中し、集落の規模も大きくなったことが知られている。


その背景には、自然資源に恵まれた環境に加え、人々の生業活動や集団間の交流が関係していたと考えられる。


ただし、集落の発達や衰退を自然環境だけで説明することはできず、気候や植生の変化、社会的な要因なども含め、さまざまな角度から検討する必要がある。


八ヶ岳山麓の縄文文化は、自然と人間の営みが長い時間をかけて関わり合う中で発展したのである。


土器と土偶に表れた縄文人の精神文化


諏訪地方の縄文文化を特徴付けるものとして、独特な造形を持つ土器や土偶が挙げられる。


特に縄文時代中期の土器には、立体的な装飾や複雑な文様が施されたものが多く、単なる生活道具としての機能を越えた表現が見られる。


富士見町の井戸尻遺跡をはじめ、八ヶ岳山麓から出土した土器には、動植物を連想させる装飾や、見る人に強い印象を与える造形が見られる。


こうした文様については、自然界の動植物や人々の信仰、神話的な観念との関係など、さまざまな解釈が試みられてきた。


しかし、文様が何を意味していたのかを確定することは難しく、出土状況や他の遺跡の資料と比較しながら、慎重に考える必要がある。


また、茅野市の棚畑遺跡から出土した国宝「縄文のビーナス」と、中ッ原遺跡から出土した国宝「仮面の女神」は、縄文人の豊かな造形表現を伝える代表的な土偶である。


「縄文のビーナス」は縄文時代中期、「仮面の女神」は縄文時代後期の土偶であり、それぞれ異なる時代の特徴を示している。


これらの土偶には、人間の身体を独特な形に表現する工夫が見られ、当時の人々の精神文化を考えるうえで貴重な資料となっている。


土偶の意味や用途については、生命の誕生や豊穣への願い、祭祀との関係などが論じられてきたが、なお明らかでない部分も多いが、縄文人が日常の道具をつくるだけでなく、自らの思いや観念を形あるものとして表現していたことは、これらの遺物からうかがうことができる。


地域に受け継がれた考古学の伝統~『諏訪史第一巻』から次の百年へ~


諏訪地方の考古学が今日まで発展してきた背景には、専門研究者だけでなく、郷土の教師や市民、博物館、自治体などの継続的な活動があった。


戦後になると、土地開発や道路建設に伴って各地で発掘調査が進められ、それまで知られていなかった遺跡の存在が次々と明らかになった。


一方で、開発によって遺跡が失われる危険性も増し、文化財の保護や調査資料の保存が重要な課題となった。


昭和六十三年(一九八八)に設立された諏訪考古学研究会も、先人たちが築いてきた研究の伝統を受け継ぎながら、調査研究や学習会、見学会、研究成果の普及などに取り組んできた。


こうした活動の根底には、明治時代の教師たちが抱いた、郷土の歴史を自ら学び、後世へ伝えようとする姿勢がある。


諏訪の考古学は、大学や研究機関だけで発展したものではなく、地域に暮らす人々が身近な遺跡に関心を寄せ、資料を集め、記録を残し、研究者と協力してきたことによって支えられてきたのである。


大正十三年(一九二四)の『諏訪史第一巻』刊行から百年余り、諏訪の考古学が歩んできた歴史を振り返るとき、そこには二つの側面がある。


一つは、八ヶ岳山麓と諏訪湖周辺に暮らした先史時代の人々の歴史を明らかにしてきたことである。


黒曜石の分布は旧石器時代以来の人々の移動や交流を考える手掛かりとなり、集落跡は縄文人の生活と共同体の姿を伝え、土器や土偶は、当時の人々の豊かな表現力や精神文化を考えるうえで貴重な資料となっている。


もう一つは、郷土の歴史を研究し、後世へ伝えようとした人々の歩みそのものが、諏訪の歴史の一部となっていることである。


鳥居龍蔵や八幡一郎、宮坂英弌、藤森栄一らは、それぞれの時代の学術的な課題に向き合いながら、諏訪の遺跡や遺物を調査し、その歴史を日本列島全体の歴史の中に位置付けようとした。


こうした研究の積み重ねが、今日の諏訪の考古学を支える基盤となっている。


しかし、考古学の研究は完成したものではない。


新たな発掘調査や分析技術の進歩によって、従来の解釈が見直されることもあれば、長く不明であった事柄が明らかになることもある。


だからこそ、先人たちが残した記録を大切にしながら、遺跡や遺物に問いを重ねていくことが重要なのである。


八ヶ岳山麓と諏訪湖周辺には、今なお数多くの遺跡が残されている。


それらは、かつてこの地に暮らした人々の足跡であり、その歴史が今日まで明らかにされてきた背景には、先人たちのたゆまぬ探究と努力があった。


諏訪の考古学の歩みは、先史時代の人々の歴史を明らかにする歩みであり、同時に、郷土の歴史を後世へ伝えようとしてきた人々の歩みでもある。


『諏訪史第一巻』から次の百年へ。


先人たちが築いた研究の伝統を受け継ぎ、諏訪の大地に刻まれた歴史を読み解いていくことが、これからの世代にも求められている。


出典 『諏訪史第一巻』から―次の百年へ 諏訪考古学研究会

出典 [信州の大紀行]シリーズ4 諏訪大紀行

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