【御頭祭】~春を告げる上社前宮の大祭~
春を告げる上社前宮の大祭

諏訪大社上社に伝わる「御頭祭(おんとうさい)」は、諏訪地方の古い信仰を今に伝える代表的な祭りである。
現在は毎年四月十五日、上社本宮から前宮へ神輿が渡り、前宮の十間廊を中心に祭典が行われている。
しかし、昔の御頭祭は現在よりもはるかに規模が大きく、さまざまな神事を伴って行われる重要な祭祀であった。
御頭祭というと、「鹿の頭を七十五頭供える祭り」という話がよく知られている。
確かに鹿は、この祭りを象徴する重要な供物であったが、その歴史を詳しく見ていくと、鹿を供えることだけが祭りの目的ではなかったことが分かる。
昔の御頭祭は、旧暦三月の「酉の日」に行われたことから、「酉の祭」とも呼ばれていた。
旧暦三月は春を迎える時期にあたり、長い冬が終わって田畑の仕事が本格的に始まる季節であることから、諏訪の人々にとっても、新しい一年の農作業が始まる大切な時期であった。
そのため御頭祭には、春の訪れを迎え、地域の平穏と一年の豊作を神に願う、農耕儀礼としての側面もあったと考えられる。
さらに、神の使いである「神使(おこう)」を各地へ送り出し、諏訪大神の神威を地域へ広げていくことも、この祭りの大切な役割であった。
中世の上社では、一年を通じて非常に多くの神事が営まれていた。
これらは年間「七十五度(しちじゅうごたび)」とも称され、御頭祭はその中でも、とりわけ重要な祭儀の一つとして位置づけられていた。
御頭祭は、単に鹿の頭を神前に供える祭りではなく、自然の恵みに感謝し、新しい一年の豊穣を願い、諏訪大神の神威を人々の暮らす地域へ送り出す、上社を代表する春の大祭だったのである。
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鹿の頭を供える神事

御頭祭の舞台となったのが、現在の茅野市宮川にある諏訪大社上社前宮である。
前宮には「十間廊」と呼ばれる建物があり、現在も御頭祭の中心的な祭場となっている。
かつての御頭祭では、この十間廊に鹿や猪などの獣、鳥、魚類をはじめ、山や川から得られたさまざまな食物が神饌として供えられた。
中世の諏訪信仰を伝える『諏方大明神画詞』には「禽獣ノ高盛、魚類ノ調味、美ヲ尽ス」と記されており、鳥獣や魚類など数多くの供物が盛大に神前へ捧げられていたことがうかがえる。
なかでも御頭祭を象徴するものとして知られているのが鹿の頭で、後世の記録や伝承では、十間廊に七十五頭もの鹿頭が並べられたとされる。
さらに、その中には毎年一頭、耳の裂けた鹿があったという伝承が残され、これは「高野の耳裂鹿」と呼ばれ、「諏訪の七不思議」の一つとして語り継がれている。
ただし、七十五頭という数や耳裂鹿の伝承が古くからまったく同じ形で続いていたと考えることには慎重さが必要であり、中世・近世の記録や後世の伝承が重なりながら、現在知られる御頭祭の姿が形づくられてきたと見るのがよいだろう。
また上社では、御頭祭だけでなく、正月元日の蛙狩神事でも動物を神前に供える祭儀が伝えられている。
『諏方大明神画詞』には、氷を割って現れた蛙を小弓と小矢で射て神に供える様子が記されている。
こうした祭祀からは、諏訪上社の信仰に、山野の獣や水辺の生き物を神へ供える古い祭祀のあり方が深く関わっていたことがうかがえる。
それは単に動物を供えることだけを目的としたものではない。
鹿や鳥、魚などは、人々が自然から得た大切な恵みでもあり、その一部を神に捧げることで感謝を示し、再び豊かな恵みがもたらされることを願ったと考えられる。
御頭祭が行われる春は農耕が始まる季節でもあることから、この祭りには、山野の恵みに関わる狩猟的な祭祀と、五穀豊穣を願う農耕の信仰とが重なり合っているとみることができる。
前宮の十間廊に並べられた数多くの供物は、そうした諏訪の信仰世界を象徴するものであり、御頭祭は自然の恵みを神に捧げて感謝するとともに、新しい一年の豊穣を願う春の祭りでもあったのである。
御頭祭と神使(おこう)

