諏訪明神伝説~一年の計は元旦あり~
大晦日の宵
越沼河比売命(こしぬまかわひめのみこと)、またの名を御母の命、御坐石様(ございしさま)という建御名方命(たてみなかたのみこと)の母神が州羽へ落ちつかれてはじめての歳越しである。
建御名方命(たてみなかたのみこと)夫妻は大晦日の宵、母神の許へ挨拶に訪れた。
すぐにお帰りになる予定であったが、母神は非常にお喜びになられ、果ては出雲の国のこと、越の国の思い出話と、夜の更けるのを忘れて話が弾んだ。
他の日ならお泊りになられるが、大晦日のこととて、おいとまされて前宮へお急ぎになった。
犬射原(乾原)を抜けるころには、最早東の空は元旦をつげて、ほのぼのと美しかった。
犬射原(いぬいばら)社
犬射原社は諏訪大社上社の末社で、祭神は大己貴命・建御名方命、祀られた年歴は明らかではない。
桓武天皇の延歴年間の末(八〇〇)頃に、諏訪神社式年造営の行われた時、この社も末社の故をもって御造営されたと伝えられるところからもその古さがうかがわれる。
また古代から、信濃国各郷村の課役をもって、毎年四月十五日に流鏑馬神事が、また同月二十七日の矢ヶ崎祭(どぶろく祭)には犬追物の規式が行われたといわれる。
特に犬追物の規式は我国の創始で、神事次第等旧記には三十二匹の犬と四十八本の矢を各村に割当てた記録が残っている。
この一帯は犬射原と呼ばれ、天文十一年七月諏訪頼重は甲州武田勢を迎え討つため、犬射原楡の木に陣したが戦利あらず、退いて上原城を焼き、ついに桑原城で敗れて囚われた。
当初の境内は十丁四面の原野であったが天正の乱(一五八二)以後次第にすたれ、今日はこの一画を残すのみとなった。
茅野市教育委員会設置の説明板より
大神の命は思わず立ち止まられて、
「おお快い元旦だ。ここで大歳を迎えるとしよう。」
と、羽場近くの霜深い芝生に、皮の茵(しとね)を敷かれ、正月酒にと、母神から贈られた黒酒(くろき)を八百万の神々に捧げ、御母神の息災、御子神達の無事を念じた。
明けゆく彼方に鎮まる前宮を眺め、后の神と御子神の寝顔を思い浮かべられてほほえまれた。
「一年の計は元旦。」と、高らかに仰せられて后の神の酌に、ささを重ねられ、お供の人達にも祝われ、上機嫌であった。
大年社(おおとししゃ)
大年社は、諏訪神社上社の末社で、祭神は大歳神で、祀られた年代は明らかでない。
『年内神事次第旧記』等によると、古くは神田五段があったとされ、天正六年の『上諏訪方造宮帳』には、「大歳宝殿、玉垣鳥居、是も近年退転、御園粟沢之役」とあって、古くから信濃国格郷村の課役によって造営されていたことがうかがえる。
四月二十七日の御座石神社の矢ヶ崎祭り(通称どぶろく祭り)には、饗膳の用意が整うと野火(狼煙)をあげ、その煙を見て各大年宮に詣でるとされ、『諏訪大明神画詞』のなかにもくわしく述べられている。
神祭は、矢ヶ崎祭りの当日に行われ、矢ヶ崎祭りの濁酒が一荷奉納される古習は現在も続いている。
大祝の職位(即位)にあたって十三所の御社参りをする時に、十二番目に参詣されるところをみても、この神社と諏訪神社との関係は深い。
さらに御座石神社同様、御柱を建てず、その代わり七年ごとに素朴な鳥居を建てるなど、古風を多く残している。
茅野市教育委員会設置の説明板より
大神の命としては、野外の元旦は此処しばらくぶりである。
老臣達には、多難であられた過去幾歳月の正月を思い出されている様子に見受けられるのであった。
いよいよ出発に「一年の計は元旦にあり。」と、再びおっしゃった。
大神はまことに愉快そうにして、久し振りに行進の歌を高らかに、御自身が音頭をとって歌われながら坂を(唄う坂(うとう坂))を下られ、勢いよく鷹部へ掛けて直行された。
うとう坂
下馬沢で馬を下り、尾根上に立たれ果てしなくつづく枯草原に火を放たしめられたのである。(此処を「火口」(諏訪市中洲神宮寺樋口)という。)
折柄、元旦の微風に枯草原は快く焼けつづけていく。
大神の命夫妻は、近臣と共に元旦の青空に向かって、「幸先(さいさき)よし。」と、高らかに笑い合って今年の耕作の計画を胸にえがかれた。
野焼の火は、きれいに草木を焼きつくし、一里半先の川を境に焼き止りまった。
知らせを受けられた大神は、直ちに出かけになられ、焼け止った川を「野明川」と名づけられた。
この場所の中の神殿から、天門に当る方位に神を祀った。
野明神社又は野明明神と呼ばれ、野焼(のやけ)、野炎等書かれ、現在は習焼(ならやけ)神社と名づけられている。
第一の焼墾(やきばり)の神と崇め、更にこの農耕の神の風門に守護神を祀り、開墾の第一歩を始められたのである。
習焼神社は諏訪大社の獨立攝社である
古来野明神社又は野明々神と呼ばれているが野焼、野炎等と書かれた場合もある。
祭神は諏訪明神建御名方神の御子神で諏訪若彦命と素戔嗚命を祀ってある。
當社は古く鎌倉時代より北条氏に認められていたもので、その後、武田信玄も大切に取扱った社の一つである。
境内もはるかに広かったらしく、馬場通り流鏑馬などは謝礼にゆかりある地名で當時の境内であったと思われる。
ヤブサメ社の小祠と真弓塚は名残をとどめている諏訪大社との関係は昔から特に深く現在でも毎年四月二十二日の例大祭(くさ餅祭り)には大社より献幣使が参向していとも最靑なる祭典が行はれている
當社の特殊神事
七月中旬 除蝗祭(稲虫祭)
八月二十二日 鎮火祭(火 祭)
習焼神社に掲げてある説明板より
諸説あり
出典 諏訪ものがたり 今井野菊 著
『一年の計は元旦あり』
『一年の計は元旦にあり』は一年の計画を立てるのに元旦は良い機会だといった意味のことわざである。
年の始めにきちんとした計画を立て、それを実行することで、その一年が有意義な一年になるという意味合いとして使う。
由来、ルーツについて調べると、日本の戦国武将、毛利元就の言葉だとする説と、中国の書籍「月令広義」(げつれいこうぎ)とする二つの説のが有力として出てくる。
しかし、由来となる毛利元就の一五五八年の長男の毛利隆元へあてた手紙の中では、「一年の計は春にあり」とあり「元旦」とは記述されていない。
そして、「月令広義」の由来に該当する漢文は「一年之計在春(一年の計は春にあり)」とあり、こちらも「元旦」とは記述されていない。
諏訪明神伝説が「一年の計は春にあり」を「一年の計は元旦にあり」に換えて広めた物語ではないのだろうか