昔の御頭祭を理解するうえで、重要な役割を担っていたのが「神使(おこう)」である。
御頭祭は旧暦三月の酉の日だけで完結する祭りではなく、正月から春にかけて行われる一連の祭祀の中に位置づけられていた。
正月には「御占」が行われ、その年に神の使いを務める神使が選ばれた。
神使は六人いたとされ、選ばれた者たちは身を清め、春の祭りに備えた。
正月の終わり頃になると、御頭祭を担当する村々も祭礼の準備を始める。
三月に御頭祭が行われると、神使は前宮での神事を経て、各地へと出発した。
神使は、諏訪大神と特別な関係を持つとされた「大祝」の代理として村々を巡り、土地の平穏や五穀豊穣を祈った。
神使は、前宮の祭場の中だけで役目を果たしたのではなく、御頭祭を通して諏訪大神の神威を受け、それを地域へと伝える役割を担っていたのである。
御頭祭の古い呼び名として「大御立座(おおみたてまし)」などが伝えられている。
「御立」という言葉には、立ち上がる、あるいは出発するといった意味があり、神使が前宮から各地へ旅立つことと関係していたと考えられる。
このように見ると、御頭祭は単に前宮で供物を捧げる祭りではなかった。
正月に神使を選び、潔斎と祭りの準備を重ね、春の御頭祭を経て神使を各地へ送り出す一連の祭祀であった。
そこには、諏訪大神の神威を前宮から地域へ広げ、新しい一年の平穏と五穀豊穣を願う意味が込められていたのである。
饗膳(きょうぜん)の儀と神使の旅立ち

御頭祭では、神前に多くの供物を捧げた後、「饗膳(きょうぜん)の儀」と呼ばれる重要な儀式が行われた。
鹿や鳥、魚などの供物は、ただ神に捧げて終わるものではなく、人々もその食をともにすることで、神と人との結びつきを確かめる意味があったと考えられる。
自然から得た恵みを神に感謝して捧げ、その恵みを人々も分かち合うことは、御頭祭の大切な意味の一つであった。
この饗膳の儀と深く関わっていたのが、「御杖柱(みつえばしら)」と呼ばれる特別な祭具である。
御杖柱は「おこう柱」、あるいは「御贄柱(おにえばしら)」とも呼ばれた。
饗膳の儀に参加する人々は自分の髪を一筋ずつ取り、榊につけて神前に捧げ、それを神長が取り集めて結び合わせ、御杖として奉納したという。
また、神宝である「佐奈伎(さなぎ)の鈴」も袋に納められ、神使が身につけるために用意された。
やがて饗膳の儀が進み、祭りが最高潮を迎えると、神長は神使である「おこう様」に御杖柱を背負わせ、佐奈伎の鈴を首に掛け、馬に乗せた。
その頃には日も暮れ、前宮の神原には黄昏が迫る。
内御魂殿、中部屋御殿、十間廊などの軒に掛けられた灯籠に火がともり、境内では篝火や松明が燃え、雅楽の調べが響いた。
その中を馬に乗った神使を先頭に一行が出発し、神殿の周囲を逆回りに三度巡ったと伝えられている。
この神殿めぐりは、単なる境内の巡回ではなく、神使が諏訪大神の神威を受け、大祝の代理として各地へ旅立つための、いわば門出の儀式であったと考えられる。
農耕の季節を迎えた春、六人の神使は前宮を出発し、内県・大県・外県などの村々を巡り、土地の平穏と五穀豊穣を祈願した。
前宮の祭場に集められた神の力を神使に託し、それを各地へと広げていくことが、御頭祭の重要な役割の一つだったのである。
古い御頭祭の祭儀は、大きく見ると、十間廊で行われる「饗膳の儀」、神原で御杖柱を用いて諏訪大神を迎える神儀、そして神使一行による神殿めぐりと出立という三つの段階から成っている。
神前に自然の恵みを捧げ、神と人がその恵みを分かち合い、次に神使が特別な祭具を身につけ、最後に神の力を携えて地域へと旅立っていく。
こうした一連の儀式を経て、神使は諏訪大神の神威を託され、大祝の代理として各地へ送り出されたと考えられる。
御杖柱や佐奈伎の鈴、灯籠や篝火に照らされた神殿めぐりは、神使の旅立ちを象徴する重要な儀式であった。
御頭祭は、神に供物を捧げるだけの祭りではなく、神と人が饗膳を通して結びつき、その神威を神使に託して地域へ送り出すという、大きな意味を持つ春の祭りだったのである。
御頭郷(おとうごう)が祭りを支えた

これほど大きな祭りを、神社だけで行うことはできなかった。
御頭祭を支えたのが「御頭郷(おとうごう)」と呼ばれる村々である。
御頭を担当する村は、神前に供える品々を準備したり、祭礼に必要な費用を負担したりした。
残されている記録を見ると、各村がかなりの費用を負担していたことが分かる。
御頭を務めることは名誉であった一方、村にとっては大きな負担でもあった。
さらに、どの村が上席に座るのか、どれだけ費用を負担するのかをめぐって争いが起きることもあった。
近世になると、この制度はさらに細かく整えられ、諏訪地方の村々が順番に御頭を務めるようになった。
江戸時代には負担を分散するために、諏訪の親郷を十五の組に分け、交代で御頭をつとめるようになったとされる。
こうした御頭郷の仕組みは、時代とともに形を変えながら現在まで受け継がれている。
現在は諏訪地方を十地区に分け、毎年一地区ずつ順番に御頭を務めている。
元日に諏訪大社で「御占神事」が行われ、その年に奉仕する地域を定める形をとっているが、実際には十地区が順番に担当する仕組みとなっている。
第一部 原、本郷、境
第二部 落合、富士見、金沢
第三部 湊、川岸
第四部 豊平、泉野、玉川
第五部 ちの、宮川
第六部 中洲、湖南
第七部 下諏訪、長地
第八部 旧岡谷市
第九部 米沢、北山、湖東
第十部 上諏訪、四賀、豊田
御頭祭は、諏訪大神を祀る神事であると同時に、諏訪の村々が祭りを共同で支えてきた歴史と、諏訪地域全体が長い年月をかけて祭りを支えてきた歴史と、地域社会の結びつきを今に伝える祭りでもあった。
狩猟と農耕が出会う祭り

御頭祭の大きな特徴の一つは、狩猟と農耕という二つの要素が重なり合っていることである。
祭りでは、鹿や猪、鳥、魚など、山や川から得られたさまざまな恵みが神前に供えられた。
そこには、自然の恵みに感謝しながら暮らしてきた諏訪の人々の古い信仰をうかがうことができる。
一方、御頭祭が行われる春は、長い冬が終わり、田畑の仕事が始まる季節でもあった。
神使は諏訪大神の神威を受けて各地を巡り、土地の平穏と五穀豊穣を祈ったとされる。
御頭祭には、山野の恵みに感謝する信仰と、農作物の豊かな実りを願う農耕の信仰とが重なり合っていたのである。
時代とともに祭りの姿は変化し、神使の巡行や御杖柱を用いた古い儀式の多くは行われなくなった。
旧暦三月の酉の日に行われていた御頭祭も、明治以降は四月十五日に行われるようになった。
それでも、本宮から前宮への渡御、十間廊、鹿の頭や神饌、地域が御頭を務める仕組みなどには、昔の祭りの面影が今も残されている。
御頭祭は、単に「鹿の頭を供える珍しい祭り」ではなく、そこには、自然の恵みへの感謝、豊作への願い、諏訪大神の神威を各地へ届ける神使、そして地域の人々が力を合わせて祭りを支えてきた歴史がある。
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【神長官守矢史料館】 諏訪信仰の古き歴史を知る。
出典 [信州の大紀行]シリーズ4 諏訪大紀行
出典 諏訪市史 中巻
出典 信州の神事